2025年9月6日土曜日

大杉栄とその時代年表(609) 1905(明治38)年9月6日 日比谷焼打事件④ 午後9時10分、日比谷公園前に停車中の電車放火。計11両。10時、「街鉄」事務所・工夫事務所焼討ち。この日夜、電車15台が焼討ち。1903年市街電車開通により人力車夫5千(1903⇒1904年比較)が失業。

 


大杉栄とその時代年表(608) 1905(明治38)年9月5日 日比谷焼打事件③ 「三百余人潮の寄するが如く署内に闖入し来りたれバ衆寡敵せざるハ素よりなるまゝ署員ハ抜剣して防がんとすれども、・・・何時か群集ハ署内へ入込み三回まで石油を灌いで爆発せしめ電信係の一室を破壊し署内ハ乍ら一面の火となる(下谷署)」 より続く

1905(明治38)年

9月6日 日比谷焼打事件④

朝刊各紙、政府を非難。

政府側は警戒措置。和田倉・馬場先・桜田門に近衛歩兵を配備し通行禁止。各官庁・外国公館・要人宅(含む、「国民新聞」社長徳富蘇峰宅、桂首相愛人宅)に憲兵・警官・兵士を配備。

この日付け『日本新聞』、「白昼白刃を提げて官邸に闖入(ちんにゆう)す、事既に驚くべし。白昼火を官邸に放つ、更に驚くべし。而して警官剣を抜いて人を斬り、軍隊銃を提げて良民に臨むに至つては宛然(えんぜん)是れ第二の露都なり」と痛論。

内田良平は、ハリマン歓迎会後、壮士を連れて日比谷松本楼で食事(木刀・日本刀など携行したまま。警察は一応監視しただけ、は不自然?)。

午後2時30分、枢密院会議、戒厳令適用・新聞雑誌取締りについて討議

戒厳令賛成:顧問官西徳二郎・大鳥圭介・野村靖・九鬼隆一・細川潤次郎・杉孫七郎・蜂須賀茂韶7人に大臣9人を加えた16人。反対:福岡孝弟・樺山資紀・黒田清綱・税所篤・田中不二麿・河瀬真孝6人。(顧問官だけでは7:6)。

新聞紙条例改正は大鳥が反対に回り、顧問官だけでは6:7。

キリスト教会が新たな標的となる。

午後3時、浅草区の教会が襲われたのを始め、本所・下谷・日本橋区の教会・教会関係者の家10数ヶ所が襲撃。午後6時迄に、キリスト教会2・救世軍森下町分署が襲撃。

6時30分、京橋署築地2丁目・同1丁目派出所焼討ち。

7時、四谷署本村町・伝馬町1丁目・麹町11丁目派出所焼討ち。7時30分頃、浅草芝崎町「美以教会」・牧師館破壊・放火。

8時、本所区内21派出所中19が焼討ち。本所区内「教会焼討ち」続く。天主教会堂・フランス人会主宅焼討ち、付属敬愛小学校類焼。熱心なキリスト教信者といわれた乾物商鈴木房次郎宅放火。

8時30分、同盟キリスト教会放火。続いて、同盟キリスト教会本部・アメリカ人会主宅放火。


「浅草日本基督教会では、焼き打ち集団が迫った際、「この教会はロシアか、アメリカかイギリスか」と問い詰められたが、牧師が外国に関係なく日本人の独力で経営していることを告げると、「日本のものなら、また僕らのものだ」といって引き返したとぎれる(『植村正久と其の時代』)。」(藤野裕子『暴力 ― 一揆・暴動・虐殺の日本近代』(中公新書))


午後9時10分、日比谷公園前に停車中の電車放火。計11両。10時、「街鉄」事務所・工夫事務所焼討ち。

10時30分、「教会焼打ち」が下谷区に移る。日本メソジスト教会襲撃。出征中の留守番の老母の懇請により焼打ちせず。浅草署今戸分署襲撃。警官隊は抜剣して突撃。暴徒側死亡3。150人一斉逮捕。

