2025年9月28日日曜日

大杉栄とその時代年表(631) 1905(明治38)年12月1日~3日 「12月3日の夕方、ペテルブルク・ソヴィエトは軍隊に囲まれた。出入口はすべてふさがれた。執行委員会が会議を行なっていた2階桟敷から私は、1階ホールにあふれていた数百人の代議員に向かって叫んだ。  『抵抗はするな。だが武器は敵の手に渡すな!』。 彼らが手に持っていた武器は拳銃だった。そして、すでに四方を近衛連隊の歩兵、騎兵、砲兵で包囲されていた会議場の中で、労働者は武器を使えないようにしはじめた。・・・・・金属のぶつかりあう音、がちゃがちゃする響き、金属の破壊される時のきしんだ音は、プロレタリアートの歯ぎしりのように聞こえた。」(トロツキー『わが生涯』)

 

第1次ペテルブルク・ソヴィエトを指導したメンバー

大杉栄とその時代年表(630) 1905(明治38)年12月 「拝啓本日書店より『芸苑』の寄贈をうけて、君の『病薬』を拝見しました。よく出来てゐます。文章などは随分骨を折ったものでせう。趣向も面白い。而し美しい愉快な感じがないと思ひます。或ひは君は既に細君を持って居る人ではないですか。それでなければ近頃の露国小説などを無暗に読んだんでせう。(略)君の若さであんな事を書くのは、書物の上か、又生活の上で相応の源因を得たのでありませう。ホトトギスに出た伊藤左千夫の『野菊の墓』といふのを読んで御覧なさい。文章は君の気に入らんかも知れない。然しうつくしい愉快な感じがします、以上。(略)」(漱石から森田草平への手紙 明治39年正月元旦) より続く

1905(明治38)年

12月

福田英子「わらはの思い出」出版。「妾の半生涯」が好評のため。

12月

白柳秀湖「わが徒の芸術観」(「火鞭」)

12月

中里介山「送年の辞」(「新潮」)。「社会主義を捨てた」理由を説明。

①「狂乱せる愚民の」日比谷焼討ちを見て、「多数の力によって主義の実行を望む社会主義の企画に甚だ危険を感じたり」。

②8月27日「直言」のトルストイの記述「社会主義は人間性情の最も賤しき部分の満足(即ち其の物質的の幸福)を以て目的と為す、…」による。介山は、後トルストイアンとなる。1906年「都新聞」主筆田川大吉郎の勧めで同紙入り、1909年より紙上に小説発表。

12月

東京府立一中留学生同盟休講。朝鮮人に高等教育不要との新聞報道抗議。

12月

「十二月(日不詳)、寺田寅彦、小石川区原町十二番地(現・文京区白山五丁目か千石一丁目)に家を構える。」(荒正人、前掲書)

12月

東洋汽船、南米西岸線開航。

1903年末では登録船数4,602隻、98万トンに対し、5,089隻、126万トンに激増。

12月

日本興業銀行、関西鉄道株式会社外債100万ポンド募集。

12月

岡山県会、知事提出の宇野港築港案を否決、知事の再議も退ける。戦争で疲弊した民力の堪えるところでないとの理由。県下各郡では有志大会を開催して県会を支援。勝田郡民有志大会は、赤十字・愛国婦人会・義勇艦隊の募金中止を決議、代議士には普通選挙・行政改革・塩税廃止・兵役年限短縮を要請。

12月

インド国民会議大会開催。外国商品排斥・国産品愛用運動開始。

12月

ロシア、モスクワ・ノボロシースク・チタ・ペルミ・ハリコフその他で武装蜂起。

12月

フィリピン、町長・役員選挙。

12月

イラン立憲革命の開始。

砂糖価格の急騰を理由にテヘランの砂糖商人が処刑され、それを不満としてテヘランで大規模デモ。専制批判に始まり、住民の権利擁護組織(正義の館)の設置と国民議会開設要求に至る。

ロシア周辺の従属的地域では、日露戦争とロシア革命の波動は敏速に伝わる。

翌年8月モザッファルッディーン・シャー、憲法と議会とを認める。彼に代って即位したモハッマド・アリー・シャーは英露協商に基づく列強の干渉を背景に革命を圧迫するが、これに対する大衆蜂起により退位、皇太子を擁して立憲政治を回復。

12月

(漱石)

「十二月初旬(日不詳)に鈴木三重吉、能美島(広島県佐伯郡能美町中村、現・中町)から、炬燵にあたっている時壁に写った影法師の絵(他人に書いて貰ったもの)に、「炬燵して或夜の壁の影法師」とだけ蕾いてきた。それに対し、「只寒し封を開けば影法師」と送る。」(荒正人、前掲書)


12月1日

河上肇、「社會主義評論」(「読売新聞」連載)を中断し、一切の敎職を辭して伊藤證信氏の無我苑に入る

この日、河上肇は伊藤証信に逢うため巣鴨へ行くが、伊藤が籠っている大日堂を見つけることができなかった。河上は自分の生活に対する疑いを述べた手紙を伊藤に書くと伊藤から返信があった。その返信には、「社会組織の工夫などといふことは極々つまらぬ事で、人生の平和幸福といふものは、そんな廻り遠い事をせんでも、ただ『無我の愛』これ一つの実行で即時に成就できます。」とあった。


