1905(明治38)年
11月
北京、日露講和事項に関する日本と清国の談判開始。
12月22日、満州善後協約・付属協定調印。
11月
大倉喜八郎、南満州の本渓湖炭坑の開発開始。
11月
谷中村農民第1回移住18戸、那須野へ。明治39年3月時点で谷中村に留まるものは約半数の100戸程度となる。
11月
森近運平一家、この頃から1年近く、東京・神田三崎町でミルクホール「平民舎」を経営しながら社会主義活動をしている。
11月
『帝国画報』、『民報』創刊
11月
漱石(38)「薤露行(かいろこう)」(「中央公論」)
「ホトトギス」4月号に発表した「幻影(まぼろし)の盾」に似たロマンチックな物語りで、中世のアーサー王伝説に取材した騎士物語り。テニスンの「国王牧歌」とマロリーの「アーサー王の死」が資料とされた。
アーサー王のコメロットの城で、騎士ランスロットは王妃ヴィニーヴィアとの恋に酔っている。王妃は二人の恋が終ることを暗示するような夢を見たので、ランスロットを予定されている試合の場所にやりたからない。やがてランスロットは試合に出かけるが、そこでシャーロットの娘エレンに恋される。エレンは片袖を切り取ってランスロットに贈るが、自分が恋に破れたのを知って自殺する。その屍骸を載せた舟が川を流れ下ってコメロットの城に着く。
この物語りは、王妃の不義の恋という難かしい事件を派生させるものだが、漱石はそれを避けて、終りを夢幻的なロマンチシズムでばかし、字句に凝り、甘美なイメージを連ねた一種の美文小説とした。
この小説は、前の「幻影の盾」のように、美しい小説を好む若い学生たちには特に気に入った。この頃からまた改めて学生たちの間に漱石の愛読者が多くなり、彼の家を訪れるものがふえて来た。
評論家平出修「明星」12月号の出版月評で「薤露行」評している。
「漱石氏の「薤露行」は独り苦心の痕見えて愛読すべき好小品なり。」
(漱石)
「十一月、この頃、『吾輩ハ猫デアル』(上篇)の印税をもらい、外套と二重廻しをあつらえ、あとは歳末や出産の費用にあてる。(初版千部か二千部かはっきりしない。一部九十五銭、印税一割五分だから、百四十二円五十銭か二百八十五円である)」(荒正人、前掲書)
11月
坪内逍遙、戯曲「新曲赫映姫」(早稲田大学出版部)
11月
宮崎滔天(34)、横浜に行き、滞在中の孫文を訪ねる。ヴェトナムの志士潘佩珠と出会う。
12月1日横須賀に行き、伊藤痴遊・一心亭辰雄らと共に高倉亭に大晦日まで出演。
11月
米の不作による飢饉が拡大。東北地方では、この年平年の1~3割の収穫。
11月1日
農商務省山林局林業試験所、東京目黒に設置。1910年に林業試験場と改称。
11月1日
(漱石)
「十一月一日 (水)、胃の調子よくない。夕食後、ただちに眠る。
鈴木三重吉から広島の柿と厳島の貝を送られる。絵葉書で礼状を出す。
十一月三日(金)、天長節。ニューヨークの渡辺伝右衛門から、天長節の祝宴のフランス語メニューの裏に、「孔雀の舌は遠き昔の夢なり、トチメンボーは和製の西洋料理臭し、此は去し日當地シエリに催されし天長節祝賀の献立なり、正月早々餅を失敬してお三に牛耳られし『I am a cat 』君の無念を遙かに思ふて、茲に同君の鼻の下に捧ぐ。」と書かれた手紙届く。(松岡譲)」(荒正人、前掲書)
11月1日
ペテルブルク・ソヴィエト会議(第10回目)、クロンシュタット蜂起に参加した水兵の軍事裁判とポーランドの戒厳令施行に反対して、翌11月2日正午よりゼネストに入る決議を若干の棄権を含む大多数で決議。
ポーランド問題とは、ソヴィエト会議にポーランド代表が出席し、ツァーリ政府により戒厳令がしかれ圧迫されているポーランド人民への援助を求めたことをさす。執行委員会の代表トロツキーは、ポーランド人民の問題は全ロシアの問題であるとして連帯の意志を表明したが、一般の代表はポーランド問題に関心がなく、大多数の人がソヴィエト会議までポーランド問題を知らなかった。
彼らには身近なクロンシュタット問題が肝腎であり、この問題に論議が集中した。多くの工場はすでにストの意志を表明していた。ストを主張する多数派に対して、趣旨は支持するが、決議と集会という形態でよい、ストは望ましくないとする少数意見が述べられた。これら少数派にしても、ソヴィエトで決議されれば、それに従うとするのが多かったようである。10月ストライキに碕な役割を演じた鉄道組合は、消極的支持といったところであった。
討議の過程でエスエル代表はスローガンに黒海沿岸地方の農民運動が軍隊に押さえられていることへの反対を付け加えよと主張した。エスエルは農民運動と11月ストを結び付けようとした。ペテルブルク労働者には、ポーランド問題も、遠く離れた農民問題も直接関心ごとではなかった。
11月2日
枢密院議長伊藤博文、大韓国皇室慰問特派大使、日本発。随員:枢密院書記官長都筑馨六・陸軍少将村田惇・陸軍大佐西四辻公堯。8日、ソウル入城。
