2025年9月10日水曜日

大杉栄とその時代年表(613) 1905(明治38)年9月10日~12日 「伊藤は妓を大阪に購ひて妾とし、井上は妓を携へて叡山に遊び、松方は赤十字事業視察の途次いたるところに淫蕩を恣(ほしいまま)にせり。それ出征者の家族、戦死者の遺族は飢うれども食なく、寒けれども衣なし。而して皆、『国家のため』の故を以て泣くことだに能はざりき。戦争に伴なふ社会的現象たる失業、貧困、犯罪の悲惨の如きは一顧さへも与へられざりし也。政府当局者よ、この泣く能はず言ふ能はざる悲惨の国民が、果して何等の情念を以て伊藤、井上、松方等の倣慢無礼を見つつありしと思ふや。」 「啻(ただ)これのみならず、内務大臣芳川顕正は淫蕩いたらざるなく、総理大臣桂太郎は万金を抛つて新たに妾宅を構へたり。」(『直言』第32号(終刊号)社説「政府の猛省を促す」)

 

芸妓お鯉(桂太郎の愛妾、晩年には尼僧となる)

大杉栄とその時代年表(612) 1905(明治38)年9月7日~9日 日比谷焼打事件⑧ 「商業的売出候小新聞、又は・・・旧対露同志会之変体、講和談判同志会なる、対露同志会員と、進歩党関係の新聞記者達、之れに渡辺国武一派の連中、入雑候団体より、種々雑多の手段方法を以て、下層の人民の人心を動揺せしめ候故、政事と社会と混同いたし、目下の処、車夫馬丁の輩より、償金が取れぬと云ふより、小商人等の中間に迄、何となく其事柄の是非を弁せず、騒々敷有様にて、此辺は余り不宜情況に付、此際は可成此問題をして、政事問題にのみ引込候手段緊要と存候而、夫々手段を尽し申候。」(桂から山縣への手紙『公爵桂太郎伝』) より続く

1905(明治38)年

9月10日

『直言』第32号発行

無期発行停止処分(事実上の終刊号となる)。

社説「政府の猛省を促す」。

「・・・今や屈辱的講和の声は・・・政府の恐慌を惹起し、国民と警官の闘争となり、流血となり、暴行となり、軍隊の繰出しとなり、遂に首都に向つて戒厳令を布くの大騒擾となれり。」

「吾人の見る所を以てすれば、彼等の中、誠意熱心なる条約破棄論者なきに非ざると同時に、また必ずしも条約破棄を以て唯一無二の目的となすに非ざるものの極めて多きを知る。・・・聞けよ当局者、日本国民はその男女老若を問はず、一人として深大の怨恨を諸君に抱懐せざるはなかりし也。新聞紙が大活字を羅列して諸君を讃美しつつありし戦勝泰平の時期に於て、彼等国民の間には無限悲憤の熱涙を諸君のために拭ひつつありしなり。彼等の諸君に対する怨恨は講和の条件によって醸成せられたるに非ずして、その強ひて押え来れる怨恨の戦争終結を待って爆発したりしのみ。」

「戦争開始の当時、朝野を挙げて勤倹の二文字を戦時国民の精神生命なりとし、これを以て児童走卒を教へ、富豪紳士は金具金品を日本銀行に納め、以て愛国心を競ひしに非ずや。・・・而して伊藤は妓を大阪に購ひて妾とし、井上は妓を携へて叡山に遊び、松方は赤十字事業視察の途次いたるところに淫蕩を恣(ほしいまま)にせり。それ出征者の家族、戦死者の遺族は飢うれども食なく、寒けれども衣なし。而して皆、『国家のため』の故を以て泣くことだに能はざりき。戦争に伴なふ社会的現象たる失業、貧困、犯罪の悲惨の如きは一顧さへも与へられざりし也。政府当局者よ、この泣く能はず言ふ能はざる悲惨の国民が、果して何等の情念を以て伊藤、井上、松方等の倣慢無礼を見つつありしと思ふや。」

「啻(ただ)これのみならず、内務大臣芳川顕正は淫蕩いたらざるなく、総理大臣桂太郎は万金を抛つて新たに妾宅を構へたり。・・・内務大臣の官邸の屡々襲撃せられ放火せられたるもの・・・実に芳川が戦時における国民侮辱の復讐なりと知らずや。・・・特に警察と兵隊とを以て桂の妾宅を警護したるに及んで、吾人は万斛(ばんこく)痛憤の涙を呑で筆を投ぜざる可らず。」


