2025年9月29日月曜日

大杉栄とその時代年表(632) 1905(明治38)年12月 〈1905年12月モスクワ武装蜂起①;10月ストライキ、10月宣言まで〉 その日(18日)モスクワ・ストライキ委員会は19日のスト中止を決定。宣言で諸要求(憲法制定会議召集等)追究を継続する姿勢を示す。 宣言は大きな喜びであったが、それを信じたからではなく、それが名誉をもってストを終結する機会を与え、新たな力をもって更なる闘争をなすに必要な息つぎを与えた。 まず進行したのは労働団体の「合法化」と組織化で、宣言とともに全ロシア鉄道同盟は合法組織として全都市で公然たる活動を展開。、、、

 

ツァーリによる国会開設と憲法制定の勅令(10月宣言)

大杉栄とその時代年表(631) 1905(明治38)年12月1日~3日 「12月3日の夕方、ペテルブルク・ソヴィエトは軍隊に囲まれた。出入口はすべてふさがれた。執行委員会が会議を行なっていた2階桟敷から私は、1階ホールにあふれていた数百人の代議員に向かって叫んだ。  『抵抗はするな。だが武器は敵の手に渡すな!』。 彼らが手に持っていた武器は拳銃だった。そして、すでに四方を近衛連隊の歩兵、騎兵、砲兵で包囲されていた会議場の中で、労働者は武器を使えないようにしはじめた。・・・・・金属のぶつかりあう音、がちゃがちゃする響き、金属の破壊される時のきしんだ音は、プロレタリアートの歯ぎしりのように聞こえた。」(トロツキー『わが生涯』) より続く

1905(明治38)年

12月 

〈1905年12月モスクワ武装蜂起①;10月ストライキ、10月宣言まで〉

1905年1月9日の「血の日曜日」事件以降に展開された一連の革命過程(第1次ロシア革命)は、10月ゼネスト及び10月17日の10月宣言でこの革命のピークに達するが、革命運動はその後も継続して、12月モスクワ武装蜂起で終焉を向かえる。

ここでは、モスクワでの革命過程を、鉄道労働者や兵士の動きを中心に見てゆく。


4月20日

~21日 全ロシア鉄道同盟(議長ペレヴェルゼフ)第1回大会(モスクワ)。

諸自由と憲法制定会議の実現をめざす政治的要求を前面に出したもの。

中央ビュロー(7名);ペレヴェルゼフらエスエル3名、ボリシェヴィキ2名、メンシェヴィキとアナキスト各1名

7月22日

~24日、全ロシア鉄道同盟第2回大会。

国家改革加速化のために政治ゼネスト準備を議論し、ストライキ決定権を中央ビュローに移行させる。ポーランド代表がポーランド王国が独自の憲法制定会議を召集出来るまで、ロシア人鉄道員は闘争を止めないよう綱領修正を求め、大会は紛糾。結局、これは否定され、ポーランド及び社会民主党系の代表は「同盟」を脱退。

9月20日

運輸相が年金規約見直しのためにべテルブルクに鉄道職員大会を召集。しかし、参加者たちは第1回全ロシア鉄道職員代議員大会を宣言し、憲法制定会議、政治的自由、8時間労働日、恩赦、自治等の要求を採択。

全ロシア鉄道同盟中央ビュローは鉄道ゼネスト接近を実感し、その成功のためにモスクワの全党派グループに協力を要請し、エスエル、社会民主党両派、幾つかの労組を加えた情報委員会を結成。しかし、モスクワの社会民主党グループは労働者の気分低下を理由に地方的ストのみを引き受け、他を全ロシア鉄道同盟に任せる方針をとった。同盟側はこれを認め、スト突入を10月4日に指定したが、グループ側は4日には何もなせず、同盟は改めて7日のスト開始を定め、それを実行した。


10月7日

モスクワーカザン線の機関士が先頭に立ち鉄道ゼネストが開始

同日、全ロシア鉄道同盟中央ビュローは、言論・出版・集会・結社・ストライキの自由、普通・平等・直接・秘密投票による人民代表機関の召集(さらに、9日に出した11項目要求で、憲法制定会議をいう)をその基本目標に設定し、更に経済要求実現をめざした。

