生活保護費:浪費通報条例、兵庫・小野市で成立 受給者、過度の飲酒ダメ
毎日新聞 2013年03月28日 大阪朝刊
生活保護費や児童扶養手当などを受給者がパチンコなどに浪費することを禁じ、見つけた市民に通報を求める兵庫県小野市の「市福祉給付制度適正化条例」が27日、市議会本会議で可決、成立した。使途を具体的に規制し、通報を義務化した条例は全国でも例がなく、論議を呼んでいる。4月1日に施行される。
条例は受給者に対し、不正受給や、パチンコ、競輪、競馬、遊興、賭博などでの浪費を禁止した。市は「過度の飲酒や風俗関係も含まれる」と説明している。
「市民の責務」として、不正受給が疑われる受給者や、パチンコなどへの浪費で日常生活に支障が出ている受給者について、市に情報を提供すると規定した。罰則はなく、元警察官や専門家らを想定した「適正化推進員」が通報内容を調査し、市が必要に応じて指導する。生活困窮者を救済するため、困窮者に関する情報提供も求めている。
議会後、蓬莱(ほうらい)務市長は「議論が巻き起こり、無関心から関心へ、大きな成果があった。受給者の自立を支援し、不正や浪費を防ぎ、制度の信頼回復に効果を上げたい」と述べた。
同市は人口約5万人で、市内の生活保護受給世帯(2月末)は121世帯。保護率(昨年12月)は0・31%と全国平均1・69%より低く、条例の必要性に疑問の声は多い。しかし、市によると、2月27日に条例案を提案して以降、寄せられた電子メールや電話などは1958件で、賛成が60%、反対が39%となっている。【浜本年弘】
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発想の根底には、
自助社会にあって、生活保護を受けるような人間は社会のジャマ者
というのがあるような・・・。
そして、さらに密告奨励。
こうして、ビンボー人どうしが憎みあう。
人目を気にする相互監視社会。
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さて、100年以上昔、しかも同じ小野市で、
密告制度 → 密告者の密告というような事態があったとのこと。
(1/2)1901年(明治34)、ある日本の村で賭博の悪風止まず、村内の村組がこぞって、それを密告した者に褒美として米を与えるという規約を設けたところ、ある村組だけが摘発者が多かった。今度はその過剰な密告を取り締まる事となり、密告者を密告せよということになった。
— 住友陽文さん (@akisumitomo) 2013年3月26日
(2/2)するとある人物の名前が挙がり、村組ではその人物を村八分にした。これは実話である。その村とは現在の兵庫県小野市の一部だ。この事実を小野市史編纂過程で僕は新聞史料の中から見つけ、『小野市史』7巻の186頁に収載した。そして112年後、こういうかたちで歴史は繰り返された。
— 住友陽文さん (@akisumitomo) 2013年3月26日
先ほどの112年前の小野市の話。『神戸又新日報』1901年3月23日付(季節も似てる)。この新聞史料はとても面白くて自分の本にも引用したし、講義でもよく使う。不平等条約が撤廃されていって日本が世界の資本主義市場に入っていく時のカオス状況が地域社会レヴェルでも見えるので。
— 住友陽文さん (@akisumitomo) 2013年3月26日
BLOGOS
「生活保護通報条例」に反論する - 大西連
<引用>
「生活保護通報条例」とは
(略)
条例の「目的」
(略)
「生活保護利用者」への通報
(略)
「一人親家庭(シングルマザー/ファザー)」への通報
(略)
「要保護者(保護が必要な生活困窮者)」への通報
(略)
「ギャンブル等の浪費」を防ぐには
(略)
「通報」ではなく「支援」へ
(略)
「管理」ではなく「共生」を
小野市のHPを見るとこの条例に関して小野市長は、
全国どこでも起こり得る課題に対して、「言われてからやるのではなく、言われる前にやる」、まさに、「後手から先手管理」への転換を実践する。
と話している。
「管理」という言葉をどういう文脈で使っているのかは分からない。しかし、「管理」という言葉は「通報」と密接にリンクしている。不正受給やギャンブル等への浪費も、その人の抱える「困難さ」であることは間違いない。それを「通報」というかたちで社会の問題として共有し、地域の目で「管理」していこうという発想であれば恐ろしい。
またそれが怖いのは、そういった自分たちと違う他者(困難さをもったマイノリティである存在)に対して、「困った人だ」といった視点で「管理」することによって社会の一員として招き入れることである。
昨今、ソーシャルインクルージョンという言葉の訳として「社会的包摂」や「社会的包容力」などといった言葉が認識されるようになってきた。これは、個人の資質の問題だけではない、さまざまな社会的要因により、一人ひとりが生きづらくなってしまう状況を(社会的排除にあっている状況)を、社会全体の問題として解決していこうという概念である。
「通報」という発想も、社会全体の問題として考えて解決を図るという意味では「包摂」と言えるのかもしれない。しかしそれは、困難さを抱えた社会的少数者(マイノリティ)を「管理」することによって「包摂」しようとするものだ。
「管理」から「共生」は生まれない。いまわたしたちがするべきことは、社会全体の共通の課題に対して「管理」することによって解決を図るのではなく、さまざまな違いや困難さを認めた上で、どうやったら「共生」することができるのかを考えることだ。それは社会の在り方の「前提」であり、わたしたちの「立ち位置」の問題でもある。
4月1日から「条例」は施行される。「通報」によって何が生まれ、何が失われるのか。この「条例」を許容する社会であってはならないと思う。わたしたちはいまこそ広く議論の場を開いて、社会のあり方、本当に必要な支援について、「共生」していく未来について、深め合っていく必要がある。
<引用おわり>
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