2013年3月4日月曜日

寛仁3年(1019)4月 刀伊の入寇Ⅱ.筑紫国志摩郡など襲撃。大宰権帥藤原隆家ら奮戦してこれを撃退。被害は甚大。

北の丸公園 サンシュユ 2013-03-04
*
寛仁3年(1019)
4月4日
・放火・強盗
4日夜、大炊御門富小路の辺が火災。
5日夕刻、実資邸の北隣りの藤原佐光の家で、廊の上に火が投げ上げてあるのを発見、下人が打ち消した。
同夜、土御門大路の北側が焼ける。これらはみな盗賊のしわざとの風評がもっぱらであった。
10日夜、内裏後凉殿(こうろうでん)の北側で、主殿司(とのもつかさ)の女が盗人に刀を頸筋に当てておどされ、衣裳を全部剥がれた。
12日夜、内裏襲芳舎(しほうしゃ)などに放火があり、藤原隆家邸の近隣でも放火が発見された。隆家邸では、夜間は屋根に警備の者を上げて警戒しているという。

このような連日の放火は、放免(検非違使の最下級の手先、獄を出て来た前科者を使う習わし)の仕業だという評判が立った。
さすがにこう物騒では何とかしなければという声が出たが、摂政頼通からは指図もなく、実資・公任・俊賢などの大納言連中が道長の病気見舞に集まったおりに意見具申をしたことなどもあって、結局、京の町の条々に警備小屋を作ること、検非違使が夜間巡回すること、内裏の放火犯人を捕えれば衛門尉に任ずるという懸賞を滝口に出すこと、などが実行された。
この後、多少は効き目があったか、5月に中務省に小火があった程度で、連日の放火・強盗はなくなった。
しかし、8月には抜刀者2人が内裏に駆け込む事件や、馬寮の2人が殺害され、その報復として馬寮の連中が加害者の妻を監禁し、その家を叩き壊すという事件も起こっていて、依然として治安状況は悪い。
*
4月7日
・異族の猛威
4月7日の賊襲には、急派された兵士と現地志麻郡の住人文室忠光らが協力して防戦し、敵数十人を倒して撃退。
翌8日、賊船は那珂郡能古島に現われ陣を構えた。
大宰府は前少監大蔵種材・平朝臣為賢などの豪族や府官連中を博多の警固所に派遣して、防禦に当たらせた。
この日、大宰権帥藤原隆家が出した解文には、隆家自ら軍を率いて警固所に到って合戦すべしと報告している。

9日朝、賊船は博多の警固所に襲来してこれを焼こうとした。当然、激しい合戦がおこなわれたが、賊はついに進み得ず、船に退いた。
合戦の間、賊船に捕えられていた壱岐・対馬の住人たちは、
「馬を馳(はせ)かけて射よ、おく病しにたり」
と叫んだ。これを聞いたわが方の兵が進んで矢を放ち、賊は船に逃げ帰ったが、その間に多くの首が賊船から逃げて博多に上がったという。
賊の放つ矢は1尺ばかりの短いものであったが、非常に強力で、楯を貫いて人を殺傷した。
しかし、日本の鏑矢が、音を発して飛来するのには恐れをなした様子(『小右記』。

賊は、一旦船に引き上げて沿岸ぞいに進んだが、こちらには兵船がなく、陸づたいにこれを追った。
賊は再び上陸して筥崎宮を焼こうとしたが撃退され、また能古島に引き上げた。

10日と11日は、北風が激しく海は荒れ戦闘は中絶。その間に大宰府は急いで兵船38隻を調達した。
11日、賊船は志麻郡の船越津に現われ、12日午後に上陸したが、既に精兵が派遣されて待ち受けており、賊は40人を損じて退去した。
大宰少弐平致行(むねゆき)や大蔵種材らは、博多から兵船に乗ってこれを迫ったが、賊は翌13日、肥前松浦郡を掠め、前肥前介源知(みなもとのさとし)の指揮する兵と戦って数十人の損害を出して退散し、そのまま行方を失った。
こうして4月7日に、大宰府が賊襲来の報を受けてから1週間にして、賊船は日本近海から姿を消した。

刀伊を追撃する際に、大宰権帥藤原隆家は、「日本の境を限りて襲撃すべし。新羅(実は高麗)の境に入るべからず」と指示している(国境が意識されている)。

しかし、被害は甚大であった。殺害とさらわれた人と合わせて、志摩郡574人、早良郡64人、怡土郡265人、能古島9人、壱岐島387人(残ったのは僅か35人)、対馬は計382人で、これらの男女別と子どもの内訳、牛馬の犠牲380頭、焼失家屋数45軒などの被害統計が2ヶ月後の6月29日に中央に報告されている。

■刀伊の正体
大宰府の報告は最初から刀伊の賊と報じているが、これはおそらく高麗人の言葉をそのまま用いたもので、正体を知っていなかったと思われる。
その行動範囲から考えれば、当然、北方から来たものに相違なく、とすれば、10世紀の初頭、新羅を滅ぼして朝鮮半島を統一した高麗が第一に考えつかれるわけで、朝廷でもまずこのことを思ったであろう。
しかし、高麗ならば、正規の国交が開かれているわけではないにしても多少の交渉もあって、事情もだいたい見当がつくが、どうも今度の賊はその荒れかた、風俗からして、様子がおかしい。彼らは好んで牛馬を多食し、馬を走らせ、捕えた子供を簀(す)巻きにして博多津に落としたり、人を食うという噂まであって、いかにも蛮夷の風がある。
この戦いで捕虜とした3名はいずれも高麗人で、かれらは高麗を襲った刀伊に捕えられていたのだと申し立てたが、朝廷も、太宰府も半信半疑の状態であった。賊が高麗人ではないということが明瞭になったのは、7月に対馬判官代長岑諸近(ながみねのもろちか)が高麗から帰って事情を報じ、さらに9月には、高麗が刀伊を撃破して救助した日本人男女200余人を、使いを出して送還して来てからである。

刀伊いうのは朝鮮語で蛮夷を意味し、高麗ではもっぱら北方に境を接する女真を呼ぶに用いていた。女真は東部満洲のツングース系の民族で、狩猟・牧畜などを業としていたが、海岸地帯の女真族は、この頃、しばしば船を連ねて高麗を掠奪している。日本に来襲したものも、まず高麗を襲い、ついで鉾先を転じて壱岐・対馬から北九州に向かって来た一隊であった。
この間の事情を第一番に報告したのが長峯諸近である。
*
*

0 件のコメント: