横浜 みなとみらい 2016-07-06
*(その10)より
1996(平8)70歳
7月、増補版『茨木のり子』花神社から刊行
9月、詩画集『汲む』(宇野亜喜良・画)ザイロから刊行
1998(平10)72歳
12月、『二十歳のころ』(立花隆インタビュー集)新潮社から刊行
1999(平11)73歳
2月、『櫂』で見られる茨木作品の最後の作品、「笑う能力」(第33号)
4月、詩人評伝『獏さんがゆく』童話屋から刊行
10月、第八詩集『倚りかからず』筑摩書房から刊行
(収録作品)
倚りかからず
ある一行
■『倚りかからず』あとがき
ある日、内蒙古からの航空便が届いた。
Hという日本の青年からのもので、「植林のボランティアのため、内蒙古に一年滞在、こちらで読むために、あなたの詩集を一冊持ってきたのです。」
と書かれていた。もちろん未知の青年で、推定年齢二十五歳。
簡潔だが情感のこもったいい手紙だった。
こういう若者もいるのだと知って、びっくりもし、モンゴルの全方位のもと、天空にひろがる満天の星々も想像されたのである。
三十年来の友人 - 編集部の中川美智子さんから、新しい詩集を編むことを強くすすめられながら、なかなか決心がつかずにいたのだが、内蒙古からの一通の手紙がきっかけで、ふっと八番目の詩集を出そうかという気になった。〈今、詩を書くというのは、どういうことか?〉と、みずからに問い続けざるを得ない歳月だったからである。
「あのひとの棲む国」「鄙ぶりの唄」「笑う能力」の三篇は、同人詩誌「擢」に出したものだが、ほかの十二篇は未発表のもの。
(略)
『朝日新聞』天声人語に取り上げられ、ベストセラーとなる。
2007年には筑摩書房より文庫化される。
《ここ数日、一冊の本を前に、ぼうぜんとしている。ただ、圧倒されているのだ。茨木のり子さんが七年ぶりに出した詩集『倚りかからず』(筑摩書房)である
▼もはや/できあいの思想には倚りかかりたくない/もはや/できあいの宗教には倚りかかりたくない/もはや/できあいの学問には倚りかかりたくない/もはや/いかなる権威にも倚りかかりたくはない/ながく生きて/心底学んだのはそれぐらい/じぶんの耳目/じぶんの二本足のみで立っていて/なに不都合のことやある/倚りかかるとすれば/それは/椅子の背もたれだけ
▼これが、本のタイトルにもなっている「倚りかからず」である。精神の背骨が、ぴんと伸びている。日本語が、みごとに結晶化している。むずかしいことばは、一つもない。だから、よくわかる。わかるから、圧倒される
▼茨木さんは、いま七十三歳。自分がかりにそこまで生きられたとして、「倚りかからない」ことを心底学べるだろうか。「なに不都合のことやある」と言い切れるか。「できあいの」思想や宗教や学問の背もたれに、相変わらず倚りかかっているのではなかろうか。どうしても、そんな思いにさせられる
▼実は、勇を鼓して茨木さんを訪ね、話をうかがった。「外国の詩人が、詩とは思想を果物のように食べさせるものだ、と言いました。詩には、思索の美しさ、ものを考えることの美しきがあると思います。でも、日本の詩歌の歴史には、それが欠落していたと思うんです。それを埋めたいという感じが、生意気なんですが、ずっとありました」
▼穏やかな口調だけれど、語る内容は激しい。詩集に盛られた作品は十五編。決して叫ぶことなどなく、とても静かに、読む者の心をつかみ、えぐる。6Bか4Bの鉛筆で、茨木さんは詩を書く。柔らかな鉛筆から、とびきり硬質の結晶が生まれる》(「天声人語」朝日新聞、一九九九年十月十六日)
書き手は、この四年前から「天声人語」を担当していた栗田亘。社会部出身の記者である。・・・栗田は、歯に衣着せぬ物言いのコラムが多く、「よく物議をかもした書き手」であった。
天声人語の反響は大きかった。この日から書店での売れ行きが格段にアップし、中川の机には読者カードが積み上がった。栗田のもとにも数多くの手紙や葉書が寄せられた。栗田はこのコラム欄を六年近く担当したが、反響の大きさということでいえば「ベストスリー」に入る。ただ、コラムの効用を過剰に見ることには否定的である。
