大杉栄とその時代年表(626) 1905(明治38)年11月1日~9日 森近運平一家、この頃から1年近く、東京・神田三崎町でミルクホール「平民舎」を経営しながら社会主義活動をしている。 より続く
1905(明治38)年
11月10日
韓国、伊藤特使、林権助日本公使らと徳寿宮で高宗と会見。
11月10日
安部磯雄・石川三四郎・木下尚江らキリスト教社会主義派、新紀元社設立、「新紀元」(月刊)創刊。
内村鑑三「新紀元の発刊を祝す」。
執筆者:徳富蘆花・大川周明・赤羽一・内村鑑三・斯波貞吉・高島米峰・山口孤剣・小野有香・幸徳秋水・金子喜一ら。
1906(明治39)年11月10日終刊(平民社再興気運の中で、石川がこれに参加の意向、安部は継続を望むが木下が社会主義に疑念を持ち始める)。
菊判48頁、12銭。編輯には石川三四郎があたり、安部と木下は編輯顧問になった。
第1頁に「巻頭の祈」が、「神よ、今筆を執りて又爾の栄光に跪く。希くば我心を開きて爾の愛と力に満つることを得せしめ給へ」と印刷される。
また次の予告が掲載された。
「小説『黒潮』第二篇を掲載するにつきて/三年前拙著小説『黒潮』の第一篇を公にせし以来、余は殆んど一行をも書かずして今日に到れり。今や我日本人民は北の巨人を相手の拳闘より起ちて、砂を払ひ、汗を拭ひ、嘯(うそぶ)いて世界環視の中に立たんとす。彼の歴史は確か、に一時期を劃するなり。『新紀元』の此時を以て生るゝも亦偶然にあらずと謂はむ歟。/此誌上に於て拙著小説の稿を続ぐを得るは余の窃に喜ぶ所なり。/恐らくは、依然たる低級の芸術、生硬、粗笨、浅薄の旧態を脱する能はざらんことを。/十月廿日秋雨コスモスの花に灑ぐ夕/原宿の僑居に於て/蘆花生」
徳富蘆花は、この雑誌に賛意を表し、作品をここに掲載する決意をした。そして12月号に「黒潮」第二篇の一・二が掲載された。蘆花はこの時数え年38歳。
彼は迷っていた。社会主義者の群に加わったが、自分にその資格があるのか?無産労働者でなければ真の社会主義者たり得ない、との反省が絶えず彼を苦しめていた。また、自分は兄と絶縁していていいのだろうか? 「国民新聞」が襲撃されたことを白眼視したまま、何の同情も示さなかった自分が正しかったのか?
11月10日
この時点でロシア軍捕虜、国内26ヶ所の収容所、総計71,947人。
ロシア人負傷者・俘虜に対する日本の寛大な処置を讃える海外メディア特派員の記事は数多い。
11月10日
「帰還俘虜取扱方」(「東京朝日」)。
陸軍は俘虜帰還者取扱規則により、当該所管長官が審問会議に付し取調べ。放免か軍法会議か行政処分かの結論が出るまで外出の自由なし。
社説「言論自由と政府」(「東京朝日」)。
「神戸クロニクル」が緊急勅令存続で新聞を取締るのは憲法を反古にする手段との主張を引用。
11月10日
日米間著作権保護に関する協約、同上協約第3条の解釈に関する交換公文調印。1906年5月10日、実施。
11月10日
この日、漱石は、新学年に出て来ず、胃病と神経衰弱の治療のために、広島から瀬戸内海の小さな島へ移り住んだ鈴木三重吉に手紙を書く。
「三重吉さん一寸申上ます。君は僕の胃病を直してやりたいと仰やる御心切は難有いが僕より君の神経病の方が大事ですよ早く療治をして来年は必ず出て御出でなさい。僕の胃病はまだ休講をする程ではないですが来年あたりは君と入れ代りに一年間休講がして見たいです。・・・
