1905(明治38)年
9月7日 日比谷焼打事件⑦
〈通俗道徳に背を向ける〉
「・・・・・、この飲む・打つ・買うというふるまいが、節倹・勤労といった通俗道徳の徳目と正反対であることに気づく。・・・・・男性労働者たちが大都市で撞かれていた状況では、通俗道徳に則ったふるまいをいかに積み重ねても、自分の店を構えるという願望を実現するのは困難であった。
だとすれば、男性労働者たちは、自らの境遇を個人の責任に還元する「わな」を感じ取り、欺瞞に満ちた通俗道徳に背を向けて、独自の価値体系を自ずとつくりあげていたといえるのではないか。
(略)
・・・通俗道徳は、近代になって、自由競争社会のなかで、公権力のイデオロギーとして浸透していた。男性労働者は、通俗道徳的な実践があるべき美徳であることを承知のうえでふるまっていたのであり、共同体の祝祭ではなく、より日常的で個人的な消費をとおした通俗道徳からの逸脱であった。
男性労働者の刹那的に見える粗暴なふるまいは、「落伍者」意識や挫折感の表れなどではなく、成功や立身出世とは異なる価値観を持って生きようとしていた、一つの人間的なエネルギーの表れであったと思われる。」
〈都市に渦巻く「噴火熟」〉
「しかし、都市のなかで経済格差を常に見せつけられていた男性労働者は、独自の価値観を形成していたにせよ、それだけで充足できたわけではなかった。身のうちに秘めたエネルギーは、見えない敵 - もしくは、目前の権力に対する敵意や憤怒となった。
大都市の男性労働者のなかに膨大なエネルギーが眠っていることは、日清戦争の直前に刊行されたルポルタージュ 『最暗黒の東京』で、著者の松原岩五郎が早くも指摘している。松原は、人力車夫が鉄道馬車に仕事を奪われつつあるなか、彼らが 「一揆、暴動」を起こして鉄道馬車を転覆させてもおかしくないほど敵意を持っているとしたうえで、次のように述べている。
しかれども、彼らの夥伴(なかま)には発頭人(ほっとうにん)、巨魁たるべき人物なく、しかしてまた彼らの社会には椴文、集会、団結、同盟等の器械的勢力もしくは精神的運動力においてすこぶる微弱なり。彼らは銘々の意志においてすこぶる発動あり。しかれども、これを概括したる威力に乏し。彼らは五指の交弾力あって、しかして一拳(けん)の大勢力なし。故に彼らの噴焔は天を衝(つく)べき噴火山の頭上にあらずして、常に山腹または海底の下層においてあるを見る (『最暗黒の東京』)
彼ら一人ひとりにはマグマのようなエネルギーがある。しかしそれを集団にまとめあげる勢力がない。一揆や暴動を起こすような彼らのエネルギーは、敵の見えぬまま、山腹や海底に沈んでいる状態だというのである。
小川二郎『どん底社会』も、同様のことを指摘している。
たとえ賃金が高くとも、あまりに高圧的な雇い主であったり、無理に人を使おうとすると、男性労働者は 「馬鹿にして居やがる。俺達を人間扱いにしやがらねえんだ」 と吐き捨てるようにいい、道路で車を乗り回す金持ちを見ると 「金のあるのを自慢して、俺は金があるんだと言わぬばかりに自動車なんかで乗り回して居やがるんだ。馬鹿野郎共が」 (『どん底社会』)と毒づいたと記す。
また彼らのエネルギーは、酔った時に表に吐き出された。「天下は俺の天下だ」 というように、社会に罵声を放って 「呵々大笑L L、「誰でも俺にかなう奴があったらかかって来い。巡査くらい何でもねえぞ」 と叫ぶ (同前)。」
〈警察権力の敵視〉
「このように、男性労働者のマグマのようなエネルギーは、目の前の権力である雇い主や富裕者、そして警察権力に対して向けられた。なぜ「巡査くらい何でもねえぞ」という言葉が出るのだろうか。警察史研究の第一人者である大日方純夫は、警察が都市で生活する人びとの広大な領域を取り締まっていたことを指摘している (『警察の社会史』)。」
〈都市暴動の再評価〉
「講和反対の国民大会は、男性労働者のエネルギーを概括するような政治集会であった。それを機に暴力が噴きあがり、東京市内をリレーするように焼き打ちが行われたことは先に見たとおりである。
