2014年12月18日木曜日

堀田善衛『ゴヤ』(53)「スペイン・光と影」(2終) 「人々は光に酔い、影に酔い、血に酔っていた。・・・人間は狂妄を希求するものなのであろうか」

千鳥ヶ淵交差点 2014-12-15
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「ゴヤの別種の仕事」としての肖像画
 「われわれが彼の画集をめくっていても、また美術館をうろついているならばなおのこと、あまり気付かない種類の人々の肖像画・・・。・・・絵とその下につけられた人名とを見ても、これが誰やらさっぱりわからない人々・・・。・・・肩書きや爵位などのない人々の肖像・・。
・・・、ゴヤは何かの事件が起ると、素早く、という表現を使いたくなるほどに、その関係者の肖像を描いている。・・・」

 「アカデミイに入れてもらうと、アカデミイ内外の美術行政の専門家たちの肖像画を描きはじめる」
「そういう肖像のうちの一枚が、セアン・ベルムーデス像である。
この人は、ホベリァーノスと幼年時代から友人であって、しかもホベリァーノス同様にほとんど万能の大知識人であり、財政家であり、大旅行者であり、美術学者でもあった。アカデミイ発行の有名なスペイン美術大辞典はこの人の労作であった。
もう一枚。
それ巧ハレンシアにあるもので、マリア・フェレール像である。この人はバレンシアの王立サン・カルロス・アカデミイの秘書役についている人であった。やはり美術行政の専門家である。
この絵については、

バレンシアでは、僕の友人たちの一人(の肖像画)を見落さないでくれ。君は書ぶと思う。彼はとてもいい坊やだ。

と親友マルティンに書き送っているが、いい坊やもあったものではない。フェレールはれっきとしたバレンシア・アカデミイの管理者なのである。」

郷党の大物の肖像
 「・・・郷党の大物の肖像も手がける。その代表的なものは、ラモン・デ・ピニャテルリ像である。この人は、フエンデトードス村の領主フエンテス伯爵の子息で、はじめはローマで司祭職を学んだ人であったが、サラゴーサへ帰ってからは、サラゴーサ大学の学長をつとめながら、大実業家となり、アラゴンの帝国運河の建設者である。この運河を背景とした堂々たる風格の長身の肖像は、この運河完成記念に依嘱されたものであった。現存のものは、コピーで、ゴヤの手になるものは半身像だけである。
彼はこのほかにも、アサーラ、ゴイコエチェア、ガラルサなどの郷党の有力者を描いている。」

ゴヤはバスク系の血を引く人である(Zの入った名をもつ人々)
 「AZARA、GOICOECHEA、GALARZA それから彼の親友の ZAPATER また晩年にいたってゴヤと同棲し、この老人の一大負担ともなる LEOCADIOA ZORILLA などの名に多く見えるZというローマ字について、である。
このZの入った名をもつ人々は、多くバスクの血を引く人々であった。
ゴヤ自身、その父方の先祖がスペイン北方のバスク系の人々であり、 GOYA という、スペイン人としても不思議な名前は、これがバスク人のなかに見出される名であった。そうしてゴイコエチェアという名も、おそらくはどこかでゴヤという名と、長い歴史のどのあたりかで両者交錯したことがあったものと推定される。さらに、バスク人及び北方スペイン人たちが、現在でも GOYA を”ゴヤ”と発音せず、”ゴシャ”あるいは”ゴジャ”というに近い発音をするところから考えて行ってみると、ここでも歴史のどのあたりかで GOYA は GOZA であった可能性もなくはないと推定される。もともと本来のバスク語には書き文字がなかったのであるから。
近頃、アラゴンの歴史家アドルフォ・ヘンソールなる人によって、ゴヤの父方の家系は八代前まで辿られたが、この父方にはバスクの血が濃くのこっている。この八代のうち、二代だけが非バスク人を妻にもらっているものであった。」

