2013年3月12日火曜日

1766年(明和3年)8月~12月 モーツアルトの西方大旅行終わる(1763年6月9日7歳~1766年11月29日) 【モーツアルト10歳】

江戸城(皇居) 2013-03-12 シナミザクラ
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1766年(明和3年)
8月
この月
・幕府、日本へ向かった朝鮮の使節漂流の報を受けて、越前から石見までの捜索を命じる。
9月3日、漂流した朝鮮使節の捜索範囲を佐渡にまで広げる。
9月9日、漂流した朝鮮使節が朝鮮漁民により発見された報を受けて、漂流物の届け出に切り替える。
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8月13日
・モーツアルト、リヨンで演奏会。
この日付リヨンの「小広告紙」、
「今夜大音楽会で『ド・ビュリ氏の<イラの幕>』が上演される。シャルパンティエ夫人とロブロ氏が歌う。9歳の作曲家にして音楽の巨匠J・G・ヴォルフガング・モーツァルト氏がいくつかの曲を独自にクラヴィーアで演奏する。音楽会の最後はラモー氏の『エベの祭り、または抒情詩の才人』の中の<舞踏の幕>である。」
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8月20日
・この頃、モーツアルト一家、ジュネーブ滞在。~9月10日頃。3週間。
ヴォルテールとデピネ夫人に会う予定だったが、前者の方は病気のため会えなかった。デピネ夫人には後に、母の死(1778年)のとき世話になる。

9月26日付のヴォルテールからデピネ夫人宛の手紙。
「マダム、あなたの小さなマザール君(モーツァルト)は、私が思いますに、この不協和音の神殿に快い響きをもたらすには、かなり悪い時期を選ばれたようです。ご存知の通り、私はジュネーヴから2マイル離れたところに住んでいます。そこからまったく外に出ていません。つまり、ジュネーヴの暗い空にあの輝くような事件があった時、私は重病だったのです。まことに残念なことに、モーツァルトを見ることなく終わってしまったのです。」(=ヴォルテールは重病でモーツァルト一家に会えず、残念だといっている)。

1778年、モーツァルトが再度パリに行った時、レオポルトはモーツァルトに対しヴォルテールとマダム・デピネを訪問するようメモを書いているが、モーツァルトはヴォルテールに会わなかった。
その年5月30日、ヴォルテール没時、モーツァルトは「あの無神論者の大ペテン師、ヴォルテールが犬畜生のようにくたばりました。まさに当然の報いです」と7月3日付のレオポルト宛の手紙に書く。

この頃、イタリア留学からの帰途、ジュネーブに逗留していた作曲家アンドレ・エルネスト・モデスト・グレトリー(1741~1813)が、モーツァルトの演奏を聴き文章を残している。
1789年に発表した『音楽論集』の一節。
「私は、昔ジュネーヴで、あらゆるものを初見で弾いてみせる一人の少年に出会った。父親は満堂の会衆の前で私に言った。息子の才能にいささかの疑いでも残るといけませんので、明日あの子のために、とても難しいソナタを一曲作って下さい。私はその子のために、気どらずに変ホ調の難しいアレグロを一曲作った。彼はそれを演奏したが、私のほかは誰もが驚嘆してしまった。少年はまったくつっかえることがなかった。しかし曲を続けながら、この子はたくさんのパッセージを私が書いておいたものとすりかえたのである。」
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9月
・秋、俳人与謝蕪村が讃岐を訪れ、丸亀妙法寺や金比羅神社などに遊ぶ。
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9月6日
・大野藩主土井利貞、落文・張札を禁止、見付けたら焼き捨てて訴えよ、との触を出す。
安永3年にも訴えたいことは役筋へ訴えよと触れ、天明4年には騒動は「村々町々の恥」だから、願いは穏便に申し出るべしといって、小百姓・地名子・借屋の者から請書を徴する。
後にも折に触れ同趣旨が布達されり、後を断たなかったことが窺われる。
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9月10日
・モーツアルト一家、ジュネーブ出発。
中旬、ローザンヌ到着。
ローザンヌでヴュルテンベルク公ルートヴィヒの為に「フルートのための独奏曲」(K.33a)を作るが紛失。
15日、ローザンヌで音楽会。
18日、ローザンヌで音楽会。
ベルン(8日間滞在)→27日、チューリッヒ到着(2週間滞在)。

