1904(明治37)年
12月17日
遭難したアメリカ船ベンジャミン・シオール号の船員が台湾で殺害された(10月4日)ことに対し、アメリカ公使抗議。
12月17日
イタリア、プッチーニ、オペラ「蝶々夫人」、ミラノで初演。
12月18日
第3軍、東鶏冠山北保塁攻撃、陥落。
強襲策をとらず、敵塁深く掘り進んだ坑道に爆薬を仕掛け、同時に突撃隊が突進する戦術。兵力は第11師団(鮫島重雄中将)第22連隊長青木助次郎大佐指揮する計1536。対するロシア守兵は140。
午後2時20分過ぎ、第1~4突撃隊が突進するが、死傷者が増大するのみ。
午後6時30分頃、後備第38連隊第2大隊(岩本栄輔大尉)第7・8中隊、突撃。第7中隊は将校と兵士2/3を失う。突撃中止。
午後7時30分頃、再突撃、失敗。
午後9時、再々攻撃。第44連隊第3大隊長権藤少佐は救援突撃隊60を突撃させる。
午後11時50分、堡塁陥落確認。死傷850(戦死151)。
12月18日
『平民新聞』第58号発行。
この1年で平民杜は新聞の発売禁止3回、記者の入獄1回を経険した。また、継続中の裁判が2件あり、殆ど確定的な新開の発行禁止、記者2人の入獄、合計240円の罰金、印刷器械没収に対する賠償250円を覚悟しなければならない。しかし、同人の意気は依然軒昂であった。
幸徳秋水「非戦論を止めず」
まず、近時頻々たる筆禍事件に対し、暫く時局批判の筆を止めんことを勧告する者にその好意を謝し、
「然れども吾人は断じて非戦論を止めじ、吾人は之が為めに如何の憎悪、如何の嘲罵、如何の攻撃、如何の迫害を受くると雖も、断じて吾人の非戦論を止めじ。彼の満洲の野における数十万の兵士および其家族が現に受けつつある無限の疾苦、悲痛の惨状に比し来れば、吾人に対する紛々たる憎悪、嘲罵、攻撃、迫害の如きは寧ろ一発の屁のみ。」
既に戦争が始まっているのに、なお非戦論を止めざる理由は極めて簡単である。
「曰く、速かに現戦役の局を了して平和を克復せしめんと欲す。日く、一般戦争の起因たる経済的競争の制度を変革して、将来の戦争を防遏(ぼうあつ)せんとす。此両個の目的を達せんが為めに、世界万国に向つて戦争の悲惨なること、損害なること、美事に非ざること、善事に非ざること、希ふべきに非ざることを絶叫す。誰か之を以て、戦争既に開くるの後に無益なりといふ乎、不正なりといふ乎。」
「世界之新聞」欄
「イタリアのジオリッチ内閣の苛政に対して鬱積した全労働者の反感が、九月十五日ゼノヴァ附近のセストリにおける労働者虐殺によって爆発し、全国にわたる総同盟罷工の結果ゼノヴァ市は三日間パンも牛乳も燈火もなく、ローマ、チューリン、ボローニャを初め大小数千都市の工場は悉く休業するに至った。」
イタリア情勢については、『平民新聞』第45号(9月18日)にも「イタリー社会党の形勢」が報道された。
この頃、ボローニャでの党大会で、改良派首領チェラチはブルジョア政党の急進派や民主派と連合し、進歩主義の政府を援けて即時実現し得る改良を行なうべき決議案を提出した。一方、急進派首領ラブリオラはブルジョア政府を否認し、党の主たる目的は労働者階級を団結してこれに社会主義を鼓吹するにあると断言し、「限前の改良の如きはこれに比すればほとんど何の価値も認められない」決議案を提出。
論争は結局、中央派首領エンリコ・フェリが別の決議案を出して連立政策に反対し、改良事業は資本家政府と闘争して得られるのであり連立によって得られるものではないと主張し、急進派が勝利した。
しかし前年のドイツ社会党大会と同じく、これもまた当時すでにヨーロッパの社会主義運動に、ベルンシュタイン主義の勢力が、台頭して来ている状況が窺える。
ローマ法王ピウス十世は、極東の現在の戦争は戦争というよりも寧ろ殺戮である、欧米の文明国は何故この不幸な出来事を終息させる方法を講じないかと語ったという。
12月19日
(漱石)
「十二月十九日(月)、東京帝国大学文科大学で、午前十時から十二時まで Hamlet を講義する。
皆川正禧・若月保治(紫蘭)来る。坪内逍遥『新曲浦島』を読む。『倫敦塔』脱稿する。(この後、続いて『カーライル博物館』を書いたものと思われる)」
「「豫定の枚數を書き了へた時、彼は筆を投げて畳の上に倒れた。」(『道草』百一)」(荒正人、前掲書)
「十二月二十日(火)、東京帝国大学文科大学で、午前十時から十二時まで Hamlet を講義する。午後一時から三時まで「英文学概説」を講義する。
橋口清(五葉)(下谷区谷中清水町五番地、現・台東区池之端四丁目五番)の家で初めて雁の羹を食べる。雁を食べたのは始めてだが、極めて美味である。空也堂の最中にも感心する。
十二月二十一日(水)、手塚光貴来る。摂津大掾聞きに行く。野間真綱宛手紙に「倫敦塔は出来上つたあとから讀んで見ると面白くも何ともない先便は取り消す」と書く。」(荒正人、前掲書)
12月20日
『平民新聞』第53号事件(『共産党宣言』)第一審判決。
西川、幸徳、堺の三被告が「吾人の目的は一に現時一切の社会組織を顛覆するに依て之を達するを得ペし云々」と規定した『共産党宣言』を以て、「日本社会主義者も亦その綱領とすべき者とし社章の秩序を壊乱すべき事項を掲載し」たる廉で各八十円の罰金に処する旨、判決。
判決文の一節。
「共産党宜言なるものは五十余年前、ドイツの偉人カール・マルクス氏が経済上、社会上、哲学上の見地より社会を達観したる一個の社会経済論策なることはエンゲルス氏英訳序文に明記する所……蓋し古の文書は如何に其記載事項が不穏の文字なりとするも、之を現代の者の意見と一致するものとし又は右と同趣旨の実行を計るの意味に非ずして、単に歴史上の事実とし又は学術研究の資料として新聞雑誌に掲載するは単純に歴史的文書たるに止まり、社会の秩序を壊乱する記事と言ふ能はざるのみならず寧ろ正当なる行為と云ふ可し。然れども其文中の理想を以て現代の者の意見と一致するとし、又は其趣旨の実行を計らんとする記事なる時は……自ら編述したる文書と同様の責を負はざる可らず。」
要するに学術研究のためならば差支えないが、理想実現の宜伝に用いたから合計240円分、社会の秩序を壊乱したことになる、というのである。
平民社解散後、堺は月刊『社会主義研究』を発行し『平民新聞』訳では省略した第三章をも新たに加えて『共産党宣言』全訳を発表した。堺はこの判決文の一節を逆手にとって、主義宣伝の目的ではなく学術研究のためだと称した。
12月20日
午前1時、ロシア・バルチック艦隊、アフリカ最南端アガラス岬沖通過、インド洋に向う。
25日マダガスカル島南端、27日朝セントマリー海峡、着。
12月21日
三井呉服店、三越呉服店と改称。
12月21日
中央東線韮崎(山梨県)~富士見(長野県)間開通。
12月21日
病院船に関する条約及最終決議書に調印。1907年5月24日公布。
つづく

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