千鳥ヶ淵(北の丸公園側)の桜 2013-03-24
*明治36年(1903)
10月21日
・12代横綱の陣幕久五郎(74)、没。
*
10月23日
・幸徳・堺、麹町区有楽町3丁目に一戸を借り、平民社を開く。
27日、警視庁に届け出。
*
10月23日
・斉藤緑雨、団子坂近くから本所横網町1丁目17番地に引っ越す。
「平民新聞」第2、4、5、8号に随筆「もゝはがき」を掲載。
*
10月26日
・小村・ローゼン第4回会談。
*
10月26日
・渋谷清蔵・大坂金助らが発起人となり、青森育英会結成。
*
10月27日
・(露暦10/14)ロシア、ガボン、労働者喫茶クラブ活動報告をペテルブルク特別市長官クレイゲリスと警保局長ロブーヒンに提出。
*
10月28日
・ロシア軍(東部シベリア第15狙撃連隊)、奉天再占領(第2期撤兵を守っていた)。
*
10月28日
・煙草製造官業化反対奥羽連合大会、仙台市で開催。
*
10月28日
・ハンガリー、第1次ティサ・イシュトヴァーン内閣成立。
この月、ティサ率いる自由党特別委員会はハンガリー軍旗の使用、ハンガリー軍事裁判でのマジャール語使用、帝国軍でのハンガリー将校の登用などを決め、フランツ・ヨーゼフもこれを承認。
~05/6/18.二重体制の忠実な支持者。
*
10月29日
・清・仏、ベトナム~雲南鉄道敷設経営に関する、滇(テン)越鉄道敷設協定に調印。
*
10月29日
・日本郵船の東海丸、北海道矢越沖でロシア船と衝突沈没、死者150人余。
*
10月30日
・韓国、京仁・京釜鉄道会社を合併。
*
10月30日
・小村・ローゼン第5回会談。
日本側の確定修正案を手交し、ロシアの再考を要求。ロシア側沈黙続く。
*
10月30日
・尾崎紅葉(37)、没。
明治22年12月、尾崎紅葉(23歳)、「読売新聞」入社。
その前年、帝国大学法科大学に入学したが、進級できず、その年9月から、文科大学国文科に移る。学友の川上眉山、石橋思案等と同人雑誌「我楽多文庫」を刊行し、小説を書いていることが学校当局から白眼視されていた。
その年4月、叢書「新著百種」の第1篇として「二人比丘尼色懺悔」を書いて新作家としての地歩を築く。
その年12月、「読売」を退く饗庭篁村に替る小説担当の社員として入社。
入社後しばらくは学校に籍があったが、収入が多くなるに従って自然に学校を放棄。
川上眉山、石橋思案も相ついで退学。以後崎紅葉は、代表的な文芸新聞であった「読売」に、力のこもった作品を発表し、友人・弟子たちにも「読売」に執筆する機会を与えて、庇護した。
彼は「読売新聞」にいることによって、文壇的地位に重きを加え、「読売」はまた紅葉を中心とする硯友社の本拠たることによって文芸新聞の権威を維持した。
明治30年1月以後、紅葉は力作「金色夜叉」を、年に二、三度の割合で「読売」に連載し、天下の人気をそこに集めた。
明治35年(1902)5月頃、紅葉は、胃の不調を覚え、毎々鳩尾(みぞおち)に痛みを感じた。医者を替えたり、食事に気をつけたり、成東の鉱泉へ行ったりしたがはかばかしくなかった。
「金色夜叉」の続篇の休載が長く続き、「読売新聞」は次第に紅葉の扱い方に困り、営業面からの苦情も出て、紅葉に対する冷淡な態度が表面化した。
そして、この年8月、紅葉は「読売新聞」を退社した。
紅葉の「読売」退社は、読者・文壇人・新聞関係者に衝撃を与えた。
そして、9月、紅葉は、「二六新報」社長秋山定輔の勧めにより「二六」入社を承諾した。紅葉は法科時代は秋山とは学友で顔見知りであった。
紅葉招聘は、紅葉の最初の弟子で、堺利彦の妻の兄の紫山堀成之が小野瀬不二人にこれを勧め、それを秋山が容れたもの。
この頃「二六新報」は発行部数は十数万と言われ、都下第一の新聞と号し、余裕があり、かつ世間の注目を惹くことに対して積極的でもあった。
明治35五10月2日付け「二六新報」に尾崎紅葉の「入社の辞」が載った。
