2025年9月30日火曜日

米地裁、政府系メディアの大量解雇認めず トランプ氏の決定巡り(ロイター);「米首都ワシントンの連邦地裁は29日、トランプ政権に対し、米政府系報道機関ボイス・オブ・アメリカ(VOA)を所管する機関による従業員数百人の解雇を停止するよう命じた。」  

トランプ氏、陰謀論の医療設備紹介する動画投稿 ネットで強い反発(afpbb);「MedBedとは、極右グループや「Qアノン(QAnon)」陰謀論運動の間で信じられている架空の未来医療機器で、陰謀論の支持者はそれが喘息から癌まであらゆる病気を治すことができると言っている。」  

田原総一朗氏「中国に帰れって言うだけ?」ハーフ慶大生の差別体験に質問 参院議員がたしなめる(日刊スポーツ) ;「この返答に対し、社民党のラサール石井参院議員は「それ、ひどいことじゃないですか」と田原氏をたしなめるように一言。」 / 田原総一郎「差別って何されたの。国へ帰れって言われた、それだけ?」     

 

大杉栄とその時代年表(633) 1905(明治38)年12月 〈1905年12月モスクワ武装蜂起②;11月22日モスクワ・ソヴィエト結成前後〉 モスクワ・ソヴィエトは地区ソヴィエトを従えた(モスクワ市17地区全てに結成されてはいない)。ペテルブルクでは全市ソヴィエトが強力で地区ソヴィエトは弱体であったが、モスクワはその逆で、なかでもプレスニャ=ハモフニキ地区ソヴィエトはモデル的活動をなしたとされている。

 

12月モスクワ武装蜂起(プレスニャ地区の破壊されたシュミット工場)

大杉栄とその時代年表(632) 1905(明治38)年12月 〈1905年12月モスクワ武装蜂起①;10月ストライキ、10月宣言まで〉 その日(18日)モスクワ・ストライキ委員会は19日のスト中止を決定。宣言で諸要求(憲法制定会議召集等)追究を継続する姿勢を示す。 宣言は大きな喜びであったが、それを信じたからではなく、それが名誉をもってストを終結する機会を与え、新たな力をもって更なる闘争をなすに必要な息つぎを与えた。 まず進行したのは労働団体の「合法化」と組織化で、宣言とともに全ロシア鉄道同盟は合法組織として全都市で公然たる活動を展開。、、、 より続く

1905(明治38)年

12月

 〈1905年12月モスクワ武装蜂起②;11月22日モスクワ・ソヴィエト結成前後〉


10月26日

クロンシュタットに水兵の暴動。勤務・待遇の不満。10月ストライキ、労働運動の高揚が大きな影堺を及ぼす。

翌27日、ぺテルブルクから派遣された軍隊により鎮圧。

10月29日

ペテルブルク・ソヴィエト会議、殆ど討論することなく満場一致で、賃金基準の引上げ、10月31日からぺテルブルクの全工場が8時間労働に入ることを決議。

〈政府側の反撃;バルト県とシベリヤへの懲罰的軍事行動〉

11月~12月、バルト諸県へペテルブルクの最強軍団で編成された懲罰隊を派遣。革命に対して体制側がとった最大の軍事行動となり、約1,000人の犠牲者を出して、1906年1月末までに同地方を鎮圧。また、シベリアに対しても、モスクワ蜂起以前ににこうした組織的計画的な懲罰がなされた。

周縁地方での軍事行動は体制維持に直接役立つとともに、全国に政府側の革命に対する攻勢を印象づけるアピール効果も大きかった。

11月2日

この日、ワルシャワ線のペテルブルク駅でスト入りして急行列車を止める。

3日、ニコライ線とバルト線の機関士は列車運行を拒否。

クロンシタット水兵に対する軍事裁判及びポーランド戒厳令施行に抗議するペテルブルク・ソヴェトが8時間労働日導入の勢いに乗って、ペテルブルク・ソヴィエトが打ち上げたゼネストに呼応

しかし、全ロシア鉄道同盟中央ビュローは全体としてスト参加をみあわせる。新たな鉄道ゼネストにそなえて力を温存した。

11月11日

セバストポリで軍隊反乱。政府軍が鎮圧。

11月12日

ペテルブルク・ソヴィエト会議、「即刻の、あらゆる場所での8時間労働」は一時的に中止せざるを得ないと結論

11月13日

トロツキー(26)、メンシェヴィキと協力して大衆的政治機関紙「ナチャーロ(出発)」創刊

11月22日

第1回モスクワ・ソヴィエト会議

11月初旬、専門職業家連盟、全ロシア鉄道同盟、そしてそれらのストライキ委員会に対抗すべく、メンシェヴィキとボリシェヴィキが一致して、両派の共同行動調整機関としてロシア社会民主党モスクワ連合委員会が結成され、この連合委が中心となってエスエルにも呼びかけてソヴィエト結成のはこびとなった。

執行委員会は3党派各2人、地区代表労働者8人の計14人構成。このうち党派の6人が幹部会を形成し、実質的にモスクワ・ソヴィエトは社会民主党系がリードするところとなった。