8日夜、ペレヴェルゼフら同盟指導部が逮捕されるが、ストの進展自体に影響を与えていない。ボリシェヴィキは当初、ストの全国化に対し懐疑的であったが、10日にほとんど全国の路線が停止するに及び全国ゼネストを認知する。

この間、同盟中央と地方各支部との戦術的結合はほとんどなく、各路線は中央から独立したストライキ委員会等を結成して、独自な動きをしていた。

政治的ゼネストは、10月10日、モスクワ、ハリコフ、レーヴェリで始まり、11日にはスモーレンスク、エカチェリノスラフ、ロッジなどに広がり、10月16,17日には、ロシア全土がストの大波に揺れ動いた

10月18日

モスクワの人々はこの日の新聞で10月宣言を知る。

その日のうちにモスクワ・ストライキ委員会は19日のスト中止を決定。宣言で政府が認めなかった諸要求(憲法制定会議召集等)の追究を継続する姿勢を示す。

宣言は大きな喜びであったが、それを信じたからではなく、それが名誉をもってストを終結する機会を与え、新たな力をもって更なる闘争をなすに必要な息つぎを与えた。

まず進行したのは労働団体の「合法化」と組織化で、宣言とともに全ロシア鉄道同盟は合法組織として全都市で公然たる活動を展開。従来、敵対的であった中間管理層の対応も大きく変わり、中央ビュローはロシア技術協会にその事務所を開設した。


鉄道員の動向;

路線の主な駅毎に「ソヴィエト」ないし「地方委員会」が自然発生的につくられ、路線別に鉄道員大会が開催された。例えば、モスクワ=キエフ=ヴォロジノ線ではコノトプ駅ソヴェトやモスクワ駅地方委員会が結成され、10月17日のサラトフでの「第1回リャザン=ウラル鉄道代議員大会」、10月15日のリュボチナでのクルスク=ハリコフ=セヴァストーポリ線とハリコフ=ニコライ線の鉄道員大会開催のあと、11月20日、南部諸線大会(ハリコフ)、11月21日、シベリア鉄道大会(トムスク)が続いた。


10月18日

獄から解放されたばかりのモスクワ・ボリシェヴィキの代表的活動家バウマンが殺害される。自由と弾圧、人民側と権力側の緊張関係。

10月18日

兵営の雰囲気。

モスクワ守備隊ロストフ連隊にいたウリヤニンスキーの回想。

この日、我々の教導隊に士官が輝いた顔をして走ってきて、こう説明した。

ロシアに憲法が下賜され、今から我々全ては自由な市民として、自己の政治的見解を表明し、公然と集会する権利を持つ。やがて、国会が召集されるだろう、と。皆とこの喜ばしい出来事を祝ってから、彼は我々に家へ戻って休むように命じた。

通りは何か全くただならぬ様子で、それまで人気がなかったモスクワの通りは巨大な群集でうまり、彼らは赤旗を持ち、様々に革命歌を唄っていた。誰もこれを止めることはなく、警官もほとんどおらず、至る所で宣言(詔書)について議論する人だかりが見られた。

10月18日

~24日、黒百人組によるポグロム。ロシア全土の都市101で死者3千人以上、負傷者1万人以上。

10月19日

全ロシア鉄道同盟中央、「一時的に」ストを中止する指令を出す。

10月19日

ペテルブルク・ソヴィエトは、ゼネスト中止を決定。

20日、ぺテルブルクの多くの工場で集会が開かれ、ソヴィエトの決定がうけ入れられた。

21日、10月ストライキ終わる


10月21日

全ロシア鉄道同盟代表団と首相ヴィッテが会談。

代表団の面前でヴィッテは提出された要求につき、採否を吟味してみせる。一行はついにロシアでも欧米的原理に立脚する鉄道員の協同組合組織が認知されたと考えた

「十月後、鉄道員大衆はストを全く考えなかった。圧倒的大半の者は全ての自由が実現し、鉄道員たちの必要はやがて満足されるだろうことを疑わなかった」


つづく

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