2025年9月11日木曜日

大杉栄とその時代年表(614) 1905(明治38)年9月13日~22日 「新聞紙が大活字を羅列して諸君を讃美謳歌しつつありし戦勝泰平の時期において、彼等国民の間には無限悲憤の熱涙を諸君のために拭いつつありし也。彼らの諸君に対する怨恨は、講和の条件によって醸成せられたるものにあらずして、その強いて抑え来れるの怨恨の、戦争終結をまって爆発したりしのみ」(『直言』社説「政府に猛省を促す」) 無期限発行停止 廃刊を決意する  

 


大杉栄とその時代年表(613) 1905(明治38)年9月10日~12日 「伊藤は妓を大阪に購ひて妾とし、井上は妓を携へて叡山に遊び、松方は赤十字事業視察の途次いたるところに淫蕩を恣(ほしいまま)にせり。それ出征者の家族、戦死者の遺族は飢うれども食なく、寒けれども衣なし。而して皆、『国家のため』の故を以て泣くことだに能はざりき。戦争に伴なふ社会的現象たる失業、貧困、犯罪の悲惨の如きは一顧さへも与へられざりし也。政府当局者よ、この泣く能はず言ふ能はざる悲惨の国民が、果して何等の情念を以て伊藤、井上、松方等の倣慢無礼を見つつありしと思ふや。」 「啻(ただ)これのみならず、内務大臣芳川顕正は淫蕩いたらざるなく、総理大臣桂太郎は万金を抛つて新たに妾宅を構へたり。」(『直言』第32号(終刊号)社説「政府の猛省を促す」) より続く

1905(明治38)年

9月13日

永井壮吉(荷風、25歳、ワシントンの日本公使館でアルバイト)、ワシントンの酒場で娼婦イデスと出会う。


「(明治三十八年)九月十三日 朝夕の風身にしむやうになりぬ。美しき燈火の光の恋しさに夜下町の寄席に入るに訳もなき愚なる俗曲却て客愁を動す事深し。一酒舗の卓子にカクテール傾くる折から不図わが傍なる女(これがイデスなり)の物云ひかくるがまゝに打連れてポトマック河上の公園を歩み遂に誘はれて其の家に至る。」(『西遊日誌抄』)


9月14

満州軍総司令官大山巌元帥、全軍に休戦命令発令。

9月14

奥羽本線開通。

9月15

(漱石)

「九月十五日(金)、晴。夕刻、犬塚武夫来る。八畳の座敷で長く話し込んでいると、泥棒が入り、書斎からニッケルの懐中時計を盗み、玄関から犬塚武夫の帽千・雨具(ゴム製)を盗む。書斎から鈴木三重吉の長い手紙を引っぱり出し、机の上に一端が残り、その先は障子を越え、庭木戸から次の木戸を越え、畑の中頃まで及び、最後の切れ端を不浄紙に利用する。(後年、漱石がこの話をした時、鈴木三重吉は何ともいえぬ嫌な表情をしたと云う)

九月十六日 (土)、暗。野村伝四・中川芳太郎、ついで寺田寅彦来る。馳走する。中川芳太郎、『一夜』を激賞するが、野村伝四、分らぬと云う。」(荒正人、前掲書)

「学生時代に七円五十銭で買ったもので、イギリス留学にも持っていったものである。」(荒正人、前掲書)


また、鈴木三重吉の手紙が盗まれて、封筒だけが縁の下に棄ててあった。その厚い手紙を泥棒は札と間違えてたようであった、とも。

漱石が、友人の第二高等学校教授の斎藤阿具から借りていた家は、隣に中学校があったり畑地があったりして、泥棒に狙われやすい家であった。この年4月頃にも泥棒が入って、家中の普段着を全部盗まれて困ったことがあった

9月15

ハンガリー、ブダペシュト、「赤い金曜日」大デモ。社会民主党指導の普通選挙要求10万人デモが下院包囲。1週間後、フランツ・ヨーゼフは「連合」指導者に綱領の完全放棄要求。諸県での抵抗。

