2025年9月19日金曜日

大杉栄とその時代年表(622) 1905(明治38)年10月17日~23日 1905年ロシア第一革命③ 「『われわれは、この飽くことなき、王冠を戴いた死刑執行人に自由の約束をさせたのだ。なんという偉大な勝利だろうか。だが、勝利を祝うのはまだ早い。勝利はまだ不完全なのだ。(略)市民諸君! われわれの要求はこうだ。軍隊はペテルブルクから撤退せよ! 首都の周囲25ヴェルスタ以内にひとりの兵隊も残すな。自由な市民自身が秩序を維持するのだ。勝手な振舞いや暴行は誰も我慢しないだろう。人民はあらゆる手段で自衛するのだ』。」(トロツキー『1905年』「10月18日」)

 

カザン大聖堂前で開催された大衆集会

大杉栄とその時代年表(621) 1905(明治38)年10月14日~17日 1905年ロシア第一革命② 「各工場ないし地域の500人の労働者につき1人の代表が選ばれた。この選挙された代表者はソヴィエトを形成し、この組織がペテルブルクの主人となった。トレポフは狼狽し、ヴィッテは人民の前に姿を現わすことができなくなった。国家機構はボイコットを宣言された。ソヴィエトは事実上その手中に国家権力を収めた。」(トロツキー「ロシア革命(ソフィア演説)」) より続く

1905(明治38)年 

〈1905年ロシア第一革命③〉

10月17日

[露暦10月30日]10月宣言

ニコライ2世、立憲体制を承認(不履行)。憲法を認可。ドゥーマに立法権を付与。選挙権枠を拡大。市民の基本的人権としての自由を保障。

各地で誕生するソヴィエトを通じてさらにストを誘発しようとしていた社会民主党員たちは、この宣言を即座に拒否。ブルジョワ自由主義者、この勅令に満足し革命から離脱。

ドゥーマ:

代議制立法諮問機関。任期5年。ツァーリは随時、解散と新ドゥーマ選挙を指定できる。女性・軍人・25歳未満の男子・小企業労働者・一部の少数民族は選挙権なし。地主1票=ブルジョアジー3=農民15=労働者451に相当。間接選挙制(地主・ブルジョアジーは2段階、労働者3段階、農民4段階)。1906~17迄4次召集。

当初、ブルジョアジーと労働者の利害は一致。スト参加の労働者に対し、革命に協力的なブルジョアから通常の半額~全額の給料が支給。しかし、露暦11月に入り、労働者が8時間労働を主張するに至ると、この様なサービスは停止。 


「全体として言えば、10月のストライキは政治的ストライキの水準にとどまり、武装蜂起に移行することはなかった。それでも、度を失った絶対主義は譲歩した。10月17日(30日)、憲法に関するツァーリの勅令が発布された。たしかに、ツァーリズムは大きな打撃を受けたが、権力機構を自己の手中に保持していた。この時の政府の政策は、ヴィッテの言葉を借りれば、いつにもまして『臆病さと盲目さと狡猾さと愚鈍さとのからみ合い』だった。しかし、それでも革命は最初の勝利を獲得した。その勝利は不完全とはいえ、前途有望なものだった。(『わが生涯』第14章「1905年」より)


「同志諸君、この国家は、工場の機械と同じく、労働者階級の背中にのしかかって維持されている機構であり、人民がそれを支えることを拒否するならば、それはばらばらに崩壊し、その中央集権的力は塵あくたのごとく消散してしまう(拍手、『そうだ、そうだ』の声)。そしてロシア専制主義のこうした歴史的基盤の動揺にもとづいて、10月ストライキに対する回答として、より拡大した選挙権、集会の自由、団結権、出版の自由などを約束した10月17日の勅令〔宣言〕が出されたのである。専制政治とロシア正教に立脚したツァーリ、この『白帝』〔異民族がロシアの皇帝につけた尊称〕は、たちまちのうちに、憲法の革皮紙に自らの署名を記した。これはまさにプロレタリアートの偉大な革命的勝利だった! だが、その数日後にはプロレタリアートは血の海に沈められた。しかし、われわれはこの勝利をけっして忘れないだろう。それをしっかりと書き留め、こう言うだろう――ツァーリは革命を前にして敬礼の姿勢をとったのだと(拍手喝采)。」(トロツキー「ロシア革命(ソフィア演説)」より)


