2025年9月12日金曜日

大杉栄とその時代年表(615) 1905(明治38)年9月23日~29日 西川光二郎出獄 『直言』が無期限発行停止となり、合議により平民社解散・『直言』廃刊決定。 財政上の問題、同志間の思想的相違、感情の齟齬の表面化  堺利彦・延岡為子、西川光二郎・松岡荒村未亡人の文子との恋愛結婚問題、キリスト教系の安部磯雄周辺はそれを非難 

 

(左より)安部磯雄、河上清、幸徳秋水、木下尚江、片山潜、西川光二郎

大杉栄とその時代年表(614) 1905(明治38)年9月13日~22日 「新聞紙が大活字を羅列して諸君を讃美謳歌しつつありし戦勝泰平の時期において、彼等国民の間には無限悲憤の熱涙を諸君のために拭いつつありし也。彼らの諸君に対する怨恨は、講和の条件によって醸成せられたるものにあらずして、その強いて抑え来れるの怨恨の、戦争終結をまって爆発したりしのみ」(『直言』社説「政府に猛省を促す」) 無期限発行停止 廃刊を決意する より続く

1905(明治38)年

9月23日

この日、永井壮吉(荷風)は重ねて父からフランス行きに反対の手紙を受け取る。

彼の日記。

「再び家書を得たり。仏国に遊ばんと企てたる事も予期せし如く父の同意を得ざりき。今は読書も健康も何かはせん。予は淫楽を欲して己まず。淫楽の中に一身の破滅を冀(こひねが)ふのみ。先夜馴染みたる女の許に赴き盛にシャンパンを倒して快哉を呼ぶ。」(『西遊日誌抄』)


9月24日

革命派の呉樾ら、外国視察に出発しようとしていた載沢ら5大臣を北京駅で襲撃。商部右丞の紹英ら負傷。

9月25日

発行停止を解かれた「東京朝日」、紙面を8⇒12ページに増やし停止中の投書を多数掲載。

社説(池辺三山)「朝日新聞の解停」、停止について政府から何の説明もない、ありのままの見聞・見解を記したのみと政府を批判、「何をか恐れん」と言い放つ。

パロディー「停止圧の話」では「日本もこんな風の吹く内は文明国でもなんでもない」と書く。

9月26日

関東総督府勤務令、制定。

総督大島義昌大将。遼陽。天皇直属。日本の南満州経営一手に引受ける(軍隊その他諸機関を統御して関東州を守備、民政監督、経理・衛生・兵站業務を統轄)。

10月17日、設置。

9月26日

西川光二郎、出獄

『直言』が無期限発行停止となり、木下・幸徳・堺・西川が合議して、平民社解散・『直言』廃刊決定

財政上の問題の他、同志間の思想的相違、感情の齟齬の表面化。

堺利彦と延岡為子西川光二郎と松岡荒村未亡人の文子との恋愛結婚問題は、キリスト教系の安部磯雄周辺は、それを非難していた。

堺は、『光』第4号(1906年1月1日)に「平民社解散の原因」を寄稿。

平民社解散の原因は「主義の差に基づく分離」ではないと強調し、「社会主義といふ大傘の下に集るに於て誰しも異存は無い筈である、小生はコウ思って居るが、諸君のお考へは如何でせうか」と呼びかける。堺は以後もそう主張し続ける。また、由分社で『家庭雑誌』を刊行しながら、堺は平民社が手がけた出版物を受け継ぎ、自らも各種メディアに文筆をふるって啓蒙活動に力を入れていく。


「九月二十六日、五人の協議でいよいよ平民社解散と決した時、石川は自分は独身で係累とてもないが、それでも独立して事業を始める資金はないし、社会主義者は何処でも雇ってくれまいし、いろいろ思案に暮れていると木下が突如、口を切った。

「旭山(石川のペン・ネーム)! 大いにやれよ」

「やれ、と言ったところで何をやるのかネ、下宿屋でもやろうか」

と、石川が答えると木下は命ずるように言ったのである。

「いや、そうではない、雑誌を発行しないか、クリスチャン・ソーシアリズムの・・・」

以上は大要、石川がその『自叙伝』の中に記している所で、彼はつづけて言う。

「少しくキリスト教的の運動を試みたいということは、私のかねての宿志で、それにはなお閑散の地に移って、一、二年間キリスト教の研究と修養とを試みたいと漠然と考えていたところへ木下氏のこの発言です。その上、彼自ら責任を負って筆を執ってくれると言うのです。私も『それならば』と考えを変えて、木下の勧告に従うことになりました。

