1905(明治38)年
11月21日
「新聞大同盟」代表委員、各政党・首相・内相を訪問、緊急勅令撤回を求める。黒岩涙香・池辺三山・横井時雄ら5人。
11月22日
韓国、水原観光帰路、伊藤の列車に農民投石。
11月22日
ロシア・バルチック艦隊司令官ロジェストヴェンスキー中将一行、船内暴動騒動のあと長崎港出港。
11月22日
ワシントン密使事件。米人ホーマー・ハルバート、11月26日付け高宗密書を国務長官ルートに渡す。協力拒否(「桂=タフト協定」のため)。他の駐仏公使・前駐米公使を通じた対米工作も失敗。
ホーマー・ハルバート:
宣教師・言語学者・歴史学者。1886年官立洋学校「育英公院」英語教師として招聘。情報誌「コリアン・レビュー」を刊行、皇室にも出入り。著書「韓国史」「大東年紀」「韓国見聞記」。高宗は一時帰国中のハルバート(在ワシントン)に密書を送り、ルーズベルトへの伝達を依頼。
11月23日
初代韓国統監、伊藤博文が就任。
11月23日
第2次日韓協約、「官報」・外務省告示で公表。
11月23日
ロシア、「10月勅令」をロシアの歴史的転換点と見做す穏健派反政府運動、オクチャブリースト(「10月17日の同盟メンバ」)設立。指導者グチーコフ、ロジャーンコ。
11月24日
菅野須賀子、論説「筆の雫」(「牟婁新報」)。
11月24日
(漱石)
「十一月二十四日(金)、東京帝国大学文科大学で Tempest を講義する。」(荒正人、前掲書)
11月24日
永井壮吉(荷風)、カラマズで父の手紙を受け取る。
父は横浜正金銀行の頭取にたのんで、壮吉をその銀行のニューヨーク支店の事務月見習に使ってもらうことにしたから、至急ニュー・ヨークへ行って支店の支配人に逢うように、とのことであった。
永井は断ろうと思ったが、ニュー・ヨークの正金銀行支店からも電報で招いて来たし、ニュー・ヨークならば三十分ぐらいでイデスのいるワシントンへも行ける、と思って彼は出かけた。
12月7日から、彼はいやいやながら正金銀行に勤めはじめた。
11月25日
清国に考察政治館設置。
11月25日
英米独仏で募集する公債の件公布(勅令241号)。4分利付・第2回、英貨公債5千万ポンド募集。2,500万ポンドのみ発行。英団体1,300万ポンド、パリ・ロスチャイルド家1,200万ポンド。
11月25日
米臨時代理公使、韓国における米の外交事務は、今後東京公使館で取り扱うことを通知。
11月25日
ワシントン、日露講和条約・追加約款の批准書交換。
11月26日
「東京朝日」、同胞俘虜の数を1,718人とし、これ以外に二百数十人存在と報じる。
11月26日
孫文らの中国革命同盟会、機関誌『民報』創刊(日本、東京)。
11月26日
(漱石)
「十一月二十六日(日)、『太陽』の編集をしていた大町芳衛(桂月)から原稿を依頼されたが、多忙を理由に断る。『明星』・『白百合』・『新小説』からの依頼も、同じ理由で断る。
十一月二十七日(月)、東京帝国大学文科大学で午前十時から十二時まで「十八世紀英文学」を継親する。俳書堂の籾山仁三郎から川崎安製作の石膏製額「子規居士半身像」を贈られる。「初時雨故人の像を拝しけり」と、礼状に添える。」(荒正人、前掲書)
11月26日
ロシア、ペテルブルク・ソヴィエト議長フルスタリョーフ逮捕。ソヴィエトには抗議ストを打てる力もなかった。
11月27日
駐韓アメリカ公使モルガン、第2次日韓協約により公使館閉鎖。イギリス公使などもこれに続く。
11月27日
東京府会、「警視庁廃止に関する意見書」案を満場一致可決、内相・衆議院に提出。警視庁が首都警察として国家的性格を持ち、警視総監は府知事ではなく首相・内相の指揮下にある。府知事・警視総監の対立を排除し一本化。また、内閣保護の為の警視庁から東京府知事下での人民のための警察に転換させる。1906年10月より議会で議論。
翌年、西園寺内閣において、内相原敬は警視庁廃止には反対。議会で否決。但し、原は元老山縣が掌握してきた内務行政権力基盤解体のため東京府下24警察署の18署長(薩摩閥)を更迭。
11月27日
社説(池辺三山)「凱旋歓迎の盛」(「東京朝日」)。三山も勝利凱旋の熱狂に酔う。
11月27日
この日、島崎藤村はようやく『破戒』第一稿を書き終える。稿を起したのは、前年明治37年初めで、1年10ヶ月を経て一応の完成を見た。
この日付、援助者の神津猛宛の葉書。
