2013年3月30日土曜日

ナオミ・クライン『ショック・ドクトリン』を読む(66) 「第6章 戦争に救われた鉄の女-サッチャリズムに役立った敵たち-」(その2)

東京 千鳥ヶ淵 2013-03-29
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ナオミ・クライン『ショック・ドクトリン』を読む(66)
「第6章 戦争に救われた鉄の女-サッチャリズムに役立った敵たち-」(その2)

右派独裁政権が成立した殆どの国に、シカゴ学派の影があった
 ニクソンの在任中、フリードマンは厳しい教訓を得た。
資本主義と自由はイコールであるという教義を打ち立てたのに、自由の国の人々は彼の助言に従う政治家に投票しようとしない。
もっと悪いことは、自由市場主義を実行に移そうという気のある者は、自由が著しく欠如した独裁政権だけだった。
このため七〇年代を通じて、シカゴ学派の名だたる学者たちはアメリカ政府による裏切りに不満を漏らしつつ、世界中の軍事政権を跳び回った。
右派独裁政権が成立した殆どの国に、シカゴ学派の影があった。
ハーバーガーは一九七六年、ボリビアの軍事政権顧問となり、七九年にはアルゼンチンのトゥクマン大学から名誉学位を授与された(当時、同国の大学は軍や政権の管理下にあった)。さらに彼はインドネシアでも、スハルトとバークレー・マフィアに助言を与えた。
フリードマンは抑圧的な政策を取る中国共産党が市場経済への移行を決めた際、経済自由化計画を立案した。

良いこと(民主主義と市場志向型の経済政策)は必ずしも両立しない
 カリフォルニア大学の筋金入りの新自由主義政治学者ステファン・ハガードは、「発展途上世界におけるもっとも広範な改革への取り組みのいくつかが、軍事クーデター後に行なわれた」という「悲しい事実」を認め、南米南部地域やインドネシアのほかに、トルコ、韓国、ガーナといった国を挙げている。
また、それ以外に改革が成功した例として、メキシコ、シンガポール、香港、台湾といった一党支配体制にある国を挙げている。
ハガードはフリードマン理論の中心をなす主張とは正反対に、「良いこと - たとえば民主主義と市場志向型の経済政策 - は必ずしも両立しない」と結論している。
実際、八〇年代初頭、自由市場経済化を進めている複数多党制の民主主義国家はただの一例もない。

富める者が富めば、自然に貧しい者にも富が浸透するというトリクルダウン理論ではなく
 発展途上国の左派陣営は長い間、企業がカネで選挙を左右することを防ぐ公正なルールを持つ正真正銘の民主主義国家においては、政府は必然的に富の再分配に力を入れると主張してきた。
その論理はきわめて単純だ。
こうした国々では貧しい者のほうが富める者よりはるかに多い。
富める者が富めば、自然に貧しい者にも富が浸透するというトリクルダウン理論ではなく、直接的に土地を再分配し賃金を上げる政策こそが、多数派である貧しい民衆の自己利益につながることは明らかだ。
すべての市民に投票権が与えられ、満足できるだけの公正な選挙プロセスが保証されれば、人々は自由市場経済化を公約にするのではなく、職と土地をもっとも提供してくれそうな候補者を選出するにちがいない。

フリードマンの矛盾:貧しい人々の投票行動と自己利益
 こうした状況に直面したフリードマンは、学問的矛盾に苛まれることになった。
アダム・スミスの後継者として、彼は人間が自己利益に支配される生き物であり、そうした自己利益があらゆる人間活動を支配するとき、社会はもっともうまく機能すると固く信じていた。
だが投票と呼ばれる小さな活動に関しては、例外だった。
世界の人々の大半は貧しく、平均所得以下の収入に甘んじて暮らし(アメリカも例外ではない)、経済の最上層部の富を自分たちに再分配すると公約する政治家に投票することこそが、彼らの短期的な自己利益にかなうのだ。
フリードマンの長年の友人であり、同じマネタリスト経済学者であるアラン・メルツァーはこの難問について次のように解説する。
「票は収入よりも平等に分配されている。(中略)収入が平均か平均以下の投票者は、収入を自分たちに移動させることによって利益を得ようとする」。
メルツァーはこのような行動を「民主的政府と政治的自由に伴う代償の一部」であるとしたうえで、こう続ける。
「フリードマンは同じく経済学者である妻ローズとともに、この強い流れに逆らって泳ごうとした。彼らは流れを止めたり逆流させることこそできなかったものの、政治家や一般の人が考えたり行動するより、はるかに大きな影響を及ぼした」