このソヴィエトは蜂起までに計4回の会議を開催したが、代議員は200人規模で、当時の労働者がメンシェヴィズムとボリシェヴィズムを明確に区別しえなかったこともあって、彼らの大半は無党派であった。

モスクワ・ソヴィエトは地区ソヴィエトを従えた(モスクワ市17地区全てに結成されてはいない)。ペテルブルクでは全市ソヴィエトが強力で地区ソヴィエトは弱体であったが、モスクワはその逆で、なかでもプレスニャ=ハモフニキ地区ソヴィエトはモデル的活動をなしたとされている。

地区ソヴィエトは当該地区工場の実態を検討し、ソヴィエト執行委の指令の具体的実施方法を考えたが、指令の解釈をめぐり執行委と対立することがありえた。地区ソヴィエトの行動は多分に自律的であり、蜂起時に地区相互間及び地区一中央間の連絡が分断すると、それはなかば自動的に当該地区の運動指導部となるよう運命付けられていた。

11月24日

11月中旬の郵便電信ストは広範な民衆の支持を得た。鉄道員は業務的性格からこれに深く関わる立場にあり、中でもニコライ線はこのストに熱心で、同線電信士は政府及び個人の暗号電報受け付けを拒否した。この動きは11月24日から12月4日まで続き、これにべテルブルク鉄道導電信士も合流し、12月初めには全ロシア鉄道同盟ニコライ線ペテルブルク委員会が結成され、運動の維持と展開が図られた。


11月25日

モスクワのプレスニヤ=ハモフニキ地区ソヴィエト会議は11工場から45人を集めて、工場管理をやり、集会の自由を得る必要を討議している。

11月25日

この日、モスクワ守備にあたっている第1ドン・カザーク連隊の2大隊、要求リストを出して、パトロール出動を拒否。他での兵士反乱の情報に刺激された兵士独自の動きであった。

11月後半期、革命3党派は各々、軍事組織を持っているが、それらが直接兵士を工作して、反乱に立ち上がらせた様子はない。

11月26日

モスクワ守備隊第3、第5予備工兵大隊、隣接する第221トロイツェ=セルギエフ予備歩兵連隊の大隊と合流して集会し、要求を提示。契機となったのは革命的な演説をした工兵の逮捕で、同僚たちはその即時釈放を求めると同時に他の要求も出した。

11月26日

ペテルブルク・ソヴィエト議長フルスタリョフ=ノサーリ、逮捕。新「執行ビュロー」にはトロツキーとオブホフ工場労働者ズルィドイネフ及びヴヴェジェンスキ=スヴェルチコフの3人が選ばれ、集団指導体制として再建された。

ソヴィエト多数派は即時抗議のゼネストを主張したが、全ロシア鉄道同盟が12月5日まで動こうとしないため、ソヴィエト側はゼネスト突入を一旦見送った。人々は同盟の動向に注目した。

11月27日

第2回モスクワ・ソヴィエト会議。

前日のべテルブルク・ソヴィエト逮捕の報を受けて政府の攻勢本格化を知り、緊張の中で、工兵を中心とする兵士運動との共闘が検討される。方向性は確認されても具体的対応を拱(こまぬ)いた。

工兵が出席して、武装蜂起を説き、武器庫のソヴィエトへの引き渡しを述べるが、ソヴィエト側は時期の悪さを理由にこの提案を斥ける。従来、モスクワ守備隊での反乱主唱部分は砲兵であったが、大半が極東へ派遣されたこと、更に守備隊への工兵補充にあたり、各隊の司令官らが「期待出来ぬ分子」を送り出してきたため、革命的な工兵が集積していた。

11月27日

モスクワ守備隊第2擲弾兵ロストフ連隊に工兵の動きを鎮圧すべく出動命令が下り、兵士たちに不満と嫌気が轡積してゆく。12月2日の反乱に繋がる。

11月28日

モスクワ=ブレスト線の活動家、逮捕。


11月29日

ツァーリ政府、鉄道員と電信電話局員のストに対し、地元当局に非常措置をとる権限を与える。

11月29日

~12月2日。工兵に続いて擲郷弾兵連隊等で各連隊毎の要求を追求する動きが出て来る。運動は要求追及にとどまっているうちに、12月1日、第4擲弾兵連隊の集会に同司令官が出てきて、12月6日にはツァーリが「兵士と農民に対する慈悲に関する詔書」を出すから、行動を自重すべきことを説いた

11月30日

カザン線の電信士5名が銃殺される。

つづく

小泉進次郎陣営ステマ問題 指示した牧島かれん総務・広報班長 元デジタル大臣で今も自民党ネットメディア局長 / 進次郎選対・牧島かれんは“ステマ常習犯”だった! 自民党研修会で「コメント例」を提示〈永田町を改革してほしい!〉〈昔から人望の厚い人でした〉 / 星浩氏「デジタル担当大臣をやった人、政府 自民党のデジタル政策の中枢にいた人がこういうことをやった、これは深刻。他の選挙でも野党に向けてやっていたのではないか」  小川彩佳アナ「国民の声を聞くとしながら国民の声を偽装してたということになりますから、信頼の根幹に関わります…」 / 牧島かれん、小泉進次郎の広報班長辞任の理由は、ステマの反省ではなく、殺害予告や爆破予告メールが届いたからだと、、、   