「本の売れ行きに多少、手は添えたかもしれないけれども、結局は茨木さんの言葉の力であって、もともと読まれる要素をもっていた。売れるべくして売れた本だと思います。だって天声人語で触れてみても反響のない本もたくさんありますから」
<人格的><向日的>であることが、茨木作品に通底する音色だった。それは天賦のものであると同時に、そうであろうとする意志力によって自身を磨いた結果であると私は思う。そのことは、『倚りかからず』 にある「苦しみの日々 哀しみの日々」などに接するとき、感じ取れるのである。
(『清冽』)
11月、詩人評伝『個人のたたかい - 金子光晴の詩と真実』童話屋から刊行
■『個人のたたかい - 金子光晴の詩と真実』抜粋
みながみな、よっばらっているようなとき、
「たったひとりさめているぞ。視ているぞ。」
という自負の心もありました。
詩人たちもなだれをうつように文学報国会にはいって、高村光太郎はおろか、プロレタリア詩人と目された人々まで、戦争賛美の詩を書いていました。そうしなければ、文筆家として立ってゆけない、生きてゆけない時代だったのです。
そういう時の流れに、たったひとり、抵抗して、ふみとどまるのは、どんなに大きな勇気を必要としたことでしょう。金子光晴がもっともたいせつにしたのは「個人」というものでした。国家権力にも強制された思想にも、そっぽをむいて、「自分自身の頭で考える、自分自身のからだで感じとる」という根本の権利を、なにものにもゆずりわたそうとしませんでした。
これはごくあたりまえで、単純なことのようにみえますが、日本人にとって、もっともにがてなことなのでした。歴史をふりかえってみれば、その時々の権力に、思考力まであずけっぱなしという例は、いくつも見つけだすことができるでしょう。「自分自身の思考力をたいせつにする」という単純で、行ないがたいことを勇かんにやってのけた金子光晴は、だからこそ、人間としても、詩人としても、まったく新しい日本人のタイプをうちだした人といえましょう。
戦争中は、「一億一心」ということばがはやりました。
「それなら一億二心ということにしてもらおう。九千九百九十九万九千九百九十九人とぼくひとりとがあい容れない、ちがった心をもっているのだから。」
そういうはっきりした心境でした。そして「ひとり、法燈をつぐ」という気持ちだったとも書いています。
「法燈をつぐ」とは仏教のことばで、「乱世末世になってだれも仏の教えをかえりみるものがなくなっても、ほそぼそとでも、燈明を絶やさないで(仏の教えを守って)つぎの世代にひきわたせるよう、がんばる」という意味なのですが、金子光晴にとって、守るべき「詩の灯」とは、旺盛な反逆精神のことたったのです。詩人たちが、ただただ国家の御用詩人となりはてて、値うちのない作品をやたらに大量生産しているときに、「詩とは、もっと骨のあるものだ」という、金子光晴の歯ぎしりでした。
負けいくさの様相がだんだん濃くなってきた、昭和十九年四月に、むすこ乾の徴兵検査がありました。からだが弱いのに戦地へ連れていかれては、落伍して、自滅するのは目にみえているのに、みすみすわけのわからない人殺しに送りだすのは、親としてたえられませんでした。
金子光晴夫妻は、むすこを応接間に閉じこめて生松葉でいぶしたり、リュックサックに一ばい本をつめて、それをしょわせて夜中に自宅から吉祥寺の駅までかけ足させたり、はてはびしょびしょの雨のなかにはだかで立たせてみたりして、気管支カタルの発作を起こさせ、兵隊として使いものにならない状態を作って、ごまかしたのです。そんな父親としての自分が、まるで鬼軍曹のようにむごくも感じられましたが、人殺しにだすよりはいいのだと、自分にいいきかせていました。
その半世紀にわたる長い詩業には、恋唄もあり、抒情詩もあり、ざれ唄もあり、弱さをそのままさらけだした詩もあり、一読考えこまざるをえないエッセイ集もたくさんあり、じつに大きなスケールと、振幅をもっていますが、とりわけその詩の、もっとも鋭い切先は、権力とわたりあい、個人の自立性は、たとえ国家権力によってだってうばわれないといった、まことに「無冠の帝王」にふさわしい、人間の誇りをかがやかせたのでした。
(その12)につづく
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