バスク人は独立不羈の民
 「バスクの人々の起源は、あまり明らかではない。”アダムはバスク語を喋っていた”という言い方があるほどに、半島の住民としては最古の民族のようである。そうしてバスク語は、”悪魔が七年間ビルバオで勉強をしたが、たった三語しか覚えられなかった”と言われるほどに、また”奴等はソロモンと書いてネブカドネザールと発音する”と言われるほどにも、外部の人間にとっては世界でもっとも習うに難いことばと言われている。悪魔が七年間云々とかソロモンと書いてネプカドネザールというのは、あらゆる単語が場合に応じて千変万化の語形変化をすることを意味するらしい。タタール語が起源であり、これにサンスクリットと蒙古語が加わったもの、と言う学者もあるようである。
とにかく、バスク人は、原始イベロ族やアラブ人などの北アフリカ・地中海起源のものではなくて、東方起源のものであり、イベロ・スペイン人よりもむしろアイルランド人、ウェルシュ人などに近いようである。貧窮にたえかねて北方の山地から、エプロ河つたいに次第に彼らは南下して行ったものである。
彼らは不羈独立の民であって、バスク独立運動は現在も根強くつづけられ、・・・。」

ゴヤはスペインの代表的画家たちの中に初めて北方の血を注入した人である
 「ゴヤは、それまでのスペインの代表的画家たちがほとんど例外なくアンダルシーア、バレンシア、カスティーリア出身者であったところへ、はじめて北方の血を注入した人であった。この幽暗な血と、遥かに遠い祖先から受け継がれて来た、彼の魂と肉体の最奥の暗所に蟠踞しているものは、いつの日か彼の画面にせり上って来るであろう。」

次に来るものは、町や村の餓鬼ども群像の連作
 「次に来るものは、・・・町や村の餓鬼ども群像の連作である。
子供の学校、戦争ごっこをする餓鬼ども、窓から投げられた栗を拾おうとして喧嘩をする餓鬼ども、シーソー遊びをしようとして喧嘩をする餓鬼ども、田舎で馬乗り遊びをする餓鬼ども、廃城で鳥の巣さがしをする餓鬼ども、闘牛遊びをする餓鬼ども。
この七枚である。・・・
これらは、すべてひどく小さい絵で、全部二九センチに四一センチ、つまりは六号ほどのものである。おそらくタピスリーのカルトンの、そのまた試作といったものであったろうが、同じ画題のものが何枚もあるところから察するに、その試作がひどく人々に喜ばれたため、シリーズにして売り出したものであろう。あるいはやがて銅版画にするためのものであったかもしれない。
・・・
闘牛遊びで面白いのは、牛の役の子供が、柳行李様のものに角を生やしたものをかぶり、これを、すでに頭を剃った小坊主が棒をもって狙いを定め、槍使いは馬のかわりに子供の背中におんぶをしているところなどである。餓鬼どもはどれもこれも半分がたはポロといっていいほどのものをまとい、ハダシの子もいる。
これらは、そっくりそのまま村での、サラゴーサでの、またマドリードでの街頭風景であった。」"
"人は、おのが心の底からして、人間とは何か、と自らに問わざるをえなくなる
「人生の楽しさが、元気に喧嘩をする餓鬼どもにこもって、大人の喧嘩である戦争の悲惨とまことに痛切な対比を見せるのである。
相共に戦う人間の表象である、これらの餓鬼どもの喧嘩姿と、後年の『戦争の惨禍』とを対比してみるとき、人は、おのが心の底からして、人間とは何か、と自らに問わざるをえなくなるのである。」

餓鬼ども賛歌の次の楽しみは、言わずと知れた闘牛である
 「・・・闘牛をテーマとして、餓鬼どもシリーズと同じく、小さな(いずれも四三センチに三一センチ)、七枚の連作画を鉄葉、つまりはブリキ板の上に油で描いている。このシリーズではじめて正式の闘牛場裡が描かれ、従って小さな画面に大変な数の観衆、つまりは大群衆を描かねばならぬ羽目となり、そのさばき方は、大体『聖イシードロの牧場』の場合と同様である。
この七枚は、町中へ牛を放してそれをつかまえる『牛をつかまえる』、田舎での急ごしらえの闘牛場での『短い飾り槍によるキメ』 - ここでキメと私が訳した原語は(Suetre)であり、このことばは第一義的には運命、宿命、幸運、定命などの意であり、・・・。
それから『闘牛場からの退場』、『ケープさばき』、『槍師、牛の角に突き刺される』、『死のキメ(運命)』、『牛、闘牛場から引かれて出て行く』。以上の、この七枚である。」