 

2025年9月29日月曜日

マンハッタンの移民局で日常となった光景。定期出頭の移民が拘束され、それに抗議する本人や家族がICEに暴行される。今回はICEが移民の妻を思いっきり突き飛ばし、非難噴出で停職となる。ただし、正規の停職ではなく、ほとぼりが冷めるまで現場に出るな程度の雰囲気。

 

 

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▼同じケースで、反対側から撮ったもの

 

 

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▼令状の提示なしに侵入

 

大杉栄とその時代年表(632) 1905(明治38)年12月 〈1905年12月モスクワ武装蜂起①;10月ストライキ、10月宣言まで〉 その日(18日)モスクワ・ストライキ委員会は19日のスト中止を決定。宣言で諸要求(憲法制定会議召集等)追究を継続する姿勢を示す。 宣言は大きな喜びであったが、それを信じたからではなく、それが名誉をもってストを終結する機会を与え、新たな力をもって更なる闘争をなすに必要な息つぎを与えた。 まず進行したのは労働団体の「合法化」と組織化で、宣言とともに全ロシア鉄道同盟は合法組織として全都市で公然たる活動を展開。、、、

 

ツァーリによる国会開設と憲法制定の勅令(10月宣言)

大杉栄とその時代年表(631) 1905(明治38)年12月1日~3日 「12月3日の夕方、ペテルブルク・ソヴィエトは軍隊に囲まれた。出入口はすべてふさがれた。執行委員会が会議を行なっていた2階桟敷から私は、1階ホールにあふれていた数百人の代議員に向かって叫んだ。  『抵抗はするな。だが武器は敵の手に渡すな!』。 彼らが手に持っていた武器は拳銃だった。そして、すでに四方を近衛連隊の歩兵、騎兵、砲兵で包囲されていた会議場の中で、労働者は武器を使えないようにしはじめた。・・・・・金属のぶつかりあう音、がちゃがちゃする響き、金属の破壊される時のきしんだ音は、プロレタリアートの歯ぎしりのように聞こえた。」(トロツキー『わが生涯』) より続く

1905(明治38)年

12月 

〈1905年12月モスクワ武装蜂起①;10月ストライキ、10月宣言まで〉

1905年1月9日の「血の日曜日」事件以降に展開された一連の革命過程(第1次ロシア革命)は、10月ゼネスト及び10月17日の10月宣言でこの革命のピークに達するが、革命運動はその後も継続して、12月モスクワ武装蜂起で終焉を向かえる。

ここでは、モスクワでの革命過程を、鉄道労働者や兵士の動きを中心に見てゆく。


4月20日

~21日 全ロシア鉄道同盟(議長ペレヴェルゼフ)第1回大会(モスクワ)。

諸自由と憲法制定会議の実現をめざす政治的要求を前面に出したもの。

中央ビュロー(7名);ペレヴェルゼフらエスエル3名、ボリシェヴィキ2名、メンシェヴィキとアナキスト各1名

7月22日

~24日、全ロシア鉄道同盟第2回大会。

国家改革加速化のために政治ゼネスト準備を議論し、ストライキ決定権を中央ビュローに移行させる。ポーランド代表がポーランド王国が独自の憲法制定会議を召集出来るまで、ロシア人鉄道員は闘争を止めないよう綱領修正を求め、大会は紛糾。結局、これは否定され、ポーランド及び社会民主党系の代表は「同盟」を脱退。

9月20日

運輸相が年金規約見直しのためにべテルブルクに鉄道職員大会を召集。しかし、参加者たちは第1回全ロシア鉄道職員代議員大会を宣言し、憲法制定会議、政治的自由、8時間労働日、恩赦、自治等の要求を採択。

全ロシア鉄道同盟中央ビュローは鉄道ゼネスト接近を実感し、その成功のためにモスクワの全党派グループに協力を要請し、エスエル、社会民主党両派、幾つかの労組を加えた情報委員会を結成。しかし、モスクワの社会民主党グループは労働者の気分低下を理由に地方的ストのみを引き受け、他を全ロシア鉄道同盟に任せる方針をとった。同盟側はこれを認め、スト突入を10月4日に指定したが、グループ側は4日には何もなせず、同盟は改めて7日のスト開始を定め、それを実行した。


10月7日

モスクワーカザン線の機関士が先頭に立ち鉄道ゼネストが開始

同日、全ロシア鉄道同盟中央ビュローは、言論・出版・集会・結社・ストライキの自由、普通・平等・直接・秘密投票による人民代表機関の召集(さらに、9日に出した11項目要求で、憲法制定会議をいう)をその基本目標に設定し、更に経済要求実現をめざした。

8日夜、ペレヴェルゼフら同盟指導部が逮捕されるが、ストの進展自体に影響を与えていない。ボリシェヴィキは当初、ストの全国化に対し懐疑的であったが、10日にほとんど全国の路線が停止するに及び全国ゼネストを認知する。

