2026年3月10日火曜日

大杉栄とその時代年表(774) 1908(明治41)年4月1日~2日 塩原事件の後始末 「(四月初め(推定)(日不詳)、生田長江、平塚家を訪れ、漱石と馬場孤蝶に事件の処理を委ねたと語り、「森田がやったことに対しては、平塚家ならびにど両親に十分謝罪させる。その上で時期をみて、平塚家へ令嬢との結婚を申し込ませる。」(平塚らいてう自伝『元始、女性は太陽であった』)と伝言する。平塚明子も両親も意外に感じる。)」(荒正人)

 

生田長江

1908(明治41)年

4月

鈴木文治「想海の暗潮」(「新人」)。無政府主義否定

4月

岩野泡鳴「闇の盃盤」(「日高有倫堂」)

4月

漱石(41)、「創作家の態度」(「ホトトギス」)

4月

(漱石)

「四月(推定) (日不詳)、平塚光沢(つや)、夫平塚定二郎の意を受けて訪ねて来る。漱石は森田草平の事件を小説として発表することに対し、強いて許可を求め、平塚光沢の説得に努める。」(荒正人、前掲書)

4月

ロシアの文人ジャーナリスト、ネミロービッチ・ダンチェンコ(「ルスコエ・スローボ」主筆兼出資者)、来日。相手をした二葉亭四迷(東京朝日の接待役)にペテルブルク来遊をすすめ、東京朝日の池辺三山や村山龍平(社長)の賛成するところとなる。


「東京朝日の池辺三山は、それまで二葉亭が露文に通じていることは聞き知っていたが、実際にダンチェンコに接しているところを見て大いに感心した。話しかたは流暢というのではないが「何となくあやがあって」「いかにも対手に共鳴を起させる風が」あると思った。

あるとき観世舞台にダンチェンコを招いた。能は外国人には難しかろうが 『夜討曾我』ならましかも知れない、と二葉亭が選んだのである。池辺三山が客席に行くと、ダンチェンコは露文の原稿を十枚あまり手に持って、絶えず能と見較べている。そして時々そこに書き入れている。三山は二葉亭にその原稿はなにか、と質(ただ)してみた。

「あれはどうしたのだ、ときくと、いや、実は能ばかり見せてもダンチェンコがよく解るまいと思って、昨夜殆ど夜通しで『夜討曾我』を訳して見た。其為に今日は何だか頭がボンヤリして居るという話、今日の普通の散文ならば兎に角、能を一夜に訳了したときいで私も驚いた」

「『長谷川君、えらい勖(つと)めるね』と言うと『なアに、斯うして生捕って置くのだ。』と言って居た。案の条(ママ)露西亜行の話が持ち上って来た」 (「朝日新聞に於ける長谷川君」池辺三山、「太陽」明治四十二年六月)」(関川夏央『二葉亭四迷の明治四十一年』)

ダンチェンコとの繋がりを利用して、朝日新聞社を退社してでもロシアに行きたいと熱望している。

4月

大石誠之助「聖書の一節」(「世界婦人」)


「(前略)私はすべての人類が経済の上に同胞とならねば決して霊魂の同胞となり能はず、すべての兄弟が精神的にも物質的にも相和らぐ時が来ねば、真に神に近づいて之を拝する事が出来ぬと思ひます。是れ則ち、我等が教会に入り神に祈祷を捧ぐるの前、先づ互に恨める兄弟を和らげんとて、社会的革命運動に身を委ぬる所以であります。」


誠之助は18歳のとき大阪で洗礼を受けている(兄余平・酉久、姉陸世も洗礼を受けている)。

この「世界婦人」に掲載した「聖書の一節」では、山上の垂訓「汝、若し供物を携へて祭壇に行きたる時、其処にて兄弟に恨まるゝ事あるを思い出さば、其供物を壇の前に置き、先づ往きて汝の兄弟と和らぎ、然る後来りて汝の供物を献げよ」の一節を読んで、「甚(いた)く我が平素の信念を強めた」という。