11時、日本基督明星教会襲撃。白旗が掲揚されていたため内部破壊のみ。日本メソジスト下谷教会焼打ち。


四谷本村町派出所襲撃の一団、新宿方面に向う。

塩町2丁目・新宿元1丁目・3丁目派出所焼打ちし新宿署に突進。鉄道大隊11個分隊兵士に追払われ、鮫ヶ橋派出所に向かうが、付近は貧民窟が密集しているため中止。麹町方面に移動。途中、電車4両放火。

7日午前1時、神田駿河台ニコライ会堂に群衆。歩兵第1連隊兵士が警備のため、引揚げる。

同時刻、本郷署前に集合した群衆500が襲撃開始。警官隊が突進し、四散。2時30分、神田署小川町分署半焼。3時30分、日本橋署橋留分署焼打ち。

この日夜、電車15台が焼討ち。1903年市街電車開通により人力車夫5千(1903⇒1904年比較)が失業。

夜、緊急勅令2つ発令、即日施行

①勅令205号。東京市及び府下5郡(荏原・豊多摩・北豊島・南足立・南葛飾)に戒厳令(~11月29日)。戒厳令司令官は東京衛戍総督佐久間佐間太陸軍大将。近衞師団と第1師団が出勤し、7万人以上に検問。

②勅令206号(新聞紙雑誌取締令)。

戒厳令:国内治安のために発動される行政戒厳は、近代日本で初めて。適用範囲は東京市とその周辺で、ほぼ現在の東京23区全域に相当する。

新聞雑誌取締令:皇室の尊厳を冒瀆し、政体を変壊し、暴動を教唆し、犯罪を煽動する恐れがある事項を記載した新聞雑誌は、内務大臣が直接その発売を禁止し差し押さえ、以後の発行を停止することができるというものだ。これによって、政府が不都合だとみなせば、ただちに新聞雑誌の発行を止められるようになった。

戒厳令の施行と同時に言論統制が行われたことで、群衆は移動する自由も、集会して討論する自由も、メディアから情報を入手する自由も奪われた。この二つが解除されたのは、11月29日。


発令翌日から、新聞雑誌は次々に発行停止を命じられた。大半は、1~3日程度の発行停止ですんだが、『東京朝日新聞』のように15日間も停止が解除されなかったケースもある。このとき『東京朝日新聞』以上に長い発行停止となったのが、平民社の『直言』だった。非戦論を掲げる『直言』は、他紙と違って講和反対にはくみしなかったが、9月10日発行第32号に「政府の猛省を促す」(木下尚江)という社説を掲げた。『直言』は第32号から発行停止になり、そのまま停止が解除されず、この号が事実上の終刊号になった。

衛戍総督令発令。戒厳令施行により警視総監・東京郵便局長が衛戍総督管掌下におかれる。戒厳令適用地域内に検問所70余ヶ所設置。

衛戍総督告諭。「言語を以て…解散又は制止の命に応ぜざる時は、最後の手段として断然兵器を実用することを許す」

実際は兵器は使用されず、軍隊は慎重に対応。民衆は軍隊には信頼・敬意を示す。警察は、戒厳令を拡大解釈し遊郭・木賃宿を厳しく取締る。


9月6日

川上音二郎(41)、大磯・滄浪閣に伊藤博文を訪ねるが留守で会えず。ついで茅ヶ崎に行き、翌日、村長宅で時局演説。聴衆68名。川上は講和条約反対の世論には批判的で、「御用演説」と報道される。

9月6日

「大阪朝日新聞」、「東京は宛然第二の露都と化し去りたり、汚吏の専制暴虐は飛んで東京に入り、昨日の国民大会は全然蹂躙されんとしたり。・・・今や敵を満州に防がんよりは、近く東京にあり。」

8日、「言論出版集会の三大自由は憲法の保障する所にして、法律の範囲内に於ける国民の権利なり、今は議会を召集せず、・・・勅令を以って法律に代ふべき取締りを新定す、・・・精神に於て正しく憲法を破却するものなり」。

10~14日、発行停止処分。

15日、講和条約は締結され、天皇もこれを認めた、今後は、論鋒を憲政擁護・非立憲内閣打倒一本に絞ると社説で述べる。

9月6日

この日の原敬の日記、

「盛岡滞在、東京における昨五日の騒動の報知盛岡に達せり」とのみ(予め桂のシナリオを察知している如く?)。


つづく

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