この間、同盟中央と地方各支部との戦術的結合はほとんどなく、各路線は中央から独立したストライキ委員会等を結成して、独自な動きをしていた。

政治的ゼネストは、10月10日、モスクワ、ハリコフ、レーヴェリで始まり、11日にはスモーレンスク、エカチェリノスラフ、ロッジなどに広がり、10月16,17日には、ロシア全土がストの大波に揺れ動いた

10月18日

モスクワの人々はこの日の新聞で10月宣言を知る。

その日のうちにモスクワ・ストライキ委員会は19日のスト中止を決定。宣言で政府が認めなかった諸要求(憲法制定会議召集等)の追究を継続する姿勢を示す。

宣言は大きな喜びであったが、それを信じたからではなく、それが名誉をもってストを終結する機会を与え、新たな力をもって更なる闘争をなすに必要な息つぎを与えた。

まず進行したのは労働団体の「合法化」と組織化で、宣言とともに全ロシア鉄道同盟は合法組織として全都市で公然たる活動を展開。従来、敵対的であった中間管理層の対応も大きく変わり、中央ビュローはロシア技術協会にその事務所を開設した。


鉄道員の動向;

路線の主な駅毎に「ソヴィエト」ないし「地方委員会」が自然発生的につくられ、路線別に鉄道員大会が開催された。例えば、モスクワ=キエフ=ヴォロジノ線ではコノトプ駅ソヴェトやモスクワ駅地方委員会が結成され、10月17日のサラトフでの「第1回リャザン=ウラル鉄道代議員大会」、10月15日のリュボチナでのクルスク=ハリコフ=セヴァストーポリ線とハリコフ=ニコライ線の鉄道員大会開催のあと、11月20日、南部諸線大会(ハリコフ)、11月21日、シベリア鉄道大会(トムスク)が続いた。


10月18日

獄から解放されたばかりのモスクワ・ボリシェヴィキの代表的活動家バウマンが殺害される。自由と弾圧、人民側と権力側の緊張関係。

10月18日

兵営の雰囲気。

モスクワ守備隊ロストフ連隊にいたウリヤニンスキーの回想。

この日、我々の教導隊に士官が輝いた顔をして走ってきて、こう説明した。

ロシアに憲法が下賜され、今から我々全ては自由な市民として、自己の政治的見解を表明し、公然と集会する権利を持つ。やがて、国会が召集されるだろう、と。皆とこの喜ばしい出来事を祝ってから、彼は我々に家へ戻って休むように命じた。

通りは何か全くただならぬ様子で、それまで人気がなかったモスクワの通りは巨大な群集でうまり、彼らは赤旗を持ち、様々に革命歌を唄っていた。誰もこれを止めることはなく、警官もほとんどおらず、至る所で宣言(詔書)について議論する人だかりが見られた。

10月18日

~24日、黒百人組によるポグロム。ロシア全土の都市101で死者3千人以上、負傷者1万人以上。

10月19日

全ロシア鉄道同盟中央、「一時的に」ストを中止する指令を出す。

10月19日

ペテルブルク・ソヴィエトは、ゼネスト中止を決定。

20日、ぺテルブルクの多くの工場で集会が開かれ、ソヴィエトの決定がうけ入れられた。

21日、10月ストライキ終わる


10月21日

全ロシア鉄道同盟代表団と首相ヴィッテが会談。

代表団の面前でヴィッテは提出された要求につき、採否を吟味してみせる。一行はついにロシアでも欧米的原理に立脚する鉄道員の協同組合組織が認知されたと考えた

「十月後、鉄道員大衆はストを全く考えなかった。圧倒的大半の者は全ての自由が実現し、鉄道員たちの必要はやがて満足されるだろうことを疑わなかった」


つづく

トランプ氏、マイクロソフトに幹部解雇要求-バイデン前政権の元高官(Bloomberg); トランプ米大統領は26日、マイクロソフトに対し国際渉外担当のプレジデントを務めるリサ・モナコ氏を解雇するよう求めた。モナコ氏はバイデン前政権で司法副長官を務めていた。自らの政敵とみなす元政府高官を標的にした一連の動きの最新事例となる。/ かつて司法副長官として自分と職務上、対立せざるを得なかった人への報復を、企業にまで求めている異常さ / SNS 上で政敵を糾弾したり、圧力を行使することが半ば常態化しつつある     

 



 

なぜ公文書に「虚偽記載」 大川原化工機冤罪、ゆがんだ警視庁の実験(毎日) / <追跡公安捜査>警視庁が意図的に「二つのうそ」 検察審査会が認定 大川原冤罪(毎日);「警視庁公安部の当時の捜査員2人に対する不起訴処分(容疑不十分)を「不当」とした東京第6検察審査会の議決が、公安部の実験内容と異なる二つのうそが意図的に公文書に記載されたと認定していることが判明した。うち一つについては「積極的な虚偽記載。捜査員の供述は信用できない」と厳しく批判している。」