この宣言のうけとり方は、さまざまであったが、大略、ブルジョワジー、リベラル、インテリ右派などは、ロシアも西欧的な立憲体制へ入っていくと考え、これを支持した。

ソヴィエトに結集する労働者代表、急進的労働者は、宣言を重要な最初の勝利とみていたが、街頭では、まだ軍隊の蛮行があり、宣言の内容はあいまいで、具体的に実行されなければ、政府を信じるわけにはいかなかった。


10月18日

ソヴィエト会議

「闘う革命的プロレタリアートは、ロシア人民の政治的権利が確固たる基礎の上に確立されるまでは、・・・民主共和国が確立されるまでほ、武器をすてることはできない」として宣言を拒否し、首都からの軍隊の撤去、民警設置のためプロレタリアートに武器を引き渡すこと、政治犯の釈放、戒厳状態の集結、憲法制定会議などを要求し、ゼネストを続けることを決議

しかし、一般の労働者は、宣言による勝利感、ストによる生活難から、スト終息をのぞむ気分も強かったように思われる。


「10月18日は偉大なる躊躇の日であった。ベテルプルクの街々を大群衆が途方にくれて動きまわっていた。憲法が与えられた。次は何か? 何ができ、何ができないのか?

物情騒然としていたあの頃、私は官職にある一友人[砲兵学校の医師長リトケンス]宅に寄宿していた。18日の朝、『官報』を手にした彼と顔を合わせた。その知的な顔の上では、喜びにみちた興奮の微笑といつもの懐疑主義とがせめぎあっていた。

 『憲法制定の勅令が出たぞ!』

 『本当ですか!』

 『読んでみたまえ』。

私たちは声をあげて読み始めた。まず騒擾に対する父親的な心痛、次に『人民の悲しみは朕の悲しみ』との確認、最後に、あらゆる自由、国会の立法権、選挙権拡大に関する明確な約束。

私たちは黙って顔を見合わせた。勅令が呼び起こした、矛盾に満ちた思想と感情を言葉にすることは難しかった。集会の自由、人身の不可侵、行政府に対する統制・・・。もちろん、これらは単なる言葉だ。しかし、自由主義者の決議文の言葉ではない。皇帝の勅令の言葉なのだ。ニコライ・ロマノフ、あのポグロム派の最高のパトロン、トレポフのテレマコス、それがこれを書いたのだ! ゼネストがこの奇跡をやってのけたのだ。11年前、自由主義者たちが『専制君主と人民との交流』について控え目な請願をした時、即位したばかりの士官候補生は、これを『無意味な夢想』だとして子供にするように叱りとばした。その彼が自らこのような言葉を吐いたのだ! 彼はいまやストライキに入ったプロレタリアートの前で、気をつけの姿勢をとったのだ。

 『どう思います?』、私は友人にきいてみた。

 『びっくり仰天したのさ、馬鹿なやつらめ!』という返事が返ってきた。

これは、それなりに名文句だった。続いて私たちはヴィッテの[自由主義的な]奏議文を読んだ。『以上を方針とする』とのツァーリの書き込みが付されていた。

 『あなたの言うとおり、馬鹿な連中は本当にびっくり仰天したようですね』。」(トロツキー『1905年』「10月18日」より)


「5分後、私は街に出た。・・・工業専門学校の横を通った。そこはあい変わらず閉鎖され、兵士に守られていた。壁にはトレポフの古い命令『実弾を惜しむな』がかかっていた。それと並べて誰かがツァーリの勅令を貼りつけていた。歩道には群衆がひしめいていた。

 『大学[ペテルブルク大学]へ行こう!』、誰かが叫んだ――『演説があるはずだ』。

私もいっしょに歩き出した。人びとは黙って早足に歩いた。群衆は刻々と増えていった。歓びはなく、むしろ動揺、不安があった・・・。巡察隊はもう見えなかった。ばらばらの警官たちは、おどおどして、群衆から身を隠した。街は三色旗[ロシア国旗]で飾られていた。