「草稿全部完了。十一月二十七日夜七時、長き長き労作を終る。(章数二十一、稿紙五百三十五)。無量の感謝と長き月日の追憶とに胸踊りつゝこの葉書を認む。」
彼は、原稿浄書に取りかかるに当り、本文の組み方から、挿絵や表紙の写真製版の仕方にまで念を入れた。鏑木清方に絵を依頼し、この頃、従来の木版に代る新しい写真製版術をアメリカから輸入した田中猪太郎に相談して事を運んだ。また本文の組と同じ字数で、原稿紙一枚がちょうど一頁になるように十二行四百三十二字の原稿用紙の版木を作り、それを手刷りにして、その上に彼は全部の浄書を行った。
11月27日
オーストリア・ハンガリー帝国、モラビアを言語による民族区域に区分しドイツ人とチェコ人の対立を調整する妥協成立。28日、普通選挙制導入。
11月28日
この頃、河上肇(27歳)は、道を求めて街上を歩きまわっていたが、この日、専修学校への途中、神田の古本屋でトルストイ「我が宗教」の翻訳を見つけて買った。この日、学校から帰って下宿でそれを読み、彼はトルストイの熱烈な信仰に魅入られた。
更にその数日後、彼は「無我愛」という題の、伊藤証信の発行する薄っぺらな雑誌を読んだ。彼は、伊藤証信は、トルストイと同じ宗教思想を実践している日本人だと思った。無我愛という思想は、彼の考えていた絶対的非利己主義と同じものだと感じた。
伊藤証信は、真宗系の僧であり、真宗大学を卒業して研究科に籍を置いた人物であったが、自己の思想を見出して、僧位を返上し、久しく乞食の巣になっていたという東京郊外の巣鴨の大日堂に立て籠り、味噌を嘗めて生活しながら、その薄い雑誌を発行していた。彼の主張は、「吾々は如何なる行為をしても、他人の愛を育てるか、他人の我執を挫くか、どちらかになるので、何も心配することはない。畢竟一切の活動はみなそのままで無我愛の活動なのである。それを自覚しないから安心が得られないのであるが、その道理さへ自覚すれば、吾々は直ちに絶対の平安絶対の幸福を得られるものである」というもの。
11月28日
アイルランド、シン・フェイン党結党。ダブリン、アーサー・グリフィス(1872~1922)。アイルランド完全独立主張。
11月29日
午前9時、枢密院会議、緊急勅令(戒厳令・新聞雑誌取締令)廃止。
11月29日
(漱石)
「一月二十九日(水)、E.A.Poe(ボー)の短編 "Ma. Found In a Bottle" (「壜のなかの手記」)を読み、森巻吉宛葉書に英文の訳語について連絡する。(斎藤静枝)」(荒正人、前掲書)
11月30日
韓国、侍従武官長兼陸軍副将閔泳煥、抗議自殺。
12月1日、前議政大臣・特進官趙乗世(77)、自殺(27日、上疏。憲兵隊に拘留)。
他に、経筵官宋乗璿、前参賛洪万植(甲申政変時、開化派として死んだ洪英植の兄)、学部主事李相哲、平壌徴上隊兵丁全奉学なども抗議の憤死。
11月30日
カマラズ(ミシガン州)にいた荷風に正金銀行ニューヨーク支店長から連絡があり、ニューヨークに向かうことにする。
12月4日、カマラズを発つ。
「十一月三十日 紐育出張店支配人より電報あり。兎に角来談すべしといふ。余は突然華盛頓にて別れたるイデスの事を思ひ出し余若し紐育の銀行に勤務の身とならば両地の距離わづかに急行列車の半日に過ぎざれば再び相逢うて暖き接吻に酔ふ事を得べし。かく思へは今は経済原論の一頁だも知らざる身を顧みるべき暇あらず、両三日中に当地を引払ひて馳せ赴くべき旨返電す」(『西遊日誌抄』)
11月下旬
「十一月下旬(推定) (日不詳)、寺田寅彦と赤坂で芸者をあげる。」
「昭和十四年十一月末、東京で開かれた寺田寅彦の追悼会で、小官豊隆が話す。この箇所は、『坊っちゃん』のうらなりの送別会で、芸者が唄をうたう場面に利用されている。(「寺田寅彦日記」には、十一月が全く脱落している。寺田寅彦の夫人純子が上京して来たのは、十二月二日(土)(推定)である)。「待合」での遊興である。「待合」は、座敷を貸し、芸妓を招き、酒食を好みに応じて取り寄せる。席料は、不通二円以上である。当時は、玉代・祝儀の合計三円五十銭が相場である。「赤坂藝者と稲するは、溜池附近に散在するものなるが、田町通りに最も多し。客は軍人官吏が多しとかや。」 (平山勝熊(編集兼発行者)『東京新繁昌記』明治四十年三月一日 隆文館刊)」(荒正人、前掲書)
つづく

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