ローザンヌでは、オーギュスト・ティソの筆名でよく知られるこの文人、サミュエル・アンドレ・ティソと知りあう。
彼は、『アリスティードあるいは市民』誌に、神童モーツァルトに関する長文のエッセイを書いている。ティソはヴォルフガングを「われらが小さきオルぺウス」と呼び、いつの日か彼が音楽の「最大の巨匠の一人」となろうと予言。
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9月29日
・士風の廃頽
「次に明和三(一七六六〕年九月二十九日小普請組の外村大吉が斬罪に処せられた。それは大吉の父金十郎という者が、これはもう故人になっていたのであるが、大吉の年を違えて届けておったのを、家を嗣いでからも改めない。それが一つ。それから大吉の妹が家を出でて出奔してしまったのを、後見をしておった小普請組の比企善十郎という者がそれを届けないでおった。その後大吉が年取ってから妹の行衛が知れたけれども、そのままに棄てて置いた事が一つ。それから去年弟の益之丞という者が出奔したのを届けないで置いた事が一つ。それから己の家において常々博奕(ばくち)をして、剰(あまつさ)え小普請の権田熊太郎という者と争うて、その後熊太郎が刃傷せられたのをそのままにして置いた。また常に住所不定の怪しい者を集めて博奕を致しておった。また本所立川の店屋に積んであった材木薪等を盗んだによって、奉行所へ呼出された時に逃出して、捕えられて、座敷牢へ入られておったのが、また脱出して、頭を剃って坊主になって、常陸の或寺に隠れておったのを捕えられた。重々不届であるというので首斬られた。妹は捕えられて一族の家に預けられた。この妹は大吉がまだ小さかった時に、その家の下男と密通して出奔して、芸者となって、今は百姓の妻となっておったのであるが、今度大吉が逃げた時に、それを匿ったというのでその罪を受けたのである。この大吉とともにしばしば博奕を打った西の丸右筆守屋求馬、小普請の比企善十郎、同小普請荻原五左衛門の子久五郎、同川井三次郎ら皆遠沈に処せられた。」(辻善之助『田沼時代』) 
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10月
・モーツアルト、チューリヒでK.33B ピアノ小品(ヘ長調)作曲。 これは、10月チューリヒのコレギウムでのモーツァルト姉弟の音楽会を知らせる紙の裏に書かれてある。
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10月初旬
・モーツアルト、クラヴィーアのための作品ヘ長調(K.33B)を作曲。ドナウエッシンゲンで、フュルステンベルク侯のため。紛失。
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10月3日
・レオポルト、チューリヒで著述家ザロモン・ゲスナーから著作集4巻を送られる。
第1巻に献辞。
「・・・尊敬すべきご両親よ、末永く教育の最良の結果をあなた方の子供たちの幸せのうちに享受ください。子供たちの功績が非凡であればあるだけ、その幸福は大きいでしょう。まことに幼い年頃ながら、子供たちは国民の誉れにして、世界の驚嘆の的であります・・・チューリッヒ1766年葡萄月(10月)3日」。
第1巻と第2巻はモーツァルトの死後蔵書の中に残されている。
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10月7日
・モーツアルト、チューリッヒで音楽会。チューリッヒ・ムジーク・コレギウムと協演。9日にも。
10日、モーツアルト一家、チューリッヒ出発→ヴィンテルトゥール→シャツハウゼン(4日間滞在)。
下旬、ドナウエッシンゲンで過ごす。
ドナウエッシンゲンではザルツブルク宮廷音楽家ヨーゼフ・ニコラウス・マイスナーに再会。また、パリで別れたかつての従僕ヴィンターにも再会。
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11月上旬
・モーツアルト、マルクト・ビーベルバッハの巡礼教会でヨーゼフ・ジークムント・オイゲン・バハマン(12)とオルガンの競演。
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11月6日
・モーツアルト一家、アウグスブルク到着。
8日、ミュンヘン到着。モーツァルトが病気に罹る。
22日、選帝侯マクシミリアン3世の御前で再び演奏。
27日、ミュンヘン出発。
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11月10日
・レオボルトが将来に亙る子供たちの教育をどうに考えていたか。この日付けハーゲナウアー宛て手紙の親展の部分。
「神(私のような悪人にとってはあまりにも慈悲深い御方です)は、私の子供たちにこれほどの才能をお与え下さいましたが、こうした才能は、父親たる者の責任を考えずとも、その立派な育成のためには、万事を犠牲とするよう私を誘惑してしまうかのようです。私が失いつつある瞬間瞬間は永久に失われてしまうのです。幼い者にとって、時がいかに高価なものであるかは、以前にも知っていたにせよ、今そのことが分かりました。子供たちが仕事に慣れていることはご存知でしょう。お互いに邪魔になるという口実で、暇をつぶすような習慣になれてしまったら、私が築き上げたものすべてが崩れてしまうことでしょう。習慣は鉄の肌着です。それにあなたご自身でまた、私の子供たち、なかでもヴォルフガンゲルルがいかにたくさんのことを学ばなければならぬかをご存知です。- ただ、私どもがザルツブルクに帰ったら、私たちが目の前にいると誰が分かるでしょうか? 多分、私たちは喜んでリュックサックを背負ったり、下ろしたりすることでしょう。少なくとも、私は母国に(神がお望みでしたら)子供たちを再び連れて帰るのです。子供たちをお望みでなくとも、私に罪はありません。でも子供たちはきっと受け入れられることでしょう。もう充分です。私はあなたの賢明なご判断と真の友情をまったく頼りにしています。」

