2025年9月4日木曜日

大杉栄とその時代年表(607) 1905(明治38)年9月5日 日比谷焼打事件② 「警官憲兵ハ必死解散を命ずるも応ずれバこそ益々会衆を増加し爰にも警官憲兵と会衆との間に衝突起り交通ハ杜絶し附近の住家ハ悉く門戸を閉し会衆ハ鯨波を作り何時散ずべき模様もな」い。開催前から「山下門々前の光景ハ正に之れ石の雨、丸太の雨」という状態になり、群衆は丸太を交差点に積み上げ、電車を止めた。

 


大杉栄とその時代年表(606) 1905(明治38)年9月5日 日比谷焼打事件① 〈日比谷焼打事件の概要〉 藤野裕子『民衆暴力 ― 一揆・暴動・虐殺の日本近代』(中公新書)による より続く

1905(明治38)年

9月5日 日比谷焼打事件②

「○之ほど馬鹿らしさはなし 後備老兵

私は後備兵であります。沙河の戦闘で片足を失って参りました。私の弟は現役兵で昨年大石橋にて戦死しました。〔中略〕兵隊程馬鹿らしいものはありません。堅く子孫の末まで申伝えて撞きます。必ず兵隊に取られぬ様に平素神仏に祈願を致し置け。而して不幸にも兵隊に取られ戦争に行くことがあっても、必ず敵に手向い致さず、第一番に俘虜になれと。(「講和条約に関する投書」『東京朝日新聞』)

9月5日

日比谷焼打事件。~7日迄。

朝4時、国民大会の事実上の実行委員と見なされる大谷誠一・村松恒一郎・細野次郎・恒屋盛服・高橋秀臣5人を検束。

8時過ぎ、日比谷警察署は日比谷公園の門6つを封鎖し警官350を配備。麹町署長は正門前に位置する。警視庁には警官待機。

9時、小川平吉は大会委員辞退届を事務所に来訪の警部に示す。

10時頃から人が集まり始め警官隊と睨み合い。
小川平吉らは東京市参事会に公園封鎖の不当を訴え、開門手続きをとるよう要請。参事会員は、警察が何の相談もなく市の公園封鎖に憤慨、解除を満場一致即決。尾崎行雄市長が内務省に抗議、警察と開門交渉

11時、「午前十一時頃より会員は続々群集し警官の制止も聴かず公園に人らんと」(『読売新聞』9月6日)する状況。群衆は討鎖された門の前で「口々に警察の不法を罵り」、委員が、門を開けなければ「三菱の原に於て開会すべし」Lと演説したため混乱はさらに増した。

午後0時40分、江間俊一(44)ら東京市参事会員10人が正門前着、麹町署長に抗議。そこに「同志聨合会」幹部も着。警官と押し問答。内田良平(31)が黒龍会猛者達に合図、彼らは門を乗越える。江間も門内に突入し正門の開門を迫る。

これを契機に群衆がなだれ込む。「其の数無量十万!! 紳士あり、印絆天あり、書生あり、老人あり、小児あり、婦人あり」「眼ハ血走れり彼等の面貌にハ殺気満ち充てり」。群衆は予定会場まで進んだ。

1時(集会開始予定時刻)、1門でも破られたら残り5門を開門するという予めの指示通り全門が開放。群衆3万。喪章付き小旗5千、煙火2発、「吾に斬奸の剣あり」など垂れ幕つき軽気球7個。
午後1時、開会。開会の辞は山田喜之助(弁護士、元大審院判事)。河野広中を会長に推薦する宣言。河野広中演説、大竹貫一の演説、河野広中の講和破棄・戦争継続の決議案朗読。万歳三唱で閉会。30分程

「・・・小川平吉ら国民大会の主催者は、こうした巷間にあふれた講和反対の論理を共有していたわけではなかった。国民大会では、講和条約の破棄を求めるとともに、「満洲各軍に打電すべき決議」として 「吾人は我出征軍が驀然奮進(ばくぜんふんしん)以て敵軍を粉砕せんことを熱望す」として、戦闘継続の要望を決議している(『所謂日比谷焼打事件の研究』)。

講和条約の反対に乗り出した政治集団は、その思想的な特徴から、「国民主義的対外硬派」と呼ばれている(宮地正人『日露戦後政治史の研究』)。彼らは藩閥専制を批判し、国民の立場で政治を行うべきだと主張したが、それは何よりも国家の拡大・膨張のために重要だと考えていたからである。彼らは国民のエネルギーを重視する一方で、同時に矛盾なく対外膨張を主張した。戦争の継続を求めるために、国民大会を開いて国民の声を集めることは、まさに 「国民主義」で「対外硬」という彼らの政治思想的な特徴を表していた。