寺島実郎氏 「この問題の本質は、反日を教義とする宗教が、岸信介以来、愛国を掲げる自民保守系と手を結んでいたこと…日本の膨大な献金がどれだけ韓国に渡ったか?韓国でも違法性が出たなら、日韓共同で事実を解明する方向を、総裁選の候補者達も、それについて方針や見解を語るべき」

 

2025年9月28日日曜日

大杉栄とその時代年表(631) 1905(明治38)年12月1日~3日 「12月3日の夕方、ペテルブルク・ソヴィエトは軍隊に囲まれた。出入口はすべてふさがれた。執行委員会が会議を行なっていた2階桟敷から私は、1階ホールにあふれていた数百人の代議員に向かって叫んだ。  『抵抗はするな。だが武器は敵の手に渡すな!』。 彼らが手に持っていた武器は拳銃だった。そして、すでに四方を近衛連隊の歩兵、騎兵、砲兵で包囲されていた会議場の中で、労働者は武器を使えないようにしはじめた。・・・・・金属のぶつかりあう音、がちゃがちゃする響き、金属の破壊される時のきしんだ音は、プロレタリアートの歯ぎしりのように聞こえた。」(トロツキー『わが生涯』)

 

第1次ペテルブルク・ソヴィエトを指導したメンバー

大杉栄とその時代年表(630) 1905(明治38)年12月 「拝啓本日書店より『芸苑』の寄贈をうけて、君の『病薬』を拝見しました。よく出来てゐます。文章などは随分骨を折ったものでせう。趣向も面白い。而し美しい愉快な感じがないと思ひます。或ひは君は既に細君を持って居る人ではないですか。それでなければ近頃の露国小説などを無暗に読んだんでせう。(略)君の若さであんな事を書くのは、書物の上か、又生活の上で相応の源因を得たのでありませう。ホトトギスに出た伊藤左千夫の『野菊の墓』といふのを読んで御覧なさい。文章は君の気に入らんかも知れない。然しうつくしい愉快な感じがします、以上。(略)」(漱石から森田草平への手紙 明治39年正月元旦) より続く

1905(明治38)年

12月

福田英子「わらはの思い出」出版。「妾の半生涯」が好評のため。

12月

白柳秀湖「わが徒の芸術観」(「火鞭」)

12月

中里介山「送年の辞」(「新潮」)。「社会主義を捨てた」理由を説明。

①「狂乱せる愚民の」日比谷焼討ちを見て、「多数の力によって主義の実行を望む社会主義の企画に甚だ危険を感じたり」。

②8月27日「直言」のトルストイの記述「社会主義は人間性情の最も賤しき部分の満足(即ち其の物質的の幸福)を以て目的と為す、…」による。介山は、後トルストイアンとなる。1906年「都新聞」主筆田川大吉郎の勧めで同紙入り、1909年より紙上に小説発表。

12月

東京府立一中留学生同盟休講。朝鮮人に高等教育不要との新聞報道抗議。

12月

「十二月(日不詳)、寺田寅彦、小石川区原町十二番地(現・文京区白山五丁目か千石一丁目)に家を構える。」(荒正人、前掲書)

12月

東洋汽船、南米西岸線開航。

1903年末では登録船数4,602隻、98万トンに対し、5,089隻、126万トンに激増。

12月

日本興業銀行、関西鉄道株式会社外債100万ポンド募集。

12月

岡山県会、知事提出の宇野港築港案を否決、知事の再議も退ける。戦争で疲弊した民力の堪えるところでないとの理由。県下各郡では有志大会を開催して県会を支援。勝田郡民有志大会は、赤十字・愛国婦人会・義勇艦隊の募金中止を決議、代議士には普通選挙・行政改革・塩税廃止・兵役年限短縮を要請。

12月

インド国民会議大会開催。外国商品排斥・国産品愛用運動開始。

12月

ロシア、モスクワ・ノボロシースク・チタ・ペルミ・ハリコフその他で武装蜂起。

12月

フィリピン、町長・役員選挙。

12月

イラン立憲革命の開始。

砂糖価格の急騰を理由にテヘランの砂糖商人が処刑され、それを不満としてテヘランで大規模デモ。専制批判に始まり、住民の権利擁護組織(正義の館)の設置と国民議会開設要求に至る。

ロシア周辺の従属的地域では、日露戦争とロシア革命の波動は敏速に伝わる。

翌年8月モザッファルッディーン・シャー、憲法と議会とを認める。彼に代って即位したモハッマド・アリー・シャーは英露協商に基づく列強の干渉を背景に革命を圧迫するが、これに対する大衆蜂起により退位、皇太子を擁して立憲政治を回復。

12月

(漱石)

「十二月初旬(日不詳)に鈴木三重吉、能美島(広島県佐伯郡能美町中村、現・中町)から、炬燵にあたっている時壁に写った影法師の絵(他人に書いて貰ったもの)に、「炬燵して或夜の壁の影法師」とだけ蕾いてきた。それに対し、「只寒し封を開けば影法師」と送る。」(荒正人、前掲書)