西方への大旅行を企て、自分の大病、子供たちの生死の境を彷徨するような重病といった試練に遭遇しながらも、豊かな成果を収めてようやく故郷を望見するまでの距離に迫った父親の切実な思いが窺い取れる。
自分の使命をひたすらこの神童の「才能の立派な育成のために」のみおくことが、それであった。
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11月18日
・幕府、職人の勅許受領名について、親の跡を継ぐときには新たに勅許をうけて名乗るよう触れをだす。
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11月19日
・鳥取藩、城下の加美屋へ綿実問屋を命じ、綿実の流通統制をはかる。
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11月29日
・モーツアルト一家、パリ・ロンドン旅行よりザルツブルクに戻る
(神童ヴォルフガングの名前はヨーロッパ中に広がる。一家が旅するのに合せて各都市の新聞が次々とそのニュースを伝えた。 父レオポルトの興行は大成功。彼はパリで一家を描いた銅板画を作り、それを旅先で売りながら帰郷)。

この旅行でレオボルトは約2万フロリーンを費やしたが、引出物や持ち帰った宝石類、装身具は価値のあるもの。
彼はまた、その他各種商品を仕入れており、これを求めるザルツブルクの人々に売り捌いた。
それにもまして、ヴォルフガングが獲ち得てきた音楽的財宝は無限の価値をもつ。

足かけ4年にもわたる大旅行は終り、モーツァルト一家は、翌年9月までの10ヶ月近くをザルツブルクの町で送る。

ザルツブルク聖ペテロ大修道院の司書を勤めるベーダ・ヒューブナー師(1740~1811)のこの日付け日誌。
「当地の副楽長で世界的に有名なレーオボルト・モーツァルト氏が、本日、夫人ならびに十歳の少年と十三歳の少女という二人の子供を伴って町に立ち戻り、町中を安心させ嬉しがらせたことを書き留めておかねばならぬ」という書き出し、2人の子供の楽才ぶりを記し、ヨーロッパの殆どあらゆる部分を旅行し、その楽才によって大いに名誉をほどこし、作品を刊行し、多額の報酬を得たこと、さらに危険な病気を克服したことなどを詳しく述べている。
最後の部分。
「今や少年は十歳を少し越し、少女は十三歳をいくらか越している。少年ヴォルフガンゲルルは、この旅行でたいして背丈は高くなっていないが、ナンネルルは相当大きくなって、もうほとんど適齢期といっていい。たいへん声高の噂では、このモーツァルト一家はまたまた当地にはあまり長くは留まってはいないで、やがてスカンディナヴィア中やロシア全土、それにひょっとすると支那にまで旅行するとのことであるが、これは前のよりずっと大きな旅行となり、相当思い切った計画といえるだろう。実際のところ二人の子供をもったモーツァルト氏ほど有名な人物はヨーロッパ中に一人もおらず、彼は実際に自分の子供たちのおかげで名声と大きな財産を得ている。」
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12月
・モーツアルト。この頃作ったと思われるピアノ・ソナタの断片(K.33d (Anh.199) ト長調、K.33e (Anh.200) 変ロ長調、K.33f (Anh.201) ハ長調、K.33g (Anh.202) ヘ長調)。
これらは、モーツァルトの死後、1800年2月8日ナンネルがブライトコップ社に送った手紙により推定されている。
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12月7日
・尼崎藩、浜田川水論について、西難波村を訴えた浜田村の村役人8人全員が牢死等で亡くなったので、裁決は下さないと申し渡す。
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12月8日
・この日付のザルツブルク聖ペテロ修道院の司書ベーダ・ヒューブナーの日誌。
モーツァルト家を訪問し、モーツァアルトのクラヴィーア演奏を聴き、「その技術、スピード、高度な着想、驚異的なテクニックなどの点で、全ドイツ、ヨーロッパ一である」と感動。モーツァルトの演奏は「そこに書かれているものより、はるかに優れた芸術的なものになっている」。モーツァルトの作曲も素晴らしいと述べ、ある大聖堂のミサ用に「シンフォニー」を作曲し宮廷音楽家たち全員の大喝采を博し、驚嘆の的になった、とある。
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12月21日
・モーツアルト、大司教ジークムント・フォン・シュラッテンバッハの叙階式記念日。この日、夕べの「アヴェ・マリアの祈り」が済むと、大司教はザルツブルクを訪れていたイタリア劇団による芝居(『聖霊の騎士』)を観劇。
そのあと、一曲のインテルメッゾ(幕間劇)があり、そのあとレチタティーヴォとアリア一つの形をとる「リチェンツァ」(王侯貴族に敬意を表して特別に作曲するオペラ的な番号曲)が歌われる。
このリチェンツァは、モーツァルトが作曲した、テノールが歌う叙唱『務めが我を強いる今こそ』に始まり、アリア『ジーギスムントの事蹟はかくも偉大にして』へと続くK36=33iの作品。
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