4日、河上は大日堂を訪を、夜10時まで語り合った後、「無我の愛」の伝道生活に入る約束をし、翌5日、関係している学校へ全部辞表を出した。また伊藤のすすめに従って、「読売」に連載していた「社会主義評論」を中止し、「擱筆の辞」と懺悔録を書いて載せた。さらに、何年もかかって買い集めた経済学関係の書物を全部売りはらってしまった


かつて山口高等学校教授時代に、文科から法科に転じようとする河上を思いとどまらせようと努めた登張竹風は、これを読んで驚いた。農科大学教授の和田垣謙三は、「君、河上は気が変になったね。惜しいことだ。もっともあの男は羊のような目をしている。ああいう目の持ち主は大抵狂するものだよ」、と登張に言った。登張は「へえ、さようなものですかな」と答えた。

河上は無収入になり、東大の理科に在籍していた彼の弟は、学資の出どころか無くなって退学することになった。このことが世に伝わり、有名な千山万水楼主人が一人の乞食坊主の弟子になったと言って、大きな評判になった

12月1日

(漱石)

「十二月一日(金)、東京帝国大学文科大学で Tempest を講義する。

十二月四日(月)、東京帝国大学文科大学で、午前十時から十二時まで「十八世紀英文学」を講義する。『趣味の遺伝』執筆する。」(荒正人、前掲書)

12月1日

幸徳秋水、シアトル日本人会堂にて講演「戦後の日本」。聴衆500。

渡米中の秋水の生活については、「渡米日記」(1905年11月17日~1906年6月28日)や「光」紙上の「桑港より」などで知ることが出来る。集会も言論も出版も自由で「彼己氏(天皇)の毒手の及ぼざる処」で、まさに魚が水を得たような躍動であった。

数多の講演会、読書、アナキスト・ジョンソン老、露国フリッチ夫人、露国革命党員らとの交遊、アメリカ社会党入党、社会主義研究会開催など。無政府共産制の一時的実現とみたサンフランシスコ大地震の体験。

在米の日本人社会主義者約50名による社会革命党結成、その宣言、綱領、党則は秋水が起草した。その宣言の中の、

一人をして其の野心虚栄の心を満たしめんが為に百万民衆常に侵略の犠牲になるの時に於て国家なるもの果して何の尊厳なりや

などの文中に、抽象的に天皇制批判があるとみられている。たとえ抽象的であっても、「天皇の毒手」「彼己氏の毒手」につづいての、秋水の天皇・天皇制批判を活字にした最初であろう。渡米中の秋水が無政府主義により接近していたことは間違いない。

3日シアトル発。

5日サンフランシスコ着。

桑港平民社支部の岡繁樹、夫人敏子、岩佐作太郎、市川藤市、中沢次郎、倉持喜三郎らに迎えられ、無神論者のアルバート=ジョンソン翁や社会革命党員のフリッチ夫人らに紹介された。

平民社支部は、宏壮な洋館で、入口には和英両文字で「平民社桑港支部」という看板が掲げられていた。東京では平民社は解散したが、アメリカでは東京の旧本部よりも遥かに立派な建物にそれが存在していた。会堂は、12畳ほどの室が2つ、外に食堂、会の支部長岡繁樹夫妻の住む狭い室、湯殿と玄関があった。

しかし、そこは人の出入りが多く落ちつかないので、12日には、病弱の幸徳は、そこから2、3丁離れた所に室を借りて移った。そこは、アルバート・ジョンソン翁とは背中合わせの近さであった。

家は、それはロシア系アナーキストのフリッチ夫人とその娘の家で、幸徳はそこに寝泊りして、平民社支部へ食事に通った。彼の借りた室は14,5畳の広さで、壁にはクロボトキンとバクーニンの肖像や風景画などが掲げられていた。

夫人はロシアから来た革命家エンマ・ゴールドマンの親戚で17歳位の娘をつれた産婆の未亡人で当時医学の勉強をしていた。

6日、運動方針打合せ。

9日、邦字新聞「日米」「新世界」両記者晩餐会に招待。

10日、有志茶話会。50名参加。

12日、フリッチ夫人の寓居の一室に移る。アルバート・ジョンソン翁とは背中合わせの近さ。

12月2日

在英公使館を大使館に、林董駐英公使を大使に昇格。

12月3日

ペテルブルク・ソヴィエトの会議中にメンバー総てが逮捕される(第1次ソヴィエトの崩壊)

「12月3日の夕方、ペテルブルク・ソヴィエトは軍隊に囲まれた。出入口はすべてふさがれた。執行委員会が会議を行なっていた2階桟敷から私は、1階ホールにあふれていた数百人の代議員に向かって叫んだ。

 『抵抗はするな。だが武器は敵の手に渡すな!』。

彼らが手に持っていた武器は拳銃だった。そして、すでに四方を近衛連隊の歩兵、騎兵、砲兵で包囲されていた会議場の中で、労働者は武器を使えないようにしはじめた。彼らは、その熟練した手でモーゼル銃をブローニング銃に、ブローニング銃をモーゼル銃にぶつけて破壊した。そこにはもはや10月29日の時のような冗談や軽口はなかった。金属のぶつかりあう音、がちゃがちゃする響き、金属の破壊される時のきしんだ音は、プロレタリアートの歯ぎしりのように聞こえた。プロレタリアートはこの時はじめて、敵を打倒し粉砕するためにはもっと別の何かが、もっと強力で仮借のない努力が必要なのだということを、身にしみて感じたのであった。(トロツキー『わが生涯』)


つづく

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