 『ははん、暴君め、どうやら尻尾を巻いて逃げたようだな・・・』、どこかの労働者が大声で言った。

共感の笑いがそれに呼応した。雰囲気がはっきりと高揚してくるのがわかった。一人の少年が門から三色旗を竿ごと降ろし、『国』旗の青と白の部分を引き裂いて残りの赤い部分を群衆の頭上高く掲げた。何十人もの人々がこれを真似した。数分後、無数の赤旗が頭上になびいた。青と自の切れ端がいたるところに散乱し、群衆はそれを踏みつけた。われわれは橋を渡り、ワシーリー島に入った。海岸通りは巨大な漏斗をなし、そこを通って後から後から果てしない大衆が流れ込んだ。弁士たちが演説することになっているバルコニーめがけて、みんなが殺到した。大学のパルコニー、窓、尖塔は赤旗で飾られていた。やっとのことで私は建物の中に入った。私は3番目か4番目に話すことになった。バルコニーから見ると、そこには驚くべき光景が展開されていた。街路は人びとでぎっしり埋まっていた。青い学生帽と赤旗が鮮やかな斑点となって、何十万という群衆のシーンに活気を与えていた。完全な静寂が一場を支配した。誰もかれも、弁士の話を聞きもらすまいとしているのだ。


『市民諸君! われわれは支配者の悪党どもの胸もとめがけて攻撃した。そのあとになってやっと自由が約束された。選挙権、立法権が約束された。約束したのはだれか? ニコライ2世だ。自発的意志によってか? 心からのものか? 誰もそうは言うまい。彼はヤロスラヴリの労働者たちを殺害した褒美として勇猛ファナゴリー連隊に恩賞を与えることによって、その治世を始めた。そしで屍の山を築きつつ、1月9日の血の日曜日に到った。われわれは、この飽くことなき、王冠を戴いた死刑執行人に自由の約束をさせたのだ。なんという偉大な勝利だろうか。だが、勝利を祝うのはまだ早い。勝利はまだ不完全なのだ。約束手形は純金と同じ重みがあるだろうか? 自由の約束は自由そのものと同じだろうか? 諸君の中にツァーリの約束を信頼する者がいたら、名乗り出てほしい。そういう変わり者を見たら誰しも喜ぶだろう。まわりを見たまえ、市民諸君。はたして昨日から何か変わっただろうか? はたして監獄の扉は開かれたか? ペトロパブロフスカヤ要塞は首都を支配しなくなったか? 諸君はあのいまわしい壁の向うから聞こえた坤き声を、歯ぎしりを、聞かなくなっただろうか? われわれの兄第たちはシベリアの荒野から帰って来たか?』


 『大赦だ! 大赦だ! 大赦だ!』――下から人々が叫んだ。


 『・・・もし政府が真摯に人民と和解しようと決めたのであれば、真っ先に大赦を行なったはずだ。だが市民諸君、大赦で全部だろうか? 政治活動をした何百人かの闘士が今日釈放されたとしても、明白は別の何千人かが逮捕されるだろう。自由の勅令と並んで、実弾の命令が貼られているではないか。昨夜は工業専門学校が砲撃されたではないか。今日は静かに弁士の話を聞いていた人々が斬られたではないか。死刑執行人トレポフがペテルプルクにのさばっているではないか』。


 『トレポフを倒せ!』――下から人びとが叫んだ。


 『・・・そうだ、トレポフを倒せ! だが、彼ひとりなのか! 官僚の貯えの中には、あの男に代わる悪党がぞろぞろいるのではないか? トレポフは軍隊の力でわれわれを支配しているのだ。1月9日の血にまみれた近衛兵こそ、彼の頼みの綱であり、力なのだ。トレポフは彼らに命じて、諸君の胸と頭には実弾を惜しむなと言っているのだ。われわれは銃口のもとで暮らすべきではない。そんなことはできないし、したくもない。市民諸君! われわれの要求はこうだ。軍隊はペテルブルクから撤退せよ! 首都の周囲25ヴェルスタ以内にひとりの兵隊も残すな。自由な市民自身が秩序を維持するのだ。勝手な振舞いや暴行は誰も我慢しないだろう。人民はあらゆる手段で自衛するのだ』。