「君は島へ渡ったさうですね。何か夫を材料にして写生文でも又は小説の様なものでもかいて御覧なさい。吾々には到底想像のつかない面白い事が沢山あるに相違ない。文章はかく種さへあれば誰でもかけるものだと思ひます。・・・僕は方々から原稿をくれの何のと云つて来て迷惑します。僕はホトゝギスの片隅で出鰭目をならべて居れば夫で満足なのでそんなに方々へ書き散らす必要はないのです。・・・文庫といふ雑誌の六号活字がよく僕のわる口を申します。・・・文章でも一遍文庫へ投書したらすぐ褒め出すでせう。・・・段々秋冷になりました。今日は洋服屋を呼んで外套を一枚、二重廻を一枚あつらへました。一寸景気がいゝでせう。猫の初版は売れて先達印税をもらひました。妻君曰く是で質を出して、医者の薬札をして、赤ん坊の生れる用意をすると、あとへいくら残るかと聞いたら一文も残らんさうです。いやはや。一寸此位で御免蒙ります。」
「十一月十日(金)、東京帝国大学文科大学で、 Tempest lを講義する。
内田貢(魯庵)から小沢平吾について、注憲を促す手紙来る。
十一月十一日(土)、古城・天鳳(不詳)来て、小沢平吾に高い絵をかたられたことを話す。野間真綱宛葉書に、小沢平吾は、文科大学助教授文学士と称して諸々をだましている詐欺師だと昨日内田魯庵の注意で知った、また自分の名前も方々へ行って触れ回っているとのことだ、なぜあんな人物を紹介してきたのかと書く。」(荒正人、前掲書)
11月11日
警察、9月5日国民大会主催の河野広中・大竹貫一・山田喜之助・桜井熊太郎ら6人を兇徒嘯聚罪で拘引。
12月19日、東京地裁予審結果。河野・大竹・小川・桜井・佃信夫の5人は12月2日の保釈取消し、東京地裁重罪裁判所に付され、山田・細野は免訴。
11月11日
ロシア、セバストポリで軍隊反乱。政府軍が鎮圧。
11月12日
横浜・神戸・長崎よりロシア汽船による捕虜送還開始。翌年2月19日迄に7万9,454人の送還完了。日本人捕虜の帰国は翌年4月28日迄に2,045人完了(死亡28、残留31を除く)。
11月12日
この日のペテルブルク・ソヴィエト会議、「即刻の、あらゆる場所での8時間労働」は一時的に中止せざるを得なく、この間題の解決には全ロシア的規模での労働者の組織化が必要であると強調した。
ソヴィエトは多数の失業者の救済や工場再開を企業家、政府に要求することに力をそそいでいた。この窮境をゼネストで打開しようとする意見もあったが、多数の支持は得られなかった。全ロシアのソヴィエト、労働者組織との連絡を強化する努力がこの段階でとりあげられたが、大きな成果は得られなかった。
11月13日
中国の廬漢(京漢)鉄道開通。
11月13日
(漱石)
「十一月十三日(月)、東京帝国大学文科大学で午前十時から十二時まで「十八世紀英文学」を講談する。
野村伝四から真砂座へ誘われていたが、都合悪く葉書で断る。」(荒正人、前掲書)
11月13日
トロツキー(26)、メンシェヴィキと協力して大衆的政治機関紙「ナチャーロ(出発)」創刊。部数は拡大。
この頃、ボルシェヴィキの「ノーヴァヤ・ジーズニ(新生活)」は振るわず。また、この頃、トロツキー、パルヴスと協力して「ルースカヤ・ガゼータ(ロシア新聞)」発行。更に、ペテルブルク・ソヴィエト機関紙「イズヴェスチア」にも社説掲載。
「「ナチャーロ」創刊号が出た。われわれは闘争の同志に挨拶を送る。創刊号において注目を引くのは、11月ストライキに関する同志トロツキーのすばらしい論文である」(「ノーヴァヤ・ジーズニ」)。
「ノーヴァヤ・ジーズニ」はレーニンが到着した後もトロツキー論文を擁護。両新聞・両分派は統一に向って動き出す。ボルシェヴィキ中央委員会は、分派は亡命という条件下で生れた結果と決議。
