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1908(明治41)年
3月8日
フランス、ドラヴェイユ・ヴィルヌーヴ・サン・ジョルジュの流血のストライキ。
砂採掘労働者らのストライキに対し、政府(ジョルジュ・クレマンソー内閣)が軍隊を介入させ鎮圧
特に7月30日、ヴィルヌーヴ・サン・ジョルジュにおいて、デモ隊と軍・憲兵が衝突し、労働者側がバリケードを築く中で激しい鎮圧が行われ、労働者側から複数人の死者(資料により3人、4人、6人などと表現が異なる)と200人近い負傷者が出た。
ストライキは事実上壊滅し、労働運動指導者たちが逮捕されたが、後に恩赦投票が行われた。
3月8日
ニューヨークで女性労働者がパンと婦人参政権を要求するデモ(国際女性デーの由来)
3月9日
インテルナツィオナーレ・ミラノ(サッカークラブ、インテル)創立
3月10日
屋上演説会事件(1月17日)で収監された竹内善作・森岡栄治・坂本清馬、出獄。13日、歓迎会を兼ねた第21回金曜講演会。芝の貸席玉翁亭。歓迎の辞で「弁士中止、解散」となる。
3月11日
京都府の第四十九銀行休業。
12月 京都商工銀行へ買収される。
3月11日
地方税制限に関する法律公布。国税付加税の限度などを規定。
3月11日
加藤清正に従三位を追贈。武運長久の軍神・清正300回忌
3月11日
独、小切手法公布(4.1 施行)。
3月12日
文部省、高等学校入学の総合試験制を廃して、各校別に選抜試験を行うこととする。
1909年4月21日、高等学校大学予科入学者選抜試験規程を改定。
3月12日
(漱石)
「三月十二日(木)、鈴木三重吉・小宮豊隆・野上豊一郎来る。」(荒正人、前掲書)
3月12日
この頃、大杉栄、入浴中に脳貧血をおこす。その後調子を崩す。
3月13日
林駐清公使、辰丸事件で5項目を清政府に送付。15日 清側受諾。
3月15日
上海で日貨排斥運動起る。
17日、広州でも広がる。
3月15日
西川光二郎・赤羽一・斉藤兼次郎ら、「東京社会新聞」創刊。月3回。無政府主義の色彩濃厚。西川・赤羽・斉藤は相次いで入獄。9月5日廃刊。社員は他に松崎源吉、渡辺政太郎、添田平吉(亜蝉坊)、岡千代彦、大脇直寿、吉川守邦ら20余(週刊「平民新聞」以来の在京運動者が主流)。
3月中旬
幸徳秋水、仏教運動家の高嶋米峰に手紙。
今度の「新仏教」では(も?)チョイチョイ社会党分裂に対する御こゞとがあるやうだが、僕等が社会新聞の人達と分れたのは、意見議論の違ふ上から来た自然の結果で、別に金銭や利益の問題を混して居ない。即ち
僕等は、政治、法律、議会、選挙に絶望した無政府共産主義となり
彼等は、依然国家の権力に依って万事を行はんとする所謂社会民主主義だ。
3月16日
石油消費税法、酒造税法・酒精および酒精含有飲料税法、麦酒税法(非常特別税法中の同税に関する規定は廃止)各改正公布。即日施行。石油消費税は新設、他はいずれも増税。
3月18日
朝日新聞社主催の世界一周会に参加の57人(婦人3人)、横浜を出帆。杉村楚人冠(35)引率。6月21日帰国。
3月18日
大阪歩兵第62連隊、兵士13人脱営。
3月18日
(漱石)
「三月十八日(水)、寺田寅彦宛葉書に、三月二十二日(日)の上野の音楽会には、フロック・コートを着て、新しい外套を着て行きたいから、切符を二人分貰っておいて欲しいと依頼する。
三月十九日(木)、「創作家の態度」(講演)書き直す。人嫌いになり、木曜会も取り止める。小宮豊隆に人嫌いになったから来るなと云ったが、用事を思い出し来て貰う。小宮豊隆、「創作家の態度」の原稿欲しいと云う。謡いの稽古だけは別だと高浜虚子に伝える。