9月17

この日付け漱石の高浜虚子宛の手紙。「とにかくやめたきは教師、やりたきは創作。創作さへ出来れば夫丈で天に対しても人に対しても義理は立つと存候。自己に対しては無論の事に候」。漱石は文学に渇望している。


「九月十八日(月)、東京帝国大学文科大学二十番教室で午前十時から十二時まで 「十八世紀英文学」を講義する。」(荒正人、前掲書)

9月18

「東京騒擾画報」(「戦時画報」臨時増刊号)。

日比谷焼討ち事件の写真・報道画を多数収録。矢野龍渓の迫真ルポ「出鱈目の記」。日露開戦後、「近事画報」を「戦時画報」に改称。近事画報は矢野龍渓がおこす。編集長国木田独歩。

9月18

ストックホルム、グレタ・ガルボ、誕生。

9月20

ロシア・バルチック艦隊司令官ロジェストヴェンスキー中将一行、佐世保海軍病院を出て、広島県似島へ移動。宇品~広島経由列車で京都へ向う。

9月20

午後4時30分、全国有志大会。上野精養軒。

東京衛戍総督府より歩兵1大隊、騎兵3分隊、憲兵1小隊派遣。上野停車場・上野公園内に検問所。全国より200人。発起人総代河野広中、会長鈴木重遠(旧自由党政治家)。大竹貫一の読上げる上奏文可決。会場内には偽ボーイ、地方委員にも探偵が紛れ込む。この時点では、講和反対は言うものの戦争継続は決議文から消える。

9月20

「直言」社説「政府に猛省を促す」で無期限発行停止。廃刊を決意

日本国民は当局者に深大の怨恨を抱く。「新聞紙が大活字を羅列して諸君を讃美謳歌しつつありし戦勝泰平の時期において、彼等国民の間には無限悲憤の熱涙を諸君のために拭いつつありし也。彼らの諸君に対する怨恨は、講和の条件によって醸成せられたるものにあらずして、その強いて抑え来れるの怨恨の、戦争終結をまって爆発したりしのみ」


9月21

東京の新聞社12社が会合。「東京朝日」の長期発行停止対策。

翌22日、社主・代議士である「東京日日」横井時雄、「毎日」島田三郎、「報知」箕浦勝人、「中央」大岡育造が、東京衛戍総督府、警視庁、首相官邸を訪問、抗議、停止解除要望。

24日、解除。

9月21

東京府政治記者有志、警視庁廃止意見書を府会議員に送る。

22日、東京市会、日比谷焼打事件での民衆弾圧を批判し、警視庁廃止意見書可決。

11月27日、東京府会、貴族院・衆議院への請願など可決。

9月22

東大を休職処分になった戸水寛人、「報知新聞」(主筆村井弦斎)客員として採用される。

村井弦斎:

9歳の時、ニコライ司教の駿河台学校でロシア語を学ぶ。東京外国語学校魯語学科第1期生(病気中退)。報知新聞社長矢野龍渓の勧めで「報知新聞」入社。新聞小説家として活躍。日清戦争後退社するが、のち社主三木喜八の呼び戻される。

9月22

(漱石)

「九月二十二日(金)、東京帝国大学文科大学で前学年に引き続いて、 Shakespeare, Tempest (『テンペスト』(『あらし』))を講義する。(小宮豊隆・田部重治)

九月二十四日(日)晴。秋季皇霊祭。(秋分の日)中川芳太郎来て、長く話す。他にも二、三人来る。午後、寺田寅彦来る。一緒に橋口清(五葉)を訪ね、上野で白馬会の展覧会を見て、谷中から日暮里を散歩する。留守中、皆川正禧来る。

九月二十五日(月)、東京帝国大学文科大学で、午前十時から十二時まで 「十八世紀英文学」を講義する。学校を辞職して、半年ほど休養したくなる。」(荒正人、前掲書)

つづく

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