12月1日

河上肇、「社會主義評論」(「読売新聞」連載)を中断し、一切の敎職を辭して伊藤證信氏の無我苑に入る

この日、河上肇は伊藤証信に逢うため巣鴨へ行くが、伊藤が籠っている大日堂を見つけることができなかった。河上は自分の生活に対する疑いを述べた手紙を伊藤に書くと伊藤から返信があった。その返信には、「社会組織の工夫などといふことは極々つまらぬ事で、人生の平和幸福といふものは、そんな廻り遠い事をせんでも、ただ『無我の愛』これ一つの実行で即時に成就できます。」とあった。


4日、河上は大日堂を訪を、夜10時まで語り合った後、「無我の愛」の伝道生活に入る約束をし、翌5日、関係している学校へ全部辞表を出した。また伊藤のすすめに従って、「読売」に連載していた「社会主義評論」を中止し、「擱筆の辞」と懺悔録を書いて載せた。さらに、何年もかかって買い集めた経済学関係の書物を全部売りはらってしまった


かつて山口高等学校教授時代に、文科から法科に転じようとする河上を思いとどまらせようと努めた登張竹風は、これを読んで驚いた。農科大学教授の和田垣謙三は、「君、河上は気が変になったね。惜しいことだ。もっともあの男は羊のような目をしている。ああいう目の持ち主は大抵狂するものだよ」、と登張に言った。登張は「へえ、さようなものですかな」と答えた。

河上は無収入になり、東大の理科に在籍していた彼の弟は、学資の出どころか無くなって退学することになった。このことが世に伝わり、有名な千山万水楼主人が一人の乞食坊主の弟子になったと言って、大きな評判になった

12月1日

(漱石)

「十二月一日(金)、東京帝国大学文科大学で Tempest を講義する。

十二月四日(月)、東京帝国大学文科大学で、午前十時から十二時まで「十八世紀英文学」を講義する。『趣味の遺伝』執筆する。」(荒正人、前掲書)

12月1日

幸徳秋水、シアトル日本人会堂にて講演「戦後の日本」。聴衆500。

渡米中の秋水の生活については、「渡米日記」(1905年11月17日~1906年6月28日)や「光」紙上の「桑港より」などで知ることが出来る。集会も言論も出版も自由で「彼己氏(天皇)の毒手の及ぼざる処」で、まさに魚が水を得たような躍動であった。

数多の講演会、読書、アナキスト・ジョンソン老、露国フリッチ夫人、露国革命党員らとの交遊、アメリカ社会党入党、社会主義研究会開催など。無政府共産制の一時的実現とみたサンフランシスコ大地震の体験。

在米の日本人社会主義者約50名による社会革命党結成、その宣言、綱領、党則は秋水が起草した。その宣言の中の、

一人をして其の野心虚栄の心を満たしめんが為に百万民衆常に侵略の犠牲になるの時に於て国家なるもの果して何の尊厳なりや

などの文中に、抽象的に天皇制批判があるとみられている。たとえ抽象的であっても、「天皇の毒手」「彼己氏の毒手」につづいての、秋水の天皇・天皇制批判を活字にした最初であろう。渡米中の秋水が無政府主義により接近していたことは間違いない。

3日シアトル発。

5日サンフランシスコ着。

桑港平民社支部の岡繁樹、夫人敏子、岩佐作太郎、市川藤市、中沢次郎、倉持喜三郎らに迎えられ、無神論者のアルバート=ジョンソン翁や社会革命党員のフリッチ夫人らに紹介された。

平民社支部は、宏壮な洋館で、入口には和英両文字で「平民社桑港支部」という看板が掲げられていた。東京では平民社は解散したが、アメリカでは東京の旧本部よりも遥かに立派な建物にそれが存在していた。会堂は、12畳ほどの室が2つ、外に食堂、会の支部長岡繁樹夫妻の住む狭い室、湯殿と玄関があった。

しかし、そこは人の出入りが多く落ちつかないので、12日には、病弱の幸徳は、そこから2、3丁離れた所に室を借りて移った。そこは、アルバート・ジョンソン翁とは背中合わせの近さであった。

家は、それはロシア系アナーキストのフリッチ夫人とその娘の家で、幸徳はそこに寝泊りして、平民社支部へ食事に通った。彼の借りた室は14,5畳の広さで、壁にはクロボトキンとバクーニンの肖像や風景画などが掲げられていた。

夫人はロシアから来た革命家エンマ・ゴールドマンの親戚で17歳位の娘をつれた産婆の未亡人で当時医学の勉強をしていた。

6日、運動方針打合せ。

9日、邦字新聞「日米」「新世界」両記者晩餐会に招待。

10日、有志茶話会。50名参加。

12日、フリッチ夫人の寓居の一室に移る。アルバート・ジョンソン翁とは背中合わせの近さ。

12月2日

在英公使館を大使館に、林董駐英公使を大使に昇格。

12月3日

ペテルブルク・ソヴィエトの会議中にメンバー総てが逮捕される(第1次ソヴィエトの崩壊)

「12月3日の夕方、ペテルブルク・ソヴィエトは軍隊に囲まれた。出入口はすべてふさがれた。執行委員会が会議を行なっていた2階桟敷から私は、1階ホールにあふれていた数百人の代議員に向かって叫んだ。

