2025年9月20日土曜日

大杉栄とその時代年表(623) 1905(明治38)年10月11日~20日 「大阪朝日」(10月18日)第1社説「国民は泣いて大詔に従うのみ」、第2社説「閣臣にして良心あらば自ら処決の機を発見せよ」。22日の短評欄に「今は各人各個、手紙なり葉書なりにて桂総理に辞職を勧告するも亦国家に対する忠義の一である」と評し、10月25日~11月7日発行停止。村山龍平社長は「社はつぶれぬとも限るまいがつぶれてもよかろう、主張だけは通そう」と漏らす。

 

村山 龍平

大杉栄とその時代年表(622) 1905(明治38)年10月17日~23日 1905年ロシア第一革命③ 「『われわれは、この飽くことなき、王冠を戴いた死刑執行人に自由の約束をさせたのだ。なんという偉大な勝利だろうか。だが、勝利を祝うのはまだ早い。勝利はまだ不完全なのだ。(略)市民諸君! われわれの要求はこうだ。軍隊はペテルブルクから撤退せよ! 首都の周囲25ヴェルスタ以内にひとりの兵隊も残すな。自由な市民自身が秩序を維持するのだ。勝手な振舞いや暴行は誰も我慢しないだろう。人民はあらゆる手段で自衛するのだ』。」(トロツキー『1905年』「10月18日」) より続く

1905(明治38)年

10月11日

(漱石)

「十月十一日(水)頃、来客余りに多いので、寺田寅彦・野間真綱・中川芳太郎など親しい門下生五、六人に当分来ぬように伝える。

十月十三日(金)、晴。東京帝国大学文科大学で、Tempest を講義する。」(荒正人、前掲書)


10月12日

桂=ハリマン協定。桂太郎首相、米鉄道資本家ハリマンと南満州鉄道および付属財産などの買収に関する日米シンジケート組織の予備協定覚書を交換。

10月13日

上田敏訳『海潮音』発表

この直後、上田敏は「芸苑」復刊を企画。編輯兼発行人には「文学界」当時の旧友馬場孤蝶の名を借りた。また、馬場と親交があり、上田の学生であった森田米松は、馬場の紹介でこの雑誌に参加することになる。森田とともに、その仲間の生田弘治らもこの雑誌に参加した。生田は大学では美学を専攻し、大塚保治に師事していた。馬場孤蝶はチェーホフの「六号室」を訳し、森田米松は「病葉」という小説を書いた。上田敏は雑誌を出すに当って、生田弘治に長江という号を、また森田米松に白楊という号をつけてやった。更に上田敏の旧友で、この年4月から上京して、「破戒」の原稿の完成に努めていた島崎藤村は、特にこの雑誌に「朝飯」という短篇小説を寄稿した。

この時期、東京帝大の学生が作品を発表する機会のあった雑誌としては、学生間の有力者である小山内薫等が編輯していた「帝国文学」、小山内薫らを中心とする「七人」、漱石が発言権を持っている「ホトトギス」があった。

「芸苑」は、学者であり、「海潮音」によって日本語に新しい美を創り出した芸術至上主義者上田敏の主宰する雑誌で、アカデミックなものとなる気配ではあったが、学生の作品や評論も載るというので、出る前から評判になっていた

第一次「芸苑」

明治35年2月、上田敏(29歳)は殆ど個人雑誌というべき「芸苑」を発行し、西欧文学や美術の紹介と翻訳、古本の美術や演芸の批評等の記事を載せた。寄稿者は藤島武二(画家)、平田禿木ら。雑誌は創刊号のみで終り、4ヶ月後、小倉から戻った森鴎外と協力して、改めて「芸文」を創刊。しかし、この雑誌も6月に創刊号を出し、8月に第2号を出して中絶した。

10月14日

作家・小島烏水(うすい)ら、発起人となって「山岳会」を結成。1967年日本山岳会と改称。

10月14日

英、婦人参政権論者クリスタベル・パンクハーストとアニー・ケニー、警官に暴行を加えたため投獄。

10月15日

小村寿太郎帰国。横浜着。農商務相兼内相清浦奎吾・逓相大浦・文相久保田譲・司法相波多野敬直ら出迎え。横浜停車場には伊藤博文、新橋停車場には桂首相・山本海相が出迎え。外相官邸到着後、すぐに参内。

先に帰国した外務省政務局長山座円次郎より12日に桂太郎首相がアメリカの鉄道資本家ハリマンと南満州鉄道および付属財産などの買収に関する日米シンジケート組織の覚書交換の件を聞き、これに反対。