英文欄の記事「大示威運動」

「吾人はこの場合、ロシアの革命運動を想起するを禁じ得ない。勿論その形態と精神においてはロシアの騒乱と同一でないが、しかしその本質は同一であって唯一の相異は日本国民が愛国的熱情に昂奮し、いまだに彼等の真状態を意識しないことである。だが、吾人は日本国民が他日、彼等の意識に目ざめて更に一層猛烈なる示威運動に出ずべきことを、政府のために恐れるものである」と記す。


堺利彦「破鍋綴蓋(われなべとじぶた)の記」

為子との再婚について率直に語る。独身の男女が一つ屋根の下で暮らしていれば、親しみの情がわくのは当然で、松岡文子も西川光二郎から思いを寄せられていた。文子の自伝『平民社の女 - 西川文子自伝』によれば、一九〇四年の忘年会の場で、西川は文子を愛していることを堺たちに告白した。その翌月の新年会で、文子は堺と秋水の両方から西川と結婚するように勧められたという。

その後、西川の入獄に先だって二人は事実上の結婚生活に入っていた。だが、「貞女二夫にまみえず」 の風潮が残っている時代であり、文子の前夫の松岡荒村は平民社の人々によく知られていたので、文子への風当たりは強かった。その上、堺と為子も再婚することになりたので、兵民社の風紀は乱れていると中傷する者が出てきた。とくに、キリスト教系の同志の間で批判が高まった。

秋水署名の短評「書空語」、その一項に「平和は唯だ壮麗なる首相の妾宅に存するのみ、人道は唯だ日比谷公園の棒杭の文字に存す……」と皮肉る。


9月10日

警視総監安立綱之、引責辞任。後任は長野県知事関清英。

16日、内相芳川顕正、引責辞任。農商務大臣清浦奎吾兼任。

9月10日

『火鞭』刊行。火鞭会機関誌。

これは翌年5月(第9号)で終刊するが、『種蒔く人』より早く出現し、後年のプロレタリア文学の先駆をなすもの。

9月10日

(漱石)

「九月十日(日)、暗。朝、野間真綱・野村伝四来り、昼食をする。

寺田寅彦来る。夕方まで話す。四人で神田まで散歩する。宝亭(西洋料理)(神田区西紅梅町八番地、現・千代田区駿河台二丁目)で共に夕食をする。寺田寅彦が馳走する。(不確かな推定)小宮豊隆、犬塚武夫(ロンドンで同じ下宿にいた)に連れられて来る。小宮豊隆が、東京帝国大学文科大学独逸文学科に入学したので、保証人になって貰いたいと云う。(その後、小宮豊隆は、漱石の家族にも近づいたけれども、鈴木三重吉の背後に押しやられている感じであったらしい)」(荒正人、前掲書)

9月11日

山陽汽船(株)、下関-韓国釜山間の連絡航路開始。壱岐丸就航。

9月11日

戦艦「三笠」爆沈。佐世保軍港。死傷者699(死者339、日本海海戦犠牲者117を上回る)。

9月11日

夏目漱石のもとに山会の参加メンバー中川芳太郎が鈴木三重吉(漱石の小説の熱狂的な愛読者)の手紙を届ける。

この年3月頃から、「ホトトギス」の山会という文章読み合いの会が漱石宅で開かれていた。その会によく来たのは、高浜虚子、坂本四方太など「ホトトギス」の中心人物の外、寺田寅彦、皆川正禧、野間真綱、野村伝四、中川芳太郎など。

寺田寅彦(28歳)は前年9月から東京帝国大学理科大学の講師に任命されていた。明治36年、漱石が帰朝以来、大学院で実験物理学を研究していた寺田は、しばしば漱石家を訪れるようになっていた。彼の俳句や短い写生文は「ホトトギス」に掲載され、彼は雑誌の常連になっていた。

皆川正禧、野間真綱、野村伝四等は熊本で漱石に習った人々で、野間は大学卒業後、島津家の家庭教師をしていた。野村伝四は英文科2年に在籍して翌年7月に卒業予定、作家として立つ志があり、「ホトトギス」や小山内薫等の「七人」にしばしば作品を持ち込み、時には掲載され、時には拒絶されていた。

