1905(明治38)年
9月7日 日比谷焼打事件⑧
〈講和反対運動の全国的展開。大正デモクラシーの起点〉
専制政府反対の全国的都市民衆運動の最初の発現。講和反対(膨張主義的・反動的性格)と共に非立憲内閣打倒(藩閥への抵抗)のスローガン。
指導的役割:実業家・弁護士・新聞記者、周辺に広汎な都市民衆が動員(後の普選運動・護憲運動の起点)。
8月20日・9月8日の和歌山県民大会は「和歌山実業新聞」「和歌山新報」(政友会系)「紀伊毎日新聞」「南海新報」(憲本系)4社共催。
9月12日の新潟県民大会は「東北日報」「新潟新聞」「新潟公友」「新潟日報」4社の発起。
9月9日の静岡県民大会は「静岡新報」(政友系)「静岡民友新聞」(憲本)2社と静岡県出身政・憲党代議士の発起。
9月12日の長崎市民大会、20日の県民大会は「長崎新報」「九州日の出新聞」「鎮西日報」「長崎新聞」4社と市会・県会議長の発起。
愛知県豊橋町・新潟県長岡町でも地方新聞社発起の町民大会。
9月3・5・18日の呉及び広島市民大会は土地の新聞記者団の主催。
名古屋市民と愛知県民大会は新聞記者が準備。殆ど全ての集会は新聞記者が発起人か弁士を務める。また、弁護士も組織者として働く。
岡山・長崎市民大会は弁護士会長以下が参画。中小商工業者も運動の表面に立つ(東京商業会議所は会頭中野武営以下動かず)。
愛知県知多商業会議所は9月13日総会で宮相・枢密院議長に建議書送付。
大阪では、田中市太郎・今西林三郎・渾大坊芳造ら名士が大阪講和問題同志会メンバとして加わる。
京都市民大会には京都商業会議所が発起人。
政友会(西園寺公望総裁が自重を要望するが):地方支部25が条約破棄または内閣問責決議。
憲政本党でも支部16で決議。福岡・埼玉・秋田県民大会は憲政本党支部が肩入れ。
群馬・岐阜の県民、松江市民大会では政友会代議士が議長や発起人代表。静岡・新潟・茨城・長野県民大会では両派が協力。
国権主義者(福岡の玄洋社や熊本の国権党など、内に専制を批判しない対外硬派)はこの運動からは脱落。
首相桂太郎は山県有朋に事件の3日前、次のような手紙を送っている。
「商業的売出候小新聞、又は・・・旧対露同志会之変体、講和談判同志会なる、対露同志会員と、進歩党関係の新聞記者達、之れに渡辺国武一派の連中、入雑候団体より、種々雑多の手段方法を以て、下層の人民の人心を動揺せしめ候故、政事と社会と混同いたし、目下の処、車夫馬丁の輩より、償金が取れぬと云ふより、小商人等の中間に迄、何となく其事柄の是非を弁せず、騒々敷有様にて、此辺は余り不宜情況に付、此際は可成此問題をして、政事問題にのみ引込候手段緊要と存候而、夫々手段を尽し申候。」(『公爵桂太郎伝』)
桂太郎は起こるべき事態を的確に把握していた。「車夫馬丁の輩」から「小商人等の中間」層までが、特定の組織に煽動されれば何らかの動きを起こすことに気づいていた。
また、警視庁官房主事の談話記事と重ね合わせると、政府側は要注意人物と団体の動向を綿密に調査していたことがうかがえる。
「国民ハたしかに激昂して居る、今回の国民の憤慨ハ維新以来初めての熱度であらう。開戦前に志士が対外硬を唱へ廻った時程われわれの取締を要した事ハ無いと思つたが今度程其極に達して居る、で、どんな者が飛び出すか分からぬからわれわれハ十分に取締りをして居る。目下われわれが注意人物として居る者ハ千余名あって其中にハ政治家新聞記者種々なものもある。」(『万朝報』掲載の川上警視庁官房主事インタビュー)
新聞記事を読んでも、仕込杖の剣を携えた、いわゆる壮士たちが事件の要所要所で群衆を煽動している。彼らが先陣を切り、また背後から各施設の破壊活動を教唆したものと思われる。
警察側は彼らの動きを察知しながらも、なぜこのような事態を引き起こしてしまったのだろうか?