「ペテルブルク・ソヴィエトでは、私は、自分の生まれた村にちなんでヤノフスキーと名乗っていた。印刷物にはトロツキーと署名していた。私は3つの新聞で働いていた。パルヴスといっしょに『ルースカヤ・ガゼータ(ロシア新聞)』という小規模な新聞の編集部を掌握し、それを大衆向けの戦闘的機関紙に変えた。同紙の発行部数は、数日のうちに3万部から10万部に拡大した。1ヵ月後には、注文部数は50万部になった。しかし、印刷技術が部数の増大に追いつかなかった。そして結局、この困難からわれわれを救い出してくれたのは、政府による弾圧であった。
11月13日、われわれはメンシェヴィキと協力して、大規模な政治機関紙『ナチャーロ(出発)』を創刊した。発行部数は、日をおってどころか、時間をおって拡大した。レーニンのいないボリシェヴィキの『ノーヴァヤ・ジーズニ(新生活)』はぱっとしなかった。それにひきかえ『ナチャーロ』は巨大な成功をおさめた。思うに、それは、この半世紀に現われたいかなる刊行物よりも、その古典的原型たる、1848年におけるマルクスの『新ライン新聞』に似ていた。当時、『ノーヴァヤ・ジーズニ』の編集部にいたカーメネフは、後年、私にこう語っている。鉄道での移動中、彼は各駅の売り子が着いたばかりの新聞を売っているのを眺めていた。ペテルブルクからの列車が到着すると、駅には長蛇の列ができていた。お目当てはもっぱら革命的刊行物であった。
『ナチャーロ、ナチャーロ、ナチャーロ!』と列の中から声がかかった。『ノーヴァヤ・ジーズニ!』。するとまたもや、『ナチャーロ、ナチャーロ、ナチャーロ!』。
『当時』、とカーメネフは告白した――『僕はくやしい思いを抱きながらもこう自分に言い聞かせたものだ。なるほど、『ナチャーロ』の連中は、われわれよりも優れた記事を書いているんだ、とね』。
私は、『ルースカヤ・ガゼータ』と『ナチャーロ』以外に、ペテルブルク・ソヴィエトの公式機関紙『イズベスチヤ(通報)』の社説を書き、さらにまた、多数のアピール、宣言、決議を書いた。最初のソヴィエトが存在していた52日間、ソヴィエト会議、執行委員会、絶え間ない会合、3つの新聞への執筆などで、ぎっしり仕事がつまっていた。この渦の中でいったいどうやって日々を過ごしていたのか、今となっては私自身にもはっきりしない。過去のこととなると、多くのことがわからなくなるものである。なぜなら、記憶から当事者の能動性の要素がすっぽり抜け落ちてしまい、自分自身を横から眺めることになるからである。そして、われわれはこの時期、十分すぎるほど能動的だったのだ。われわれは渦の中をぐるぐる回っていただけでなく、渦そのものをつくり出していた。あらゆることが駆け足で行なわれたが、結果はそれほど悪くはなく、非常にうまくいったことも多々あった。『イズベスチヤ』の名目上の編集長である老民主主義者のD・M・ゲルツェンシュテイン博士は、黒いフロックコートを申し分なく着こなして、時おり編集局に立ち寄り、部屋の中央に立って、愛情のこもったまなざしでわれわれの混沌ぶりを眺めていた。1年後、彼は、自分がいかなる影響力も持っていなかった新聞の革命的狂乱の責任を問われて法廷に立たされるはめになった。老人はわれわれとの関係を否認しなかった。それどころか彼は目に涙を浮かべて、われわれが、最も人気のあった新聞を編集しながら、仕事の合間に、門番が近くのパン屋から紙に包んで持ってきてくれた干からびたピロシキで飢えをしのいでいたことを、法廷で語った。そして老人は、敗北に終わった革命と、亡命仲間と、干からびたピロシキのために、1年の禁固刑を言い渡されたのである…。」(『わが生涯』第14章「1905年」より)
つづく

0 件のコメント:
コメントを投稿