4月

借地権保護協会、設立。演説会を開いて借地人の権利を訴え、借地人大会を催し、借地権保護の立法化を図る

日露戦争後、地価高騰・地代引上げ・「地震売買」が横行。「地震売買」とは、地主が借地人の了解を得ないまま土地を売却し、それを理由に借地人に土地の明け渡しを迫り、「一卜動揺」で「地上のあらゆる建物を震い落とす」行為である(「東京毎日新聞」3月24日)。借地人たる旦那衆は、弁護士の力を借りながら行動を起こす。議会に「借地人の権利保護の請願」を出し、この月に借地権保護協会を組織。

4月

7世市川団蔵、歌舞伎座に出演。『加羅先代萩』仁木弾正を演じ、大当たり。

4月

大杉栄、『万物の同根一族』(ハワード・ムーア、有楽社)の「第六篇はしがき」を執筆

4月

東洋製紙淀川工場、開業。

4月

日本天文学会発足。4月、『天文月報』創刊。

4月

富士製紙加島工場、開業。

4月

有馬四郎助、横浜家庭学園を設立。女子感化院の初め。

4月

バルト海・北海会議、開催。沿岸各国が現状維持を確認。

4月

(漱石)

「(四月初め(推定)(日不詳)、生田長江、平塚家を訪れ、漱石と馬場孤蝶に事件の処理を委ねたと語り、「森田がやったことに対しては、平塚家ならびにど両親に十分謝罪させる。その上で時期をみて、平塚家へ令嬢との結婚を申し込ませる。」(平塚らいてう自伝『元始、女性は太陽であった』)と伝言する。平塚明子も両親も意外に感じる。)」(荒正人、前掲書)


4月上旬

警視庁の老車夫鑑札取上げに反対する東京老車夫救済会結成。

4月1日

滬寧鉄道開通。

4月1日

山形県鶴岡、藩校致道館跡に朝暘第1尋常小学校が創立

4月1日

官立の第八高等学校(名古屋大学の前身の1つ)、鹿児島高等農林学校(鹿児島大学の前身の1つ)、奈良女子高等師範学校(奈良女子大学の前身)を新設。奈良女子高等師範学校の新設に伴い、女子高等師範学校を東京女子高等師範学校と改称。

4月1日

農商務省、農会による農事統計に、耕地所有規模別、高知経営規模別の農家戸数を加えるべき旨公布。

4月2日

啄木、東京での文学活動をめざして釧路を去る。

啄木は、釧路を去る決心をして、小奴へこのことを知らせ、釧路新聞日景主筆へは、家族に関する用件でしばらく函館へ旅行すると書き送る。そして、あらかじめ準備してあった手廻り品を古カバンに詰め、簡単な旅装を整えた。

午後4時少し前、啄木の手紙を読んだ小奴が、文学的成功を祈り、別れを悲しむという便りと餞別金5円を使の者に持たせてよこした。彼は下宿の主婦にはしばらく函館へ行って来ると挨拶して、友人の横山、高橋の両人に見送られて安田廻漕店に行く。2等切符を買い、そば屋で会食して波止場へ来てみると、積荷の都合で、船の出帆は翌3日午前10時に延期されていた。仕方なく、二人に別れて旅館に投宿し3日10時半酒田川丸に乗船した。船は349tの汚ない船で、2等の船客は一人という無聊さで、しかも出帆は更に2日間延期され、啄木は2日間を酒田川丸の船室で過すことになる。

啄木は釧路を去るに当っては、家族に関する要件で函館に赴くと主筆に通知しているので、「釧路新聞」編集日誌でもそのように扱われていた。

○編輯日誌(3月27日)

「啄木子猶起たずと云ふ」

○編輯日誌(28日)

「啄木子今日も亦出社せず、病未だ癒えざる可し」

○編輯日誌(4月1日)

「啄木子猶起たず」

○編輯日誌(6日)

「啄木子酒田川丸にて二日湾内に籠込められ七日の帰りが七日に着函との報あり」

4月2日

国語調査委員会編、『仮名遣仮名字体沿革史料』。

4月2日

癌研究会、東京帝国大学医科大学で発会式。青山胤通、北里柴三郎、長与又郎、志賀潔らの発企。


つづく

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