北の丸公園 2014-12-19 ナンテン
*1786年(天明6年)
この年(その2)
・近世初期以来永く続いた近江商人団による松前交易・流通独占体制が、宝暦前期以降急速に崩壊。宝暦8年には約30名を数えた近江商人は、28年後のこの年には11名に減少。
主な原因
①江戸系商人の進出・成長、
②江戸系商人が、蝦夷地の広大な良漁場を請負い、産物を自営船を利用して出荷し始めたこと、
③近江商人の支配地が主に西蝦夷地ないしは近場所であり、また前貸制による零細漁民からの買取に重点をおく経営方式であるという中で、この期の松前・江差地方の鰊の不漁が、近江商人の経済的基盤に大きな打撃を与えたこと、など。
宝暦・天明期に活発な活動を開始する主な商人は、能登の村山伝兵衛、紀州の栖原角兵衛、陸奥の伊達林右衛門、飛騨の飛騨屋武川久兵衛などで、村山伝兵衛を除き、全て渡道以前に江戸を足場に活躍した経歴を持つ商人で、栖原・伊達は松前に進出後も江戸に店を持っている。このように宝暦・天明期には、新興商人の成長と近江商人の流通独占体制崩壊により、松前~大坂、松前~江戸間交易の発達を促し、新たな流通機構が形成される。これら大手商人の大部分は松前に出店を設け、場所産物の多くは松前に直送され、松前が蝦夷地産物の集荷地であった。
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・北前船の出現。
流通構造変化が海運に変化もたらす(荷所船衆が従来の賃積船経営から買積船経営へと経営を転換)。
これ迄の松前交易は、近江商人の手船或いは共同雇用船団である荷所船が主体であったが、荷所船が急激に減少し、旧荷所船衆が従来の賃積船経営から買積船経営へと経営を転換してゆく。
この頃から北前船主として成長する西野兵助、田中伊兵衛、小餅屋治郎兵衛、町野清兵衛、田中市左衛門、住屋清左衛門、田野中与助、酒屋新左衛門、桶屋又七、瀬戸屋弥兵衛、酒屋長吉、酒屋宗吉、右近権左衛門、出店勘助といった加賀橋立、越前河野、敦賀等の船主達は、全てかつては荷所船仲間であった人達。
買積船としての北前船は、これまでの荷所船とは異なり、船頭の意志で売買するため取引上有利な市場へ回漕する。
従って従来は、近江商人の拠点の江差・松前にしか入港しなかったものが、箱館へも次第に入港することになる。
特に、この頃以来、東北地方からの移住民も増加し、箱館六箇場所の水産生産高も上昇し、生産用具・生活必需物資需要も増大し、箱館港を介する商品流通は発展してゆく。
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・安永9年(1780)に深川六万坪辺に無宿養育所が設けられて、浮浪者の宿泊・授産が行なわれたが、この年閉鎖。
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・安永9年(1780)、江戸や大坂の商人資本を導入して、利根川水系の下総国印旛沼や手賀沼を干拓し、新田開発を企てたが、普請の途中で洪水にあい中断したのち再開が試みられたが、この年、最終的に断念するに至る。
手賀沼開発について田沼は「国益」と村方の「御救」を開発の理由としている。
辻善之助『田沼時代』(段落、改行を施す)
「下総の印旛沼および手賀沼開墾の事業、この事業は夙(はや)くは八代将軍の享保九(一七二四)年の頃から計画せられたものであって、同年の八月十九日に下総千葉郡平戸村の渡右南門らが相謀って、印旛沼を開墾して新田を起さん事を幕府に上申した。その時幕府から役人をやって実地を検分せしめた事がある。
その計画が段々熟して来て、安永の九(一七八〇)年になって、印旛郡の総深(そうふけ)新田の名主平左衛門、島田村の名主次郎兵衛が連署して、印旛沼開墾の目論見書を幕府へ進達した。
それはかねて幕府が平戸村から検見川の海面までを掘開いて、そうして印旛沼の水を海に放し、新田を起し、併せて運輸の便を開こうという事を計画して、その目論見を平左衛門らに命じて調べさしたのがこの時になって進達せられたのである。
そうしてその費用の資本は大坂の豪商天王寺屋藤八郎、江戸浅草の長谷川新五郎という者をして出資せしめ、成功の後は地元の人民が新開地の二分を取って八分は金主の方に渡してそうして工費を償却しようという考であった。
大体の見積高は二通りになっておって、三万両でやろうという計画が一つと、六万両でやろうという計画と、両方出したのである。
一年置いて天明二(一七八二)年になって幕府は勘定方の役人を遣わして手賀沼・印旛沼開墾のため実地の検分をせしめた。その頃の勘定奉行松本伊豆守秀持、それから赤井越前守忠晶(ただあきら)の二人は主としてこの開墾の計画に与ったと見える。
それから段々計画が進んで行って、天明の五(一七八五)年にはさらにまた勘定方が出張して手賀沼・印旛沼の工事の監督に及んだ。そうして段々その工事を実施する事になった。
六年の二月にも、また、勘定方を派出して工事を督励した。しかるに六月から七月に亙って、武蔵、下総、上野、下野の諸国に大に雨降って、諸方の邱(おか)など崩れるもの数ヵ所、利根川には水が漲って、堤防を越えること十数尺、それが数十カ所切れて下総の関宿が最も激しい水害を被った、
この時が前にも言った通り、江戸においても甚だしい水害を受けたので、新大橋、永代橋なども流れ、男女の溺死する者算なしという有様であった。
この時に印旛沼の工事は、既に平戸から検見川まで運河が開いてあって、その土を以て堤防を築きその流口には堰を作っていたのであったが利根川の洪水のために、土手がすっかり毀われてしまって、一面の海になり、折角の工事が滅茶苦茶になってしまった。
かかるところに田沼が職を罷められて、享保以来の大計画がここに止ってしまった。
この印旛沼の開墾が出来上れば、当時はもちろん後世に及ぼす利益もよほど大きなものであったろうと思われる。」
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・ゲーテ(37)、政治への献身も理想通りにならずいかず行き詰り、シュタイン夫人との愛情も堪えがたく、誰にも告げずイタリアへ旅立つ。
ヴェローナ、ヴィンチェンツァ、パドゥア、ヴェネチア、フィレンツェなどを経てローマ入り。その間、イタリア・ルネサンスの芸術に圧倒される。画家ティシュパイン、画家マイヤー、実学者モーリッツ、彫刻家トリッペルなどの芸術家と交わる。
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・フランス、本屋で日記作者のセバステアン・アルディは、大工、蹄鉄工、錠前師、パン屋、石工を含む広汎な運動を報告している。
同年、荷物運搬人と運搬人は、宮廷の寵臣が設立した競争相手の独占組合に抗議しストライキ。
ヴェルサイユへ行進し国王に請願、民衆の同情も呼ぶ。
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・「スロバキア職人協会」設立。
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・フィリピン、酒類の専売制度始まる。
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