新聞各紙も論調は同様だった。条約の破棄は当然のことながら戦争の継続を意味するが、それでも現在の屈辱的な講和条約を締結するよりはましてある。戦争の継続に国民が堪えられないと考えるなら「政府自ら日本国民を侮辱するに当る」とも述べている(『東京朝日新聞』九月一日)。このように政治団体や新聞の主張は、もうこれ以上戦争はいやだという人びとの意識と大きくかけ離れていた
実際、国民大会には二、三万人が集まったといわれるが、これは大会主催者にとって思いも寄らぬ数字だったようだ。メンバーの一人は、大会当日の様子を次のように述懐している。

江戸ッ児の特性たる物見好きの健児は忽ちにして大多数押し寄せ来たり。公園を中心として各所より集まり、予め大会に出席せざるべき筈なりし車屋の挽児(ひきこ)も、商店の番頭も、工場の職人も、蕎麦屋の小僧も、会社の給仕も、夢中に飛出したるものと見え、知らず知らずの間に大紛擾を生じ〔後略〕(『鳴呼九月五日』)

「車屋の挽児」・・・を、国民大会には出席しなかったはずの人たちと認識している点が興味深い。「国民大会」と名付けてはいるが、あらゆる階層の人びとが集まるとは想定していなかったのである。

大会主催者の思想とは異なる論理で反対する人びとが、大会終了後、独自に行動をとった。それが日比谷焼き打ち事件ということになる。(藤野裕子『暴力 ― 一揆・暴動・虐殺の日本近代』(中公新書))"
1時35分、河野・大竹・小川は群衆を宮城前に引率することに決める(2時より「新富座」で演説会だが、興奮した群衆を置き去りにはできず宮城前で気を鎮め解散の段取り)。

報告を受けた芳川顕正内相は警視庁松井第1部長に群衆の二重橋前進阻止を命令
「警官憲兵ハ必死解散を命ずるも応ずれバこそ益々会衆を増加し爰にも警官憲兵と会衆との間に衝突起り交通ハ杜絶し附近の住家ハ悉く門戸を閉し会衆ハ鯨波を作り何時散ずべき模様もな」い。開催前から「山下門々前の光景ハ正に之れ石の雨、丸太の雨」という状態になり、群衆は丸太を交差点に積み上げ、電車を止めた。

河野らは「億兆一心」「赤誠撼天地」と記した大きな旗を先頭に立て行進したため、旗を降ろせという警官隊と二重橋前の広場でこぜりあいになった。

二重橋前では「君が代」演奏。出動した浅草署長が楽器・弔旗没収命令。群衆は警官隊(新たに新宿・千住署隊が加わる)に投石。かなりの巡査が負傷。黒龍会の猛者達が麹町警察署長向田幸蔵を袋叩きにする(「少壮血気の志士ハ飛付きさま警部を蹴仆し『殺せ殺せ』の声ハ八方に起り遂に警部一名ハメチヤメチヤに袋叩にせられたり」)。

大竹・河野代議士は、一旦旗を巻き、群衆を宮城前より退去させる。

一部群衆は「新富座」に向い、他の一群は公園東側に隣接する「国民新聞」社(講和賛成)に向うことになる。また、この頃既に「新富座」前には群衆があふれている。
午後1時、新富座は場内満員。この上に日比谷公園からの2千が合流。

1時40分頃、京橋警察所長田川誠作は治安維持困難とみて解散命令を出し入り口を警官隊が固める。群衆は騒ぎ出す。

群衆は 「横手の通用門に廻ってワッと叫き立て扉を打砕きて雪崩を打って場内に入込みたり」。一人の鷺宮が屋根に立って、門を破る群衆を、突き落としたが、その直後に群衆に逆に引き落とされる。

「群衆の激怒愈々其度を加へて附近に用意しありげろ屋根瓦を」投げ付けはじめる。「石塊飛び棍棒飛び警官の白制服にハ往々鮮血の灑(そそ)げるを見る」。その上、「慷慨淋漓の士突如新富座北隣の芝居茶屋新駒屋の二階に現はれ群衆を麾きて暴政府のクーデターを絶叫」したため、騒ぎはさらに大きくなった。群衆の間に、国民新聞社が襲撃されたという話が伝わり、一部はそちらへ向かった。

この騒ぎで、所長の田川自身も負傷し捕縛命令を出す。県会議員小泉又次郎(3年後、衆議院議員、当選12回、衆議院副議長・逓相、大正期には普選に尽力)・弁護士卜部喜太郎ら、電柱に縛られる。同志連合会メンバ円城寺天山(「万朝報」記者)ら拘引。

4時頃、新富座の騒ぎは収まる。小川代議士がここで検束

つづく

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