18日、取消しを閣議決定し、直ちに在サンフランシスコ領事に桂首相名により覚書取り消しを通告。

10月中旬

石川啄木(20)、「小天地」第2号の原稿が集まったが、病を得て延期、遂に1号雑誌に終る。この頃より一家の経済が次第に行きづまる。

「二号は本月一日に出すべき筈の所、小生の不健康のため、つひ末だ原稿を印刷所にも廻しかね居候、世の中に対しては甚だ面目次第もなき儀に候へども、一方にはこの痩腕にて一家五人のいのちをつながねばならず、又、身内の病魔との戦ひもあまり呑気なる務めにも無之、剰さへ、先月よりは諸友皆南に去り、初め提携したりし落花氏とても実は少しも役に立たず、目下おのづから敬遠主義を取らねばならぬ不幸に陥り候」(浪岡茂輝宛十月十一日書簡)

この年各雑誌に詩作を発表、処女詩集『あこがれ』の刊行や雑誌「小天地」の創刊など、旺盛な文芸活動を示したが、一家扶養の責任が啄木の双肩にかかって苦悩の多い年であった。

10月16日

天皇の批准を終えた日露講和条約・追加約款、勅令で公布。11月25日批准書交換。

10月16日

(漱石)

「十月十六日(月)、東京帝国大学文科大学で、午前十時から十二時まで「十八世紀英文学」を講義する。

十月十八日(水)、第一高等学校で、不出来な生徒を叱り、全級にこんなにできなければみんな落第だと云い渡す。」(荒正人、前掲書)


10月16日

インド総督カーゾン、ベンガル分割令施行。ベンガル州をベンガルと東アッサム・ベンガルに分割。民族主義者は反発。1906年12月30日の全インド・ムスリム連盟の結成につながる(いかなる憲法改正が行われても宗教別代表制を要求することを言明)。

10月16日

日露講和もなり、永井荷風の公使館の臨時雇いが今月限りとなる。この日、荷風はそのことを昵懇になって1ヵ月半になる異郷の娼婦イデスに告げる。


「彼の女が化粧の香高く薫るさま何となく薔薇咲く春夜の庭に在るが如き思なり。余は程なくこの都を後に紐育に去るべきよし語出でしに彼の女は暫く無言にて唯だ腹立たし気に細き靴の先にて散積る落葉を音高く蹴たりしが忽余が身を堅く抱きて声をもらせさらば今宵より毎夜わが家に来てたまはれかし、執根く跡は追ふまじければ別るゝ日まで一日に必ず一度来てたまはれかしとてひたとわが胸に其の顔押当てたり」

「鳴呼人の運命ほど測りがたきはなし。異郷の街の旅より旅にさまよひ歩みて、将に去らんとする時この得がたき恋に逢ふ。余は明日を待たで死するも更に憾みなし」(『西遊日誌抄』)


11月に一旦カラマズに帰着

11月24日、父の配慮で正金銀行ニューヨーク支店に勤務する手筈が整う。 


10月17日

日本、遼陽に関東総督府設置。天皇に直属。関東州守備と民政の統轄。駐留兵は約1万。日露講和の追加約款で、鉄道保護のため沿線に1kmあたり守備兵15名を配備する権利をえる(満鉄沿線に1万4419名配備できる)。1906年5月に旅順に移転。

10月17日

日本基督教女子青年会(YWCA)設立。東京早稲田の大隈重信邸で発会式挙行。会長は津田梅子

10月18日

小村寿太郎に3万円、高平小五郎に1万円が下賜。

10月18日

「大阪朝日」、講和条約の天皇による批准が終わり講和を受け入れるが、桂首相及び内閣を攻撃。

この日付第1社説「国民は泣いて大詔に従うのみ」で天皇の名による講和条件を受け入れるが、第2社説「閣臣にして良心あらば自ら処決の機を発見せよ」を書く。

22日の短評欄に、「今は各人各個、手紙なり葉書なりにて桂総理に辞職を勧告するも亦国家に対する忠義の一である」と評し、10月25日~11月7日発行停止。

村山龍平社長は「社はつぶれぬとも限るまいがつぶれてもよかろう、主張だけは通そう」と沈痛な面持ちで漏らしたという。

10月19日

大阪瓦斯(株)開業。大阪市と報償契約。

10月20日

島崎藤村、長男楠男誕生。

藤村は『破戒』の出版費用を考慮して、生活を切りつめていた。妻の父・秦慶治から借りた400円は印刷費として手をつけず、神津牧場の若主人・神津猛から借りた150円を生活費とし、毎月30円で暮すようにしていた。しかし数え年6歳の長女緑と4歳の次女孝子があるため、妻冬子は家事を切りまわすことができなくなった。藤村は仕方なく小諸の仕立屋津金良助に頼んで、その娘末子を女中として雇い入れた。

10月20日

(漱石)

「十月二十日(金)、雨。東京帝国大学文科大学で、 Tempest を講義する。

夜、『薤露行』執筆中に、寺田寅彦来て、すぐ帰る。」(荒正人、前掲書)


つづく



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