2013年3月2日土曜日

ナオミ・クライン『ショック・ドクトリン』を読む(62) 「第5章 まったく無関係 - 罪を逃れたイデオローグたち -」(その2)

行方不明者の母たちが白いスカーフ姿で無言の行進を続け抗議した、
ブエノスアイレスにある大統領宮殿前の5月広場。
軍政終結後、母たちの功績をたたえ地面には白いスカーフが描かれた
【地球人間模様】@アルゼンチン「『5月広場』の女性たち」より借用(↓)
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「人権」という目隠し
人権運動は軍事政権の背後にある経済政策と思想にまで踏み込めなかった
 学問の世界にこうした防火壁が築かれたのは、ただ単にシカゴ学派の経済学者が自分たちの政策とテロとの間の関係を認めようとしなかったからだけではない。
そこには、そうしたテロ行為を明確な政治的・経済的目的を達成するための手段としてではなく、狭い意味での「人権侵害」としてしか捉えない見方が関与していた。
その理由の一つに、七〇年代の南米南部地域が単なる新しい経済モデルの実験室だっただけでなく、国際人権運動という比較的新しい活動モデルの実験室でもあったことが挙げられる。
この運動が、軍事政権による最悪の人権侵害を終わらせることに決定的な役割を果たしたことは疑いない。
しかし人権運動が人道に反する罪そのものは問題にしても、その背後にある原因までは踏み込まなかった結果、シカゴ学派のイデオロギーが最初の流血の実験室からほぼ無傷で逃げ出すのを許してしまった。

人権運動が始まったときからのジレンマ:東西冷戦と中立性
 このジレンマは一九四八年、国連総会での世界人権宣言採択によって今日の人権連動が始まったときにまで遡る。
宣言が採択されるや否や、冷戦の両陣営はともにこれを盾にして、相手がヒトラーにも匹敵する極悪非道な所業に手を染めていると非難した。
一九六七年、旧ソ連の人権弾圧批判において卓越した役割を果たしてきた国際法律家委員会が実際は中立的な組織ではなく、CIAから秘密裏に資金を受けていたことが新聞報道によって暴かれた。

不偏不党のアムネスティ
 アムネスティ・インターナショナルが厳正な中立性を掲げることになったのには、こうした背景があった。
アムネスティの資金はすべて会員からの寄付によっており、「いかなる政府、政治的党派、思想、経済的利害あるいは宗教的信条にもとらわれない」不偏不党の立場を貫くとしている。
人権問題を特定の政治的目的のために利用していないことを証明するため、アムネスティの各支部は西側、東側、第三世界出身の三人の「良心の囚人」〔アムネスティ・インターナショナルの用語で、言論や思想を理由に不当に逮捕された人を指す〕を同時に認定することを決めた。
人権侵害はそれ自体普遍的な悪であり、したがって必要なのはなぜ侵害が行なわれているかを明らかにすることではなく、侵害の実態を可能な限り詳細かつ正確に記録することだ - というのがアムネスティの立場であり、それは当時の人権運動全体を象徴するものだった。

貴重なアムネスティの調査記録とその限界
 南米南部地域の国家テロに対しても、この原則は貫かれた。
秘密警察が常時監視やいやがらせをするなか、人権擁護団体はアルゼンチン、ウルグアイ、チリの各国に代表を送って拷問の犠牲者やその家族数百人にインタビューを行ない、可能な限り拘留施設にも足を運んだ。
独立系メディアは禁止されており、軍事政権は自らの犯罪を否定していたから、これらの証言は決して書かれなかったはずの歴史を記録する主要な資料となった。
だが重要だったとはいえ、そこには限界もあった。
これらの記録は胸の悪くなるような弾圧の手段を、国連宣言に対する違反として法律的観点から列挙するものにすぎなかったのである。

アムネスティのアルゼンチンに関する報告書の場合
 この視野の狭さがとりわけ大きな問題となったのが、一九七六年にアムネスティ・インターナショナルが発表したアルゼンチンに関する報告書だ。
同国の軍事政権が行なった残虐行為に関する画期的な、ノーベル賞受賞にも値するこのレポートには、その徹底した内容にもかかわらず、なぜそうした行為が行なわれたのかについての考察がいっさい含まれていない。
報告書は、アルゼンチン軍事政権が「汚い戦争」を行なった公式の理由である「治安」の確保のために「どの程度の侵害行為が説明がつく範囲内、あるいは必要なのか」と問いかけ、証拠を検討したのち、左翼ゲリラの脅威は同国が行なった弾圧のレベルにはとうてい見合うものではないと結論している。