 『ペテルブルクから軍隊を追い出せ!』


 『…市民諸君! われわれ自身の中にしか、われわれの力はないのだ。われわれは剣を手にして、自由な守り披かなければならない。ツァーリの勅令は、見たまえ、ただの紙切れにすぎない。このとおり、諸君の目の前にあるが、ほら、こうすれば手の平の中でくちゃくちゃになってしまう。今日は与えられたが、明日が取り上げられ、引き裂かれてしまうだろう。私が今、この紙の上の自由を諸君の前で引き裂いているように!・・・』。」(トロツキー『1905年』「10月18日」より)


18日午後4時ごろ、数十万の群集がカザン大聖堂前に集まった。大赦がそのスローガンだった。彼らは監獄に向けて行進することを望み、指導を求めて労働者代議員の議場の方に向かった。夕方の6時にソヴィエトはデモの指揮のために3名の全権委員を選出した。彼らは白い鉢巻と腕章をつけて2階の窓から現われた。下では人の大海が息づき、波打っていた。革命の帆とでも言おうか、赤旗がその上になびいていた。力強い叫びが委員を歓迎した。ソヴィエトのメンバー全員は下に降り、群衆の中に飲み込まれた。


 『弁士を!』、何十という手が弁士の方に伸ばされた。一瞬のうちに、弁士は誰かの肩車に乗っていた。


 『大赦だ! 監獄へ行こう!』、革命家と叫び声…。


 カザン広場とアレクサンドル公園で人々は脱帽した。ここで、1月9日の犠牲者の霊がデモ行進に加わった。犠牲者のために、『永遠の追憶』や『同志は倒れぬ』が歌われた。ポベドノスツェフ邸にも何本もの赤旗が立てられた。口笛と罵声。あの老いぼれに聞こえただろうか? 恐れずに窓から眺めるがよい。今は誰もさわりはしない。老いぼれたその罪深い目で、ペテルブルクの市街を支配している革命的人民を見るがよい。」(トロツキー『1905年』「『自由』の最初の日々」より)


この日の牢獄への更新は、途中で軍隊が待ち伏せしているとも、大赦令がすでに出されたともいわれて、混乱を恐れて解散。


10月19日

ぺテルブルクはかなり落着きをとりもどした。ストは続いており、新聞や鉄道はとまっていたが、商店は18日にはすでに店開きし、工場の一部でも仕事につくのが出てきて、保安部の報告によれば、スト続行派と就労派のあいだの対立騒ぎもおこった。

この頃各地でスト中止の報がソヴィエトへ入り始めた。とくにモスクワでスト中止指令が出た。全ロシア・ストライキは地方ストライキに変わってきた。

この日、ペテルブルク・ソヴィエトは、ゼネスト中止を決定

20日には、ぺテルブルクの多くの工場で集会が開かれ、ソブェトの決定がうけ入れられた。

10月21日、10月ストライキは終わった


10月20日

ソヴィエト会議、10月18日に倒れた同志の葬送デモをおこなうことが提起され、ソヴィエト執行貢会(イスポルコム)は、ソヴィエトから代表をヴィッテに送り、葬送デモについて通告し、秩序維持には労働者があたるゆえに、軍隊と警察は撤退するように申し入れる原案を作成した。

翌21日、代表はヴィッテのところへ行くが、市の保安はトレーポフの管轄だからと拒否されて、会談は不調に終わった。

10月22日

報告を受けた執行委員会は、方針を変更し、葬送デモの計画をねりあげて、これが22日の多くの新聞に掲載された。


全人民の自由のために倒れた同志たちの葬送は、10月23日、日曜、葬列はカザン聖堂前広場から出発する、市民は12時までにそこへ集合すること、行進を妨害しないように、喪に服して店を閉じ、街頭での動きを中止するように求められた。

音楽院のオーケストラが参加を決定し、工場では労働者の合唱団が組織され、労組、政党、インテリ・グループは花輪、旗、標識を準備していた。

当日、市会は、葬送デモに加わる際はできるだけ平静にとのアピールを発し、政府も、同日夕方、トレーポフの名で葬送デモに加わらないようにとの布告を街頭にはりだし、市民の不安感をかきたてた。

この日の夜、ソヴェト臨時会議が開かれ、執行委員会は、現時点では軍隊との衝突となるがゆえに葬送デモの中止を提案。遅かれ早かれ武力衝突は避けがたい、このチャンスを延ばす必要はないとして激しい議論の末、結局、デモ中止を決定

23日、各地区ごとに小規模な葬送がおこなわれた。


つづく


0 件のコメント: