2025年9月22日月曜日

大杉栄とその時代年表(625) 1905(明治38)年10月17日~31日 1905年ロシア第一革命④ 政府は労働者らを直接攻撃することを避け、これをもっぱら黒百人組に委ねた。黒百人組の蛮行(ポグロム)は、ユダヤ人のみならず多少とも反政府的な人々にも向けられた。10月18日~24日、黒百人組によるポグロム。ロシア全土の都市101で死者3千人以上、負傷者1万人以上となった。  

 

行進する黒百人組のメンバー(1905年・オデッサ)

大杉栄とその時代年表(624) 1905(明治38)年10月21日~30日 講和問題同志連合会、国民倶楽部に改組。 「内立憲主義を取り外帝国主義を行ひ、表裏相依り相須ちて始めて方今の大勢に応ずべし。・・・此二主義は国民的自覚に発して国民的自信に立ち国民的活動に依りて大成するものなり」(=「立憲主義的帝国主義」) より続く

1905(明治38)年

〈1905年ロシア第1革命④;10月宣言のあとに〉

10月17日

ペテルブルク・ソヴィエト、『イズヴェスチャ』創刊。

ソヴィエトの決議や、工場の決議、各地の情報などを載せた新聞『イズヴェスチャ』(無料)を発行。第1号(10月17日、千部)、第2号(10日18日、1万5千部)から第10号(12月14日)まで、大体2~3万部発行された。

10月18日

~24日、黒百人組によるポグロム。ロシア全土の都市101で死者3千人以上、負傷者1万人以上。

10月宣言後は、政府は労働者、学生、インテリを直接攻撃することを避け、これをもっぱら黒百人組に委ねた。黒百人組の蛮行(ポグロム)は、ユダヤ人のみならず多少とも反政府的な人々にも向けられた。

ぺテルブルクでもポグロムの動きが出てきたため、これに対抗して民衆の自衛が行なわれるようになっていった。槍、刀、剣などは労働者が自分で作った。火器は高価なので、ジーメンス=ハルスケ工場労働者は経営者に武器への支出を要求してが拒否された。それで、労働者は火器購入の資金集めを始めた。プチーロフ工場では、5千ルーブリ、セミヤンニコフ(ネヴァ造船)工場では2千ルーブリ、フランス=ロシア工場では1,500ルーブリ集められた。それでも、ぺテルブルクでは、少なくとも刀剣などを所持した1万~1万2千人と、拳銃、猟銃などをもった数百人の労働者がいたにすぎない。労働者は意気さかんで、各工場、地区で防衛隊が組織された。たとえば、レチキン工場ではポグロムに備えてザバルカンスキー大通り全域に番兵をたてるとか、プチーロフ工場ではポグロムに備えて電話一本で出動しうる態勢を持つとか、編集者の要請により、『ノーヴァヤ・ジーズニ』、『ナチャーロ』などの社会主義新聞印刷所の防衛にあたるなどした。

こういった対応の結果、ぺテルブルクではポグロムはほとんどおこらなかった。

10月19日

ペテルブルク・ソヴィエト、検閲をうけない新聞のみ発行の認めるとし、これに従わない新聞は没収し、印刷機械は破壊され、ソヴィエト決議に従わない労働者はボイコットされようと決議した。この決議は「法律」となった。

翌20日、経営者は会合して検閲廃止を声明、すべての新聞は検閲をうけていないことを報道した、

印刷工組合に結集した労働者は検閲された原稿の組版、印刷を拒否することにより、印刷の自由を実質的に保持した。

このような情勢を背景にボリシェヴィキの機関紙『ノーヴァヤ・ジーズニ』やトロツキーらによる『ナチャーロ』、『ルースカヤ・ガゼータ』、エスエルの機関紙『祖国の子』も公然と発行され、ぺテルブルクの労働者・市民のみならず、地方にも送られて読まれた。各駅では、列車の到着を待って、新聞を買う人の長い列ができた。しかし、地方では、新聞が貨車郵便局で憲兵に没収されることもしばしばだった。

また、ソヴィエトは機関誌『イズベスチヤ』(報知)を発行した。印刷工組合はよく組織されていて、ストライキが宣言されるとすぐ"