「予が多病の故に、十余年の締合密なる『読売新聞』と絶って、未だ幾(いくば)くならぬに、『二六新報』社は予の親友其々の二氏を介し、不肖の為に厚遇の椅子を払って、懇(ねんごろ)に招かれるのであった。(中略)予は先づ間はざるべからざる者有るが故に、之を以て氏に答へた。曰く、足下は予が名声を買ふけ乎、或は箇の病骨を買ふの乎。秋山氏は曰ふ、固より其病骨を買ふのである。奇なる哉言や、予が入社の意は之が為に愈よ動いた。(下略)」
紅葉に同情していた人々はこの文章を名文だと言った。
紅葉の入社は「二六」の義挙として好評であった。
紅葉はこれで当分安んじて病を養うことができるようになった。
この時、紅葉は、数え年36歳、秋山定輔は37歳。
紅葉は明治36年1月から「金色夜叉」の新続篇を雑誌「新小説」に載せたが、これもまた中絶になった。彼は「二六新報」にはレッシングの原作による「草分衣」という小説を連載していた。また2月から、編著「西鶴文粋」を上、中、下に分けて春陽堂から出し始めた。
2月初め、彼の体重は11貫950匁で、食事のあとに時々嘔気があり、胃が張って気分悪く、鳩尾の痛みが直らなかった。気力が無くなり、消化のために散歩したり、弓を引いたりしたが、それも疲労を増すばかりで、病は目に見えて悪化して行った。
東京帝国大学医学部の入沢達吉博士の診察を受けると、入沢博士は正確な診断のために入院を奨めた。
3月3日に彼は入院し、14日、ガンの宣告を受けて退院した。
さっそく、紅葉がガンになって死期が近いとの消息が新聞に掲載され、見舞い客が増えた。巌谷小波、上田敏がよく見舞いに来た。
また、「読売」の旧友からもユーゴー「ノートルダム・ド・パリ」翻訳の話も進んで、早稲田大学出版部が千円で原稿を買い取った。
実際は長田秋涛の知り合いの青年が約した翻訳を徳田秋声が英訳本を参照しつつ訂正するという作業であった。
以上の経緯は伊藤整『日本文壇史』から。
以下は、内田魯庵『思い出す人々』(岩波文庫)から
「硯友社の勃興と道程 十二 紅葉と最後の会見-世間に伝わらざる逸事」
「紅葉の病気が重態であると新聞紙に伝えられてから間もなく、或日の午後」、丸善で紅葉と出会う。
病気の様子などの問答の後、
「やがて間(ま)を措(お)いて、「何を買いに来た!」と訊くと、「『ブリタニカ』を予約に来たんだが、品物がないッていうから『センチュリー』にした」といった。」
「「・・・生延びようとは決して思わんが、欲しいと思うものは頭のハッキリしている中(うち)に自分の物として、一日でも長く見て置かないと執念が残る。字引に執念が残ってお化けに出るなんぞは男が廃(すた)らアナ!」と力のない声で呵々(からから)と笑」ったという。
「不起の病に罷(かか)って、最早余命いくぱくもないのを知りつつも少しも紊(みだ)れないで、余り余裕のない懐(ふとこ)ろから百何十円を支払って大辞典を買うというは知識に渇する心持の尋常でなかった事が想像される。あるいは最後の床の上で、『ノートル・ダーム』の翻訳を推敲していたからであったかも知れないが、それならはなお更、死の淵に瀕してすらも決して苟且(かりそめ)にしなかった製作的良心の盛んであったを知るべきである。
普通ならば医者から三月しか寿命のないのを申渡されて死後を覚悟すべき時である。聊かでも余財があれは家族のために残して置く乎、さらずば自分のための養生喰いをする乎、病気のために食慾の満足が得られないなら慰みになるものでも買うのが普通である。病気のためにも病床の慰みにも将(は)た又死後の計(はかりごと)の足しにもならないこういう高価の大辞典を瀕死の間際に間際に買うというは世間に余り聞かない咄(はなし)で、著述家としての尊い心持を最後の息を引取る瞬間までも忘れなかった紅葉の最後の逸事として後世に伝うるを値いしておる。」
結びは、
「紅葉は真に文豪の器であって決してただの才人ではなかった。」
でむすばれる。
*
10月31日
・自由党幹部で衆議院議長の片岡健吉(59)、没。
*
*
*
0 件のコメント:
コメントを投稿