大会幹部の吉沢不二雄は自由党系の壮士だが、彼は逮捕されると「警犬問題」を引き起こしている。
捜査当局は事件後、大会幹部が計画的に群衆の暴動を作り出したことを立証しようとした。検挙した幹部のうち吉沢を除く全員が、暴動計画を否定した。ただ独り、吉沢だけが暴動計画を詳細に陳述した。彼は同じく幹部であった佃信夫から、国民大会強行のため壮士を周旋することを命じられ、佃宅にて爆弾のような包みを見せられ、警視庁、内相官邸などへの襲撃計画までを打ち明けられたと供述したのである。この供述を基にして河野らを事件の責任者として特定した。
ところが、吉沢は翌明治39年2月26日~4月11日に11回行われた公判廷で、供述をひるがえし、警察から釈放と金銭300円とを代償に話したと語った。「自分は警視庁の犬と云はれても致方なし」と証言した。
啄木は翌明治39年3月5日の日記に憤慨してこう記している。
「近頃の新耳目は、天下の名士河野広中氏らの兇徒嘯聚事件についての警視庁の卑劣なる行動の曝露された事である。昨年九月五日、ポーツマス条約の屈辱に義憤を発して、国民大会が河野氏等の主唱の下に日比谷苑頭に催された。警視庁が無謀にもこれを暴力を以て禁止したのが、はからずも幾万愛国の赤子の怒を買って、東京は忽ちに暴動の府となり、内務大臣官舎が焼かれ、幾多の警察署が破壊され、幾百の交番も焼打の的、あはれ聖代帝闕の下、叫喚の風潮の如く、義臍の猛火全都に漲った。巡査が抜剣する、戒厳令が布かれる、河野氏等を初め二百幾十名は直ちに兇徒嘯聚罪として検挙されたのであった。かくて今年その公判が開かれるに及んで、図らざりき、国民の安寧を保護する筈の警視庁が、諸名士を罪に陥れむがために、幾百の黄白を散じ、無腸漢を買収して殊更に神聖なる法廷に偽証を申立てしめむとした事が天下に曝露されたのだ。最後の勝利は正しき者の手に落つるとは云ひ乍ら、警察権の不信今日の如くば、国民は何れの時に安んじて眠る事が出来やう。」
〈ある「推論」〉
民衆を「ガス抜き」しないと桂への不満が燻り続ける。(黒龍会が、)この政府の意図に沿って民衆を扇動。桂は警察の過度の弾圧が民衆を激昂させたというシナリオを作り、9月10日安立綱之警視総監、16日芳川顕正内相を引責辞任させる。ついで桂太郎内閣から西園寺内閣へと替わり、内相は官僚政治家原敬に替わる。プロの煽動家が、あらかじめ国民新聞社、替察、内相官邸を攻撃の対象として選び、一定の計画のなかで 「群集は動かされていた」、「当然爆発するであろうと支配層も予知していた民衆のエネルギーの爆発を内務省-警察-交番-派出所に集中させた」と述べ、騒乱を仕掛けたのは桂太郎自身ではなかったかとの推論がある。(中込道夫「日比谷焼討ちの作られた暴動」(「現代の眼」1974年4月)
また事件の背後に右翼の大物、頭山満、内田良平、杉山茂丸が桂と気脈を通じていたのではないかとの推測もある(前田愛『幻景の明治』)。つまり桂は、当然起こるべき政府批判の高まりを、暴動を通じて、内務省と警察の責任問題へと転化したと推理する。
内田は、6月、ルーズベルトから講和の話が出た時点で伊藤・桂と会い、講和賛成意見を述べている。東北地方各地で講和問題の講演をし、政府から謝礼を受取る。
また、焼討ちは民家への延焼を避けて注意深く行われている。
しかし、山県と右翼が暴動を仕掛けたとしても、日比谷焼き打ち事件は 「民衆のエネルギー」が煽動者たちの思惑を超えてしまったところに、事態の新しさがある。桂自身、山県に対し9月18日には「此度の都下之騒動は、実に意想の外に出で、畢竟前知の不完全の致す処と、深く恐縮仕居候」という文面の書簡を送っている。群衆の行動は、桂にしても河野ら大会主催者にしても、「意想の外」のことたったのである。