10月21日

政治犯の一部を大赦,

10月24日

フィンランドに自治が与えられる。

10月25日

この日、ペテルブルクのセミャコフ工場労働者は、午後6時半に仕事を終わるところを5時にやめた。

翌26日、ネヴァ地区のソヴィエト代表は、8時間労働に入ることを決定。

27日、8時間労働はグイボルク地区の先進工場に波及。

各工場の労働者が競争のような形で、ソヴィエトにはかることなく8時間労働を実行し始めた。労働者は汽笛やベルで普段のように仕事につき、8時間(休息時間は含めず)働くと、終了の合図をまたずに道具を片付けて帰宅した。

10月ストライキが終了してから、労働者が最も関心を持ち、精力的にとり組んだのは8時間労働の問題であった。労働条件改善のシンボルとして8時間労働のスローガンは、1905年革命の高揚とともに強められた。

鉄道工場と機関車の労働者が2月17日、10時間の代わりに9時間労働を獲得したのは、戦時中ゆえの政府側の止むをえざる譲歩であった。ツァーリ政府は鉄道ストが極東への軍事輸送の重大な障害となることを恐れたのである。

ペテルブルクの金属・機械などの大工場は大体10時間労働であった。中小工場、繊維工場では、条件はこれより悪かった。10月ストライキが終わり、労働者が自信を強めて仕事について、労働条件は相変わらず旧来のままだったとき、8時間労働の問題が各工場で自然に起こってきた。

10月26日

クロンシュタットに水兵の暴動。勤務・待遇の不満。10月ストライキ、労働運動の高揚が大きな影堺を及ぼす。

翌27日、ぺテルブルクから派遣された軍隊により鎮圧。

事件に関する正確な情報がなく、ペテルブルク・ソヴィエトはどうすることできなかった。水兵1,200人が逮捕され、軍法会議にかけられることが10月未にわかった。

ぺテルブルクのすぐそばで、立ち上がった水兵が厳罰にされることは、同じような立場にある労働者にとって許しがたいこであり、それはツァーリ政府の強化をも意味した。

10月30日、クロンシュタットの水兵を支援するため議論がネヴァ地区労働者から始まった。

10月31日、多くの工場で集会がもたれ、抗議集会、デモ、政治ストなどの抗議形態が提起された。

10月29日

ペテルブルク・ソヴィエト会議、殆ど討論することなく満場一致で、賃金基準の引上げ、10月31日からぺテルブルクの全工場が8時間労働に入ることを決議。

まず、オブーホフ、アレクサンドロフスキー、セミャンニコフ工場などの代表の8時間労働を強行した報告は大喝采をはくした。

8時間労働は革命の当然の課題として、討議なしで決議を採択すると考えられていたが、これを直ちに強行することに賛成しない代表もいた。プチーロフ工場の代表は1ヵ月半にわたる夏のストライキで労働者は疲れているので、現在の闘争を支持できないと述べた。企業家はすでに、工場の秩序に従わなければ馘首すると述べていた。その他、セストロレーツク、イジョーラ工場の代表も、決議には加わるが、しばらく8時間労働は行えないと述べた。しかし、これらの発言は熱狂緒大波にかき消されてしまった。

ただ、この決議は充分な見通し、準備のもとでおこなわれたとはいえない。若干の工場では、10月ストライキに加わったことによって解雇が始まったことが10月27日の執行委員会に報告されている。官営工場では代表を馘首して攻撃を始めていた。

徐々に不安な徽候は出ていたのだが、革命的高揚の中にこれらの動きは埋没してしまった。

10月31日

ソヴィエトの決議を得てさらに意気があがり、いたるところで8時間労働にとりかかった。ソヴェ下へ代表を送っている重要工場は、プチーロフ工場などをのぞいてほとんど8時間労働をおこなった。西欧労働運動が長い年月のあいだかかげできた8時間労働という目標が、一昼夜にして達成されたかに見えた。

8時間労働に対して、11月ストライキまでは、企業家の対応はさまざまであった。企業家側は、全体としては狼狽していた。

即刻工場閉鎖すると威嚇したり、賃金減額にとどめたり、労働時間を9時間半から9時間に減らすなどの譲歩もした。また、8時間労働を黙認して、出来高払い労働者には達成した仕事量を記録し、日給労働者には日給の4/5を記入したところもあった。この闘争がペテルブルクから全ロシアに広がるということも考えられた。


つづく



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