三月二十日(金)、夜(推定)、荒井某来て、玄関突き当りの居間で、子供たちと百人一首を取ってはしゃぐ。森田草平来て話す。鏡、前の銭湯に行く。その間にこそ泥に入られ、鏡の下駄や外套・帽子、森田草平の靴も盗まれたのを銭湯から帰って発見する。森田草平には下駄を買って、かわりに履いて帰って貰う。」(荒正人、前掲書)
3月18日
仏、パリ、レーニン演説「革命は抑圧され搾取されているものの祭日である」。(『民主主義革命における社会民主党の二つの戦術』の一節)
「革命は、抑圧され搾取されているものの祝祭日である。人民大衆が、革命の時期ほど新しい社会制度の積極的な創造者として立ちあらわれることのできるときはけっしてない。革命の時期には、人民は、漸進的進歩という狭い素町人的尺度からすれば奇蹟と見えることをやってのけることができる。だが、革命的諸政党の指導者も、そういう時期には、自己の任務を、よりひろく、より大胆に提起することが必要であり、彼らのスローガンが、つねに大衆の革命的な自主活動に先んじ、その燈台となり、われわれの民主主義的および社会主義的理想の偉大さと壮麗さとをあますところなく示し、完全な、無条件の、決定的な勝利へのもっとも近い、もっともまっすぐな道を示すことが必要である。革命をおそれ、まっすぐな道を恐れるあまり、迂回路や、回り道や、妥協の道を考えだすことは、「オスヴォボジデーニエ」派のブルジョアジーの日和見主義者たちにまかせよう。・・・・・
労働者階級の搾取者が苦痛なほどゆっくりと労働者階級の膏血をしぽりとることを意味する、自由主義的進歩の静かな「航海」の時期にくらべて、暴風雨のときには、いっそう多くの危険がわが党の船をおびやかすことは、いうまでもない。革命的民主主義的独裁の諸任務が、「最左翼の反政府派」の任務や、たんなる議会闘争の任務よりも、千倍も困難であり複雑であることは、いうまでもない。だが、現在の革命的時機に、おだやかな航海や危険のない「反政府派」の道のほうを意識的に選びうるものは、一時、社会民主主義的活動を去るがよい。祝祭日が過ぎ去って、ふたたび平日がはじまる革命の終りを、彼の平日の狭い寸法がこうもいやな不協和音でなくなり、先進的階級の任務のこうもかたわな歪曲でなくなる革命の終りを、待つがよい」
3月18日
グレゴリー・アンドレイェヴィチ・ゲルシューニ、スイスで客死。化学者。民衆教育運動に従事し地下活動。社会革命党別働隊「戦闘団」を組織。1904年要人暗殺企て逮捕、終身刑。1906年2月東シベリアのアカトゥイ監獄に送られるが、ボルシチ用の塩キャベツの大樽に隠れて脱獄。ウラジオストーク~長崎経由アメリカ・欧州に亡命。
3月18日
ムスリム連盟第1回継続大会、アリーガルで開催(~19)。常任議長にアーガー・カーン3世を選出。
3月19日
清国軍艦、辰丸国旗引却の謝罪として21発の謝砲を発す。また、辰丸事件に関し、広東に日本商品ボイコット運動激発。以後、各地に波及、拡大。損害、貿易、船舶、保険など400万円に達する。
3月20日
田添鉄二(36)、病死
1875年(明治8年)7月24日 、熊本県飽田郡中緑村(現・熊本市南区)に生まれ、1892年(明治25年)にメソジスト教会で受洗。熊本英学校を卒業した後、長崎に移住して鎮西学院で学ぶ。
1898年(明治31年)留学のため渡米し、シカゴ大学に入学。アルビオン・スモール等の著名な社会学者を主とした社会学や宗教学を学ぶ。
1900年(明治33年)帰国し、『鎮西日報』の主筆となるが、上京し、翌1901年(明治34年)に社会主義運動に参加。
1906年(明治39年)、社会党(後の日本社会党)の創設者及び評議員となり、幸徳秋水が提唱した直接行動論を批判して議会主義政策を提唱。
1908年(明治41年)結核により没。
つづく

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