当時、木下の意気込みは熱烈でした。その翌々日に私は木下と相談の上、この新しい計画を安部磯雄氏に知らせてその助力を請うため同氏の宅を訪ねました。ところが、安部氏はこの計画を非常に喜び、進んで編集上の責任を分かつべきことを快諾され、新しい雑誌の名称も氏の提案で『ニュー・エラ(新紀元)』と決定しました。私はこの先輩の意気込みを見て、大いに意を強くし、勇んで準備に着手することになりました。それから徳富蘆花、田添鉄二等の諸氏までも大いに援助してくれるということになり、益々 『これなら大丈夫』と確信するようになりました。」

明治三十八年十一月十日、安部、木下、石川等によってキリスト教社会主義を標榜する月刊『新紀元』は、こうして創始されたのである。」(荒畑『続平民社時代』)

9月27日

清国の戸部銀行開業。

9月27日

列国、清国との間に黄浦江水路改良に関する約定調印。

9月27日

第2次日英同盟、日英両国で公表(締結は8月12日)。外交の失策を隠すための発表遅延と非難。

9月27日

「東京朝日」、警視庁廃止問題は「民間に於ける積年の宿題」とする社説。

警視庁は藩閥擁護のためのもの、人民擁護でなく、9月5日騒擾もこんな警視庁にも原因がある(抜剣問題など)。

9月27日

この日頃、島崎藤村(34歳)のところに蒲原有明がやって来て、この頃彼の熱中している象徴主義詩論をした。蒲原有明は、島崎藤村の「若菜集」に啓発されて小説から詩に移り、以後もっとも熱心な藤村の支持者であった。しかし彼は、抒情詩の世界の探索を続けているうちに、素朴単純なロマンチシズムによる抒情詩では、現代人の気持を表現し得ないと考えて、ガブリエル・ロセッティからヴェルレーヌの研究に移り、独自の晦渋で曖昧を象徴詩の手法を創り出した。藤村は、既に詩作をやめていたが、あくまでも写実的な明確さを求めて、リアリズムによる小説を書いているときであったので、蒲原の詩論に承服できなかった。彼はかなり強い言葉で蒲原の議論に反対し、二人は意見が合わないままに別れた。

藤村は、この年4月末、足かけ7年間の小諸生活を切り上げて上京。

翌5月6日、前年生れたばかりの三女縫子を急性脳膜炎で失った。その頃、詩人島崎藤村が畢生の大作を書き上げようとしているという噂が、東京の文壇で語り伝えられた。藤村は借家に、自費で3畳のトタン屋根の書斎をつけ足し、春から夏にかけて、「破戒」を書き続けた。

9月5日夜、藤村は日比谷辺を歩いていて、京橋辺を中心に行われた日露講話条約反対の焼き打ち事件を見た。

9月27日

小村寿太郎、ニューヨーク発。

9月27日

アルバート・アインシュタイン、特殊相対性理論についての第2の論文が受理される。それにはE=mc2の関係式が含まれている(『物理学年報』誌)。

9月28日

独仏協定調印。独仏、モロッコ問題に関する国際会議(アルヘシラス会議、1906年1月16日〜4月7日)開催合意。独、仏に再度ビョルケ条約参加要請。

9月29日

平野友輔(48)、藤沢・稲毛屋での講話反対の神奈川県下有志大会の座長となり決議案・上奏案を可決。

9月29日

(漱石)

「九月二十九日 (金)、東京帝国大学文科大学で、Tempest を講義する。」(荒正人、前掲書)

9月下旬

戸水事件

東京帝大法科大学教授・助教授、戸水休職処分に対する抗議書を文相に提出。小野塚喜平次、穂積陳重(のち東大法学部長、枢密院議長)、山田三良(のち東大法学部長、日本学士院長)、美濃部達吉など。

10月3日、京都帝大法科大学学長・教授・助教授も文部省に抗議書提出。

10月、東大総長山川健次郎は戸水に「ローマ法」講師を依頼(事実上の復職)

9月末

(漱石)

「九月末 (日不詳)、『吾輩は猫である』(六)脱稿する。」(荒正人、前掲書)


つづく


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