 『抵抗はするな。だが武器は敵の手に渡すな!』。

彼らが手に持っていた武器は拳銃だった。そして、すでに四方を近衛連隊の歩兵、騎兵、砲兵で包囲されていた会議場の中で、労働者は武器を使えないようにしはじめた。彼らは、その熟練した手でモーゼル銃をブローニング銃に、ブローニング銃をモーゼル銃にぶつけて破壊した。そこにはもはや10月29日の時のような冗談や軽口はなかった。金属のぶつかりあう音、がちゃがちゃする響き、金属の破壊される時のきしんだ音は、プロレタリアートの歯ぎしりのように聞こえた。プロレタリアートはこの時はじめて、敵を打倒し粉砕するためにはもっと別の何かが、もっと強力で仮借のない努力が必要なのだということを、身にしみて感じたのであった。(トロツキー『わが生涯』)


つづく

2025年9月27日土曜日

大統領職で巨額の利益を得たトランプ一家、子ども達の資産額(Forbes JAPAN);「家族全体(大統領の娘婿ジャレッド・クシュナーを含む)の総資産は推定100億ドル(約1兆4800億円)に達し、昨年の選挙からほぼ倍増」 / トランプ氏の孫娘、アパレルブランド立ち上げ 宣材はホワイトハウスで撮影(AFPBB)   

 



 

大杉栄とその時代年表(630) 1905(明治38)年12月 「拝啓本日書店より『芸苑』の寄贈をうけて、君の『病薬』を拝見しました。よく出来てゐます。文章などは随分骨を折ったものでせう。趣向も面白い。而し美しい愉快な感じがないと思ひます。或ひは君は既に細君を持って居る人ではないですか。それでなければ近頃の露国小説などを無暗に読んだんでせう。(略)君の若さであんな事を書くのは、書物の上か、又生活の上で相応の源因を得たのでありませう。ホトトギスに出た伊藤左千夫の『野菊の墓』といふのを読んで御覧なさい。文章は君の気に入らんかも知れない。然しうつくしい愉快な感じがします、以上。(略)」(漱石から森田草平への手紙 明治39年正月元旦)

 

森田草平(本名、森田米松)

大杉栄とその時代年表(629) 1905(明治38)年11月21日~30日 この頃、河上肇(27歳)は、道を求めて街上を歩きまわっていたが、この日、専修学校への途中、神田の古本屋でトルストイ「我が宗教」の翻訳を見つけて買った。この日、学校から帰って下宿でそれを読み、彼はトルストイの熱烈な信仰に魅入られた。 更にその数日後、彼は「無我愛」という題の、伊藤証信の発行する薄っぺらな雑誌を読んだ。彼は、伊藤証信は、トルストイと同じ宗教思想を実践している日本人だと思った。無我愛という思想は、彼の考えていた絶対的非利己主義と同じものだと感じた。 より続く

1905(明治38)年

12月

本間雅晴、陸士入学。第19期生。今村均・河辺正三・塚田攻・喜田誠一・田中静壱(この5人は大将に昇進、本間は中将で予備役編入)。

この年は、日露戦争の火急に間に合わせるため期間を短縮して、3月に第17期生、11月に第18期生が卒業。また、採用数も急増した第18期生が969人であったが、第19期は更に1,083人に増える(第19期は中学出身者だけを対象とする召集)。

12月

森田草平の出現

この月のある日、森田米松(25歳)という身体の大きな東大生が、千駄木の漱石を訪ねて来た。書斎に通された森田は大学の英文科の学生であると名乗り、近く上田敏先生の主宰している雑誌「芸苑」(第二次)に自分の「病葉」という小説が出るから読んで頂きたいと口ごもりながら言った

森田米松(草平) ; 

明治14年(1881)3月19日、岐阜県鷺山村の地主の家に生れる。

明治24年(数え年11歳)春、父を失う。

同年10月27日、濃尾地方の大地震に遭遇。

少年の頃、叔父が岐阜で女郎屋を経営しており、森田はしばしばそこへ遊びに行き、一人の遊女に弟のように可愛がられた。

15歳、海軍軍人になる目的で上京し、攻玉社(こうぎよくしや)海軍予備校に入った(攻玉社は海軍兵学校予科に当る中等学校)。

明治28年夏、帰郷した際、岐阜の町で、以前に叔父の女部屋にいた遊女に逢った。叔父は女郎屋の経営に失敗して、女はよその女郎屋に移っていた。森田は大柄で、大人と同じような背丈になっていた上、古い小説類で遊女の恋愛に関心を持っていたので、この遊女のところへ遊びに行って関係し、夏の休みじゅう毎日のように自分の村から舟を漕いで通い続けた。昼間のことなので、母に知られずに済んだ。

8月未に上京する際、彼は汽車に乗ったふりをして女郎屋に行き、一週間滞在し、古風な起請を女と取りかわした。それは、小指に傷つけて、その血で同じ文言の二通の文を書いて一通ずつ身につけて持っているというものであった。