国家的暴力の背後にある政策には全く言及されていない
「たとえ表面的にでも考察されていれば、なぜこれほど桁外れの弾圧が必要だったのか、そしてアムネスティが「良心の囚人」と呼ぶ人々の多くが非暴力的な組合活動家やソーシャルワーカーであるのか、その理由が明らかになったはずである。」
 がそれ以外に、国家暴力を「説明がつく範囲内あるいは必要」にした理由はないのか?
アムネスティの報告書はこれについてまったく言及していない。
それどころか九二ページに及ぶ報告書には、軍事政権が急進的な資本主義路線を取ることで国の再編成を進めていることは書かれていないし、深刻化する貧困や富の再分配プログラムの破棄についても、軍政の中心的政策であったにもかかわらずいっさい触れられてない。
報告書は市民的自由を侵害する法律や命令のすべてを入念に列挙しているのに対し、賃金を引き下げ物価を上昇させ、その結果、食と住の権利(これも国連宣言に盛り込まれている)を侵害した経済に関わる法令については、まったく言及していない。
もし軍事政権の革新的な経済プロジェクトがたとえ表面的にでも考察されていれば、なぜこれほど桁外れの弾圧が必要だったのか、そしてアムネスティが「良心の囚人」と呼ぶ人々の多くが非暴力的な組合活動家やソーシャルワーカーであるのか、その理由が明らかになったはずである。

アムネスティ報告書のもう一つの大きな欠陥
アメリカ政府、CIA、国内の地主、多国籍企業などの一切が取り上げられていない
 アムネスティの報告書のもうひとつの大きな欠陥は、問題をアルゼンチン一国の軍と左翼過激派との対立に限定し、他のプレーヤーはアメリカ政府やCIAであれ、国内の地主や多国籍企業であれ、いっさい取り上げられていないという点だ。
しかし、ラテンアメリカ全体に「純粋な」資本主義を根づかせようという壮大なプロジェクトと、その背後にうごめく強力な利害関係を検証することなしには、この報告書に記録されている残虐行為の意味を読み解くことはできない。
それらの行為は単なる行き当たりばったりの、政治的空間に方向性もなく漂う悪事にしか見えず、良心ある人々にとって非難の対象にはなっても、その意味を真に理解することは不可能である。

五月広場の母親たち」
 人権擁護運動とはすべての側面において ー 理由は異なるが - きわめて限定的な状況のもとで機能している。
人権侵害が行なわれている国の内部で最初に抗議の声を上げるのは犠牲者の家族や友人だが、彼らが口にできることには大きな限界があった。
愛する人が行方不明になったことの背後にある政治的・経済的な問題について話せば、自分もまた行方不明になる危険を冒すことになるからだ。
こうした危険な状況のなかで抗議行動を行なったもっとも有名なグループは「五月広場の母親たち」だった。
母親たちは毎週、ブエノスアイレスの政府庁舎前で、抗議のプラカードの代わりに行方不明になった子どもたちの写真を、「彼らはどこにいるのですか?(ドンデ・エスタン)」という文字とともに掲げてデモを行なった。
シュプレヒコールを上げる代わりに、彼女たちは子どもの名前を刺繍した白いスカーフをかぶり、静かに円を描いて歩いた。強い政治的信念を持つ母親も少なくなかったが、彼女たちは軍事政権に対して脅威にならないよう、あくまで悲しみに沈む母親として、なんの罪もないわが子がどこに消えたのかを知ろうと懸命になっている母親として行動した。

*軍政終結後、母親たちはアルゼンチンの新経済秩序に対して手厳しい批判を行なうようになり、糾弾は今日も続ている。

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ご参考 ↓
【地球人間模様】@アルゼンチン「『5月広場』の女性たち」

「五月広場の母たち」、1499回目の抗議活動 - アルゼンチン

ブエノスアイレス、五月広場の母たちが組織されて30周年


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