東京 北の丸公園 2012-08-09
*貞元3年/天元元年(978)
10月
・藤原頼忠が太政大臣、源雅信が左大臣、兼家が右大臣となる。
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11月
・兼家女の詮子(せんし)を女御とする。頼忠の女遵子(じゆんし)も女御になっている。
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同月
・天元に改元。
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天元2年(979)
この年
・宋の太宗が中国を統一。
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3月
・この月、円融天皇が石清水社に行幸、翌年の賀茂行幸と併せて両社行幸と呼ばれた。また平野社への行幸も行なわれ、天皇が神社に行幸して祈願するこは、円融天皇もってその画期とできる。
天皇が神社に行幸して祈願した始まりは、天慶5年(942)4月、将門・純友の乱の平定を祝して朱雀天皇が賀茂社に行幸したことといわれる。
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天元3年(980)
この年
・兼家娘の詮子が皇子懐仁(やすひと)親王(のちの一条天皇)を生む。円融天皇の唯一の皇子である。
しかし、関白頼忠の娘である女御遵子が、皇子懐仁親王の母である女御詮子を差し置いて中宮とされた。円融天皇の考えによるという。
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天元4年(981)
11月
・園城寺の余慶を法性寺座主に任じる(山門・寺門の争い始まる)
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天元5年(982)
この年
・後宮には既に円融天皇の第一皇子懐仁(やすひと、のちの一条天皇)を生んでいた兼家の娘詮子(せんし)がいるにもかかわらず、媓子の死後空席となった皇后に、この年、頼忠の娘遵子(じゆんし)が立てられた。
それに対して、兼家の働きかけがあったのか、公卿たちが宮中の儀式に出てこないようになる。
円融の治政は、兼家との対立の中で行き詰まる。
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2月4日
・関白藤原頼忠が検非違使を決める際、大江匡衡ら5人が候補に上る。
その中の平維敏について、藤原実資は、「貞盛の子にして頗る名を揚げ、その理運に柑当たる」(『小右記』この日条)とする。候補に選ばれた理由は貞盛の子であるということである。
現存する藤原実資『小右記』はこの年から始まる。
小右記の名は小野宮右大臣の二字をとった。
実資26歳のこの年から長元5年(1032)までの50年間。
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10月
・慶滋保胤「池亭記」が成立。
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11月
・内裏が焼亡する。
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