闘牛士たちは、いわば暴勇を振って人気を得ようとした
 「一八世紀には、・・・ようやく専門の闘牛場が出来たばかりの時であったので、今日のようにいろいろとルールがきまっていたわけではなく、闘牛士たちは、いわば暴勇を振って人気を得ようとした。
それに、槍師の馬にも、今日のそれのように、牛の角を避けるための、防讃用具などもつけていなかった。従って一回闘牛をやると、一頭あるいは二頭以上の馬が大抵は犠牲になったものであった。・・・
闘牛士の犠牲もはるかに多かった。著名な闘牛士たちも、大抵は、いつの日か牛に殺されていた。・・・
しかも昂奮して飛び込んできた見物が犠牲になった例も少くない。何しろルールもさだかではないところへもって来て、闘牛場へ同時に何頭もの牛を追い込んで、あちらこちらでその〝宿命的なキメ〞をやるのであるから、うしろからやられる例もあったわけである。
また著名な貴族の夫人や女優を馬車に乗せて入場させ、馬車からキメをやるなどという阿呆らしいことをやらかし、牛が馬車に突進してひっくりかえされ、貴族の夫人は命からがら逃げ出した、などというバカバカしい事件をも起したものである。餓鬼どもまでが飛び込んで来る。」

闘牛での、人と牛との生命のかかった決定的瞬間をとらえるについての、彼の眼と手のたしかさは、それはカメラ以上にカメラ的である
「しかしこれらの闘牛のシーンを描いた油絵、さらには二〇年後の銅版画集などを見ていると、そこに浮び上って来るものは、後日の、写真によって手垢だらけのものにされてしまった〝決定的瞬間〞ということばである。
闘牛での、人と牛との生命のかかった決定的瞬間をとらえるについての、彼の眼と手のたしかさは、それはカメラ以上にカメラ的である。肖像画家としてのゴヤを、ゴヤは写真屋を開業した、と言ったのはサン・ポーリアン氏であったが、写真屋はむしろ闘牛に関してこそリアリティーのあることばであった。」

人々は光に酔い、影に酔い、血に酔っていた。・・・人間は狂妄を希求するものなのであろうか
「・・・これら七枚の絵に見られる観客の扱いも、『聖イシードロの牧場』の場合同様、荒いタッチによる細密画であり、マドリードの強烈な日射しによってその光の部分と影の部分が、強烈な対比を示す。・・・
・・・これらの絵でも、影の部分にいる観衆、特に女性の方がきらびやかな衣裳をまとっていることまでが、この荒いタッチによる細密画においてさえうかがわれる。
人々は光に酔い、影に酔い、血に酔っていた。この酔い、陶酔のことを考えていると、私は自然と、もう一つの、東の辺境に暮していた人々の、ウオツカによる酔いを思い起す。彼らもまた死ぬほどに酔っていた。酔ってトロイカを駈り、吹雪のなかに消えて行った人々に、ロシア文学は事欠きはしない。……
人間は狂妄を希求するものなのであろうか。
これもまた人間における光と影なのであろうか。」

画家たちは、夜も寝ずに働きつづけなければならない
 「さてしかし、・・・王カルロス四世と王妃マリア・ルイーサの即位、戴冠の式典が行われる日が近づいて来る。
・・・
新王と新王妃の肖像画を描いてほしいという注文が、大貴族や種々の政府機関、銀行、アカデミイなど、全国から殺到して来る・・・。それに街路や広場、宮殿、邸館等の飾りつけのデザインまでをしなければならぬ。画家たちは、夜も寝ずに働きつづけなければならない‥ゴヤは一日に一〇時間も働きつづける。
徹夜、徹夜である。」
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