上京して1年間、彼は女と文通を続けたが、翌年、女からある老人の妾になったという手紙が来た。森田は絶望したが、夏に帰郷するとまた女に逢った。彼は女の裏切りをなじり、夫婦になろうと言いはった。

彼は女と四日市の近くの湯ノ山温泉で1週間一緒に過した。女は近く旦那と一緒に北海道へ移住するので、もう逢えぬと言って別れた。

森田は海軍に入るのかいやになり、二三の学校を移り変った後、数え年18歳のとき、杉浦重剛の経営する日本中学5年生に編入試験を受けて入った。

明治32年3月、19歳の時、日本中学を卒業して、郷里へ帰っていたが、その間に親戚の一少女と恋愛した。

その年7月、彼は金沢の第四高等学校へ入学した。その年11月、その女性が彼を追って金沢へ来た。その女と逢っていたことが発覚して、彼は担任の国文教師藤井乙男に叱られ、諭旨退学になった。

その年末から翌年春まで、彼は名古屋で放浪生活をした。そのとき、彼は森鴎外の「水沫集(みなわしゆう)」を買った。それは明治25年7月に春陽堂から発行され、初期の鴎外の小説「舞姫」、「うたかたの記」、「文づかひ」の外、小説戯曲の翻訳を載せ、外に訳詩集「於母影」や、またその後の鴎外の十数篇の訳詩を載せた、鴎外の初期の全業績をまとめた代表作集であった。森田は、本当の文学とはこのようなものであるとの感を深くし、その書を持ち歩いて繰り返し耽読した。

明治33年、再び上京し根津権現の境内のある下宿屋にいた。そこで彼は詩人河井酔茗と同宿になり、知り合った。7月、彼は第一高等学校の入学試験を受けて合格した。

この年(1903年)、南アフリカでボーア人とイギリス人との間に戦争が起り、その報道が新聞に載った。森田はイギリス帝国主義に反抗するボーア人の軍隊に義勇軍として参加すると言い出した。河井酔茗が彼に忠告して、それをあきらめさせた。

9月、彼は第一高等学校に入学した。同級生には、生田弘治、栗原元吉、川下喜一等の文学好きな生徒がいたので、それ等の仲間と「夕づつ」という廻覧雑誌を作った。

明治35年、22歳の森田は千駄ヶ谷の新詩社に与謝野寛夫妻を訪ね、「明星」の仲間に加えてもらった。また「文芸倶楽部」に投書して20円の賞金をもらった。

翌明治36年6月、彼は第一高等学校を卒業した。8月、彼の親戚の女森田つねが、郷里の村で彼の子、亮一を生んだ。彼は上京したが子女を遠ざけ、そのことを内緒にしていた。その年9月、彼は東京帝国大学英文科に入った。

その年一高から東大英文科へ入った学生の中では、森田が一番成績がよかった。当時、一高から大学に入った者は、それぞれの科で一番にならなければならぬという不文律の伝統があって、英文科では森田がその責を果たす立場にあった。しかし、彼の同期には、三高で三年間首席を通し、シェイクスピアの全作品を読んでいると言われた中川芳太郎がいた。とても中川にはかなわないと思って、森田は一番になることをあきらめ、英文科の講義をあまり熱心に聞かなかった。また彼は、同級生に、その中川の友人で鈴木三重吉がいることも知らなかった。

森田は難解で有名な漱石の「文学論」の講義に出席せず、シェイクスピアの作品の講義だけを聞いたが、彼にはシェイクスピアそのものが面白くなかったので、出席したのは三分の一ぐらいであった。

大学1年の時、彼は一高時代の廻覧雑誌仲間の栗原元吉に伴われて、飯田橋に近い牛込区弁天町の馬場孤喋(36歳)を訪ねた。旧「文学界」同人の一人であった馬場は、樋口一葉の生前、最も一葉に親近した一人であった。彼は一葉が死んだ翌年の明治30年、それまで勤めていた彦根中学をやめて上京し、以後日本銀行に勤めていた。馬場は森田に、ロシア文学の魅力について語り、ガーネットの英訳したツルゲーネフの「ルーティン」を貸した。ツルゲーネフは森田を熱狂させた。ロシア文学の、人を根本から動かす力に較ぺれば、英文学は小市民の小さな諷刺や小さな情感を描いた小文学に過ぎない、と彼は思った。ロシア文学こそ純文学そのものであると彼は考えた。

この明治36年暮頃、森田は、素人下宿屋を捜して、本郷の西片町の崖下の、丸山福田町4番地に1軒の小さな家を見つけた。6畳2間と4畳半と台所だけの家で、50あまりの寡婦が1人で住んでいた。彼はその6畳間を借り、食事は大学構内の食堂で食べることにした。森田がそこへ移ったことを栗原が馬場孤蝶に告げたとき、馬場は、どうもその家は樋口一葉の旧宅のような気がする、と言った。森田が馬場を訪ねて話を聞くと、そのとおりだということが分った。次の日曜日に、馬場がその家へやって来た。森田が借りている6畳間は、一葉が「にごりえ」「たけくらべ」を書いた室であり、明治29年11月23