国民大会の主催者の予想を超えて集まったのは、そうしたエネルギーを抱えた人びとであった。国民大会に参加しなかった人びとが、蕾案という共通の敵に対して連続した焼き打ちに加わったことも、この文脈から理解できるだろう。
このように、日比谷焼き打ち事件は、男性労働者の日常的な生活文化と密接につながっていた。そのエネルギーの突然の噴火は、国民大会の主催者や多くの知識人の想像を凌駕する出来事であった。
しかも、大都市での暴動はこの一回だけにとどまらなかった。特に東京では、翌年に起きた電車賃値上げ反対運動、一九一三年(大正二)二月の憲政擁護運動、翌年の山本内閣倒閣運動など、政治運動にともなって大規模な暴動が頻発し、時に内閣が倒れる事態にまで発展した。そのため、日比谷焼き打ち事件から米騒動(一九一八年) までの時期は、研究上、「都市民衆騒擾期」 (都市暴動の時代) と呼ばれている。
いずれも、日比谷焼き打ち事件と同様に、屋外で政治集会が開かれ、群衆状態がつくられたことに端を発している。そこから時々の政治的なトピックとなる対象(たとえば新聞社など) や、派出所・警察署が次々と襲撃された。
近代のなかで再編された社会的序列、都市社会の不安定な状況に加え、通俗道徳の裏返しとして形成された生活文化、そこで培われた男性労働者の一触即発のエネルギーと暴れる身体。デモクラシーやナショナリズムといった鋳型には収まりきらない諸要素が、一連の都市暴動の核となっていた。」(藤野裕子『民衆暴力 ― 一揆・暴動・虐殺の日本近代』(中公新書))"
9月7日
東京市、緊急処置として自警組織である巡邏夫を設置
「東京市長であった尾崎行雄は、暴動発生後の九月七日、警視庁などと折衝して何らかの自衛手段を講じることにし、市参事会の決議によって、緊急処置として巡邏夫を設けることとした。
規程によれば、①区内派出所二ヵ所の所轄区域につき巡邏夫を置く、②巡邏達夫は二〜六人とし、放火・窃盗などが発生した場合には民家に警告し、官憲に急報する、③巡邏夫に関する費用の一部は東京市が負担する。
このように、東京市は、警察機能が回復するまでの短い期間、警察機能を補完する役割を東京市民に与えたのである。このほか、牛込区では、区役所内に自衛警務本部を置いて、区の費用で警護員を置くことに決した (高橋雄豺『明治三十八年の日比谷騒擾事件』)。
(略)
重要な点は、巡邏夫の設置が警察権力への批判と密接に関わっていたことである。東京市会議員や区会議員の一部は、国民大会を禁止し、サーベルを抜いて人びとを斬るといった警察の弾圧こそが暴動を誘引したと、するどく批判した。その後、市会では警視庁廃止意見書を決議するにいたる(大日方純夫『警察の社会史』)。
巡邏夫の設置は、警察権力の末端に位置づくものとしてではなく、警察権力とは異なる自警組織を東京市としてつくろうとしたものであった。国家の暴力装置は、近代社会の展開とともにそのあり方に疑義が唱えられ、それと同時に、自警組織が正当化される局面が生まれたことになる。
警視庁廃止の運動や都市暴動の頻発化に直面した警察当局は、それまでの強権的・強圧的な取り締まりを改めて、「警察の民衆化、民衆の警察化」が推し進められた(『警察の社会史』)。「警察の民衆化」とは、たとえば交通安全週間のキャンペーンのように、警察が民衆に協力を呼びかけ、民衆の合意を調達しながら統制を行うことである。
一方の「民衆の警察化」は、後述する青年団・在郷軍人会などを基盤に、安全組合・自衛組合・保安組合といった自警組織が、警察の指導のもとに各地域でつくられたことを指す。「警察の民衆化、民衆の警察化」によって、警察機能が地域社会のなかに浸透していったのである。」(藤野裕子『民衆暴力 ― 一揆・暴動・虐殺の日本近代』(中公新書))
つづく

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