サッチャーのイギリス版フリードマン主義:住宅政策(住宅を買えた人々と買えなかった人々)
 サッチャーが、のちに「所有者社会」と呼ばれる政策を掲げ、イギリス版フリードマン主義を実行しようとした。
その要は公営住宅である。
サッチャーは国家は住宅市場に介入するべきではないという思想的根拠から、公営住宅に反対していた。
公営住宅の住民の大部分は、自分たちの経済的利益につながらないという理由で保守党には投票しない人たちだが、もしその人々を市場に参入させられれば、富の再分配に反対する裕福な人々の利害を理解するようになるはずだとサッチャーは確信していた。
そこでサッチャーは公営住宅の住民が、安い価格で住宅を購入できるような強力なインセンティブを提供した。
購入が可能な住民は持ち家を所有できるのに対し、購入できない住民はそれまでのほぼ二倍の家賃を払わなければならなくなった。
まさに分断統治政策そのもののやり方だったが、これは効果を上げた。
賃貸入居者はそれまでどおりサッチャー政権に反対し、イギリスの大都市では目に見える形でホームレスが増加した。
だが世論調査では、新たに住宅の所有者となった人々の半分以上が支持政党を保守党に変えたことが明らかになった。

凋落するサッチャー政権の支持率
 公営住宅売却は、民主主義国家における極右経済政策の成功へのかすかな望みをもたらしたものの、サッチャー政権が一期限りで終わりそうな気配はまだ濃厚だった。
一九七九年、サッチャーは「労働党は機能していない」というスローガンを掲げて政権の座に就いたが、一九八二年には失業者は倍増し、インフレ率もしかりだった。
サッチャーはイギリスでもっとも強力な労働組合のひとつである炭鉱労組と対決し、組合潰しにかかるが失敗に終わる。
首相就任から三年後、支持率は二五%にまで低下(ジョージ・H・W・プッシュ(父)が記録したもっとも低い支持率よりも低く、世論調査が始まって以降の歴代イギリス首相のなかでも最低の数字)、政権の支持率も一八%にまで落ちた。
総選挙が迫るなか、保守党が大衆民営化〔国民に広く所有権を分配する形の民営化〕と労働組合解体という野心的な目標を達成するのを待たずして、サッチャー主義は早々と不名誉な終わりを迎えるかに思われた。
サッチャーがハイエクに対し、チリ型の経済改革はイギリスでは「とうてい受け入れられない」と丁重に断りの手紙を書いたのは、この困難な状況のさなかのことだった。

フリードマン主義と民主主義は両立しないのか?
 サッチャー政権の悲惨な第一期目は、ニクソン政権が与えた教訓をさらに裏づけているように見えた。
すなわち、シカゴ学派の提唱する急進的で高い利益をもたらす政策は、民主主義体制下では生き延びられないということだ。
経済的なショック療法が成功するには、クーデターであれ、抑止的な政権による拷問であれ、何か別の種類のショックが必要なのは明らかに思われた。

イラン、ニカラグア、ペルー、ボリビアで・・・
 こうした見方は、とりわけアメリカの金融業界にとって憂慮すべきものだった。
というのも八〇年代初め、世界ではイラン、ニカラグア、ペルー、ボリビアなど独裁政権が次々と崩壊し、まだ多くの政権が後に続く様相を呈していたからだ。
のちに保守派の政治学者サミュエル・ハンティントンは、これを民主化の「第三の波」と名づける。
これは危惧すべき状況だった。
第二、第三のアジェンデが出現してポピュリズム的政策を打ち出し、人々の信任と支持を得ることを防ぐ手だてはあるのだろうか。

 アメリカ政府は一九七九年、イランとニカラグアでまさにそのシナリオが現実になるのを目の当たりにした。
イランではアメリカの支持を受けた国王が、左翼陣営とイスラム主義者の連合勢力によって打倒された。
最高指導者アヤトラ・ホメイニやアメリカ大使館人質事件などが報道を賑わせる一方、アメリカ政府は新政権の経済的側面にも懸念を募らせていた。
まだ本格的な独裁政権には移行していなかったイラン・イスラム政権は、まず銀行を国有化し、次には土地再分配計画を導入。また王制時代の自由貿易政策から逆転して輸出入の統制を行なった。
五カ月後、ニカラグアではアメリカを後ろ柄にしたアナスタシオ・ソモサ・ドバイレ独裁政権が市民の蜂起によって倒れ、サンディニスタ民族解放戦線による左派政権が誕生した。
サンディニスタ政権はイランと同様、輸入を統制し、銀行を国有化した。

暗雲たちこめるグローバリズム
 これらの動きはすべて、グローバル自由市場への見通しを暗くするものだった。
八〇年代初頭、フリードマン主義者は自分たちの進めてきた革命が一〇年も経たずして、新たなポピュリズムの波に押されて頓挫するという状況に直面していた。
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