中川芳太郎は、京都の第三高等学校の卒業生で、英文科2年の学生。特に英語が出来、夏目に目をかけられていたので、特にその家に出入りしていた。この時期、作家夏目漱石の崇拝者が徐々に学生の間に出て来ていたが、まだ彼の身辺には現われていなかった。

この日の中川芳太郎からの手紙には、鈴木三重吉という署名の巻紙に書いた手紙が入っていた。手紙は、延ばして見ると、八畳間をつき抜けて次の六畳の端まで届くほどだった。鈴木三重苦と中川芳太郎は第三高等学校の同級生。鈴木は明治37年9月、英文科に入り、この年7月まで漱石の講義を聞いていた。鈴木はひどい神経衰弱になって、この9月から1年休学することにし、郷里の広島にいたが、漱石の作品の熱狂的な愛読者で、その気特を、夏目家へ出入りしている中川に訴えて手紙を書いた。

夏目はその手紙を読んで驚き、中川に次のような手紙を送った。

「(略)あれ丈のものがかけるなら慥(たし)かに神経衰弱ではない。休学などとは思ひも寄らぬ事だ。早速君から手紙をやって呼び寄せ玉へ。(略)それから次に驚いた事は三重吉君が僕の事をのべつにかいて居る事だ。(略)然しいくら漱石だつて、金やんだつて、講師だつて、髭が生えてたつて、三重吉君からこれ程敬慕せられて難有(く)思ばんといふ次第のものではない。難有いなどは通過して恐ろしい位だ。(略)僕は是で中々自惚の強い男だからある人には好かれて然るべき性質を有して居ると自信して居るがね - 然しあれ程迄に敬慕され様とは気がつかなかつた。あれは己惚以上だよ。予期を超過する事五十五六倍だよ。元来人から敬慕されるとか親愛されると急に善人になりたくなるものだ。敬慕親愛に副ふ丈の資格を一夜のうちに作りたくなるものだ。僕も今夜は急に善人になりたくなつた様な気がする。(略)あの手紙は僕がこの手紙と同じくなぐりがきにかき放したものであるらしいが頗る達筆で写生的でウソがなくて文学的である。三重吉も文章をかいて文章会へでも出席したら面白いと思ふ。(略)」


鈴木三重吉(24歳)は、明治15年広島の猿楽町で生れた。彼の父は市役所の庶務課学務係に勤めていた。彼の二人の兄と末弟とは幼くて死んで、彼は一人子で育ち、その上、10歳の時に母を失い、父と粗父母に育てられたので、孤独な少年期のノスタルジィを抱いていた。三高在学中から、彼は神経衰弱と胃病に苦しめられて、「猫」に描かれている夏目の悩みと自分の悩みが同じもののような錯覚に陥っていた。

この頃(9月初め頃)、漱石のロンドンの時代の知人である犬塚武夫の紹介状を持った一高出の東大生小宮豊隆(22歳)が訪ねて来た。新学年が始まるので、小宮は漱石を保証人に頼むために来た。彼は福岡県の生れで、豊津中学から第一高等学校に入り、この年東京帝大独文科に入学した。漱石の書斎に通されると、小宮は胡坐をかいて坐った。漱石家へ来る青年たちは皆、少くとも初めのうちは窮屈に膝を折って坐っていたので、小宮の行儀の悪さは目立った。

「九月十一日(月)、晴。第一高等学校で畔柳都太郎(芥舟)から『一夜』が分らぬと云われる。分らんでも感じさえすればよいと云う。中川芳太郎から、鈴木三重吉の手紙を受け取る。

九月十二日(火)、晴。夕刻、寺田寅彦来る。『吾輩は猫である』の表紙・挿画・校正刷見せるo野村伝四宛葉書で、今週休講、来週から開講の旨を伝えてほしいと頼む。

(島村抱月(瀧太郎)帰国する。)」(荒正人、前掲書)

9月12日

横浜・羽衣座で有料演説会。予定の弁士が欠席し聴衆が騒ぐ。警官が抜剣して制止、負傷者でる。群衆3千、暴徒化し伊勢佐木警察署と付近の派出所10数を焼打ち。午前1時、神奈川県知事の要請で東京から第1師団歩兵2個中隊派遣。19日迄警戒。

9月12日

神戸、湊川神社前大黒座で非講和有志演説会。河野広中・山田喜之助参加。


つづく


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