11月2日
文部省、清国留学生が激増し、その取締りのため清国人を入学せしむる公私立学校に関する規定、いわゆる「清国留学生取締規則」を公布(1906年1月1日施行)。清国留学生抗議。
11月2日
ロシア、ペテルブルク・ソヴィエト、第2回政治的ゼネスト指令。
殆ど全ての大工場、多くの中小工場、鉄道(フィンランド鉄道は完全には止まらなかった)、新聞、電信などがストに入った。しかし、馬車は動き、店は殆ど開いていた。インテリ層は、専門職業家連盟の組織としては好意的な決議をしながら、スト基金を寄せるくらいで、殆ど何の役割も演じなかった。
ストの勢いに驚いたヴィッテは、労働者に対してストをやめるよう訴えた。戦争や革命で財政危機にあったツァーリ政府は、外債を獲得せんとあらゆる努力をかたむけていた。ヴィッテは何よりもストを終息させなければならなかった。
地方の状況としては、10月ストの動輪であり、全国へ革命を波及させた鉄道が、今度はストに立たなかった。また、モスクワもストに立ち上がらなかった。モスクワ社民党新聞の弱体、10月ストの疲労、10月宣言によるリベラル、インテリの体制側への傾斜などのほかに、モスクワ・プロレタリアートにとってクロンシュタットは直接的な関心事ではなかった。同様に全ロシアにとってクロンシタット、ポーランド問題は直接的問題ではなく、彼らを立ち上がらせる象徴的問題でもなかった。かくして11月ストが地方的ストにとどまることがはっきりしたとき、ソヴィエトは退却するしかなかった。
11月4日
小村寿太郎外相、清国派遣特命全権大使に任命。外務大臣を桂太郎が臨時兼任。ロシアより譲渡された権益に対し清の承認を得るため。清の抵抗により会議は長引き、小村は又も国賊扱いされる。
11月4日
大杉栄(20)、安藤曲川にエスペラントを勧める。
11月5日
韓国、京義鉄道開通式。
11月5日
靖国神社大祭。~7日。
14日~19日、天皇、伊勢神宮行幸。
20日、日本赤十字社総会。上野公園。参加者5万4千。
これらの記事が新聞を埋める。
11月5日
山川登美子、死別した夫から感染した呼吸器の病で駿河台鈴木町の高田病院に入院。以後、病と闘い、翌明治39年、京都で療養。
11月5日
(漱石)
「十一月五日(日)、高田知一郎(梨雨)来る。『明星』に執筆を依頼されたが断る。
十一月六日(月)、東京帝国大学文科大学で、午前十時から十二時まで「十八世紀英文学」を講義する。」(荒正人、前掲書)
11月6日
韓国、韓国一進会の尹始炳・李容九ら9人、韓国は日本の保護に服すべきと宣言。
11月6日
菅野須賀子、半自伝小説「露子」(「牟婁新報」)。
11月6日
ワルシャワで自治復活を求めて暴動。
11月7日
ペテルブルク・ソヴィエト、この日12時にストを中止すると決定。11月ストは終わる。以後、労働者の気分は沈滞へ向かう。
8時間労働への取りくみも再開されるが、企業側は、今度は強硬で、労働者の解雇、工場閉鎖の強行策を打ち出す。官営工場では古い条件で仕事が再開されたが、13企業が新たに閉鎖され、1,900人が解雇された。工場集会も禁止され、ソヴィエト代表の中にも馘首される者が出てきた。
4日頃から労働者の気分が低下し始めた。工場主会議の決定により、仕事を始めなけ工場を閉鎖するとの通告が工場経営者から労働者に出された。馘首の心配が出てくると、多くは仕事再開を望み、あるものはソヴィエトの決定をまたずに仕事につくことを決めた。地方からの報告はいずれも悲観的なものだった。ストの継続は労働者を弱めることにになるだけかもしれない。
4日のソヴィエト会議にスト中止が提起されたが、400対4で否決された。
5日、仕事を再開する工場が出て来る。また、政府は水兵を軍法会議でなく軍管区の裁判所で裁判することを検討中であるとの声明を出し、スト継続の理由を減らした。
11月9日
この日付け漱石の鈴木三重吉(小説家、童話作家、漱石の教え子、1882-1936)宛の手紙。
中川芳太郎(漱石の教え子、漱石の依頼を受けて講義から「文学論」の草稿を起こした。1882~1939)のことについて、
「中川君抔がきて先生は今に博士になるさうですなかと云はれるとうんざりたるいやな気持になります。先達て僕は博士にはならないと呉れもしな〔い〕うちから中川君に断つて置きました。さうぢやありませんか何も博士になる為に生れて来やしまいし。」
と語る。
「十一月九日(木)、野間真綱から、十一月三日(金)消印の絵葉書が七日もかかって配達される。(大いに憤慨し、逓信大臣の名前を二、三人に問い合せて、大浦兼武であることを確かめ、郵便配達を厳重にすることと、延着の説明せよと求める。)
午後(推定)、野聞真綱に依頼しておいた洋服屋来る。」(荒正人、前掲書)
つづく

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