「要するに日露戦争の勝利が、日本国と日本人を調子狂いにさせたとしか思えない。…政府批判という、いわば観念をかかげて任意にあつまった大群衆としては、講和条約反対の国民大会が日本史上最初の現象ではなかったろうか。…。私は、この大会と暴動こそ、むこう四十年の魔の季節への出発点ではなかったかと考えている。この大群衆の熱気が多量にーー例えば参謀本部にーー蓄電されて、以後の国家的盲動のエネルギーになったように思えてならない。」(司馬遼太郎「「雑貨屋」と帝国主義」(この国のかたち 一」)
9月7日
講和反対を唱える新聞の発行停止。この日、「万朝報」「都新聞」「二六新聞」(2日間)。
8日、「日本」「人民新聞」(1日)、9日、「東京朝日新聞」(~24日迄)。10日、「大阪朝日新聞」(~14日、18日~10月3日、25日~11月7日、3回、35日間)など次々に発行停止。
東京で発行停止を免れたのは「国民新聞」「東京日日新聞」「中央新聞」「時事新報」「報知新聞」「毎日新聞」。
地方でも「小樽朝報」「山梨民報」「丹州時報」「京都朝報」「伊勢朝報」「大阪日報」などが発行停止。
この日付「東京朝日新聞」の「講和事件に関する投書」で、「憂国生」は、「当局者は速かに其責任を明かにし、以て罪を上下に謝せざるべからず」とし、さもなくば「市街戦の修羅場」は今後も勃発すると述べる。また、「忠霊の墳墓」は、講和条約とそれを締結する内閣への「国民の怒り」を騒擾に見出し、「国民の熱血的愛国心に富めることを感謝す」と結ぶ。藩閥や圧政への批判は、「国民」の名の下に、膨張主義的な国権の要求を含みこみ、騒擾という形態もとりながら実践される。
9月7日
神戸湊川神社前公園で非講和演説会。後、神社内の伊藤博文像(1年前に建造、高さ2m)を倒し、これを引きながらデモ。福原遊郭近くの派出所前に捨てる。伊藤の対露軟弱外交のため。
講和発表~枢密院での可決迄の1ヶ月で講和反対大会は全国で230件余。
この日の講和反対大会。東京弁護士有志会、静岡県沼津町民大会、京都府園部町民大会、和歌山県田辺有志大会、三重県浜松非講和大会、山口県下関市民大会、広島市民大会、大分県杵築町民大会など。
9月9日
社説(池辺三山)「説明の必要」(「東京朝日」)。桂追求の5回目。
政府は当初から賠償金・領地割譲など諸条件に関して確信なく提出したのか、この質問に関して政府が国民を侮辱することを筆者は許さないと書く。末尾に「大尾」(終りの意味)と書かず、なっとくできる回答ない場合は以降何回でも書くという態度を示す。
この日5時、発行停止命令届く。「一社湧くが如し、直に祝停の宴なるものを開く。来会二十余名。盛会を極む」(杉村楚人冠日記)。
焼打ち事件を詳細に報道したり、事件の死傷者弔慰や施療の社告を出して、警視庁から「暴徒に医療を施すとは暴行を扇動する恐れがある」と警告された「東京朝日」は、15日間の発行停止。「社史」によると、桂首相がオフレコを条件に各社代表に話した講和条件の内示を、三山の指示で9日の新聞に書いたことも発停の理由だったという。
この発停を契機に、「東朝」社説は、講和条件反対・内閣糾弾のホコを収めていく。
一方、「大阪朝日」の筆鋒は緩るまず、9月9日~11月7日で3回35日間の発行停止処分を受ける。
9月9日
午後、湊川埋立遊園地で講和問題市民大会。午後7時~午前2時、交番襲撃など騒動。
9月9日
岡山市非講和同志大会。藩閥政府打倒が始めて決議に現れる。対外硬政略実現のための藩閥政府打倒スローガン。
10日の宮城県民大会・若松市の会津大会では言論集会の自由抑圧・戒厳令・非立憲政策を批判。
11日の非講和全国大会(大阪、3府18県の代表参加)は「外は帝国の光栄を毀損し内は憲政の精神を破壊す」と決議。9日以降、決議内容が判明する27の県・市民大会中17が政府の言論抑圧を非難。
9月9日
小村寿太郎全権、アメリカ大統領と会見。対清・韓国のポーツマス条約の実施に関して諒解を求める。
9月9日
イタリアのカラブリア地方で地震発生。数千人が死亡したと考えられる。
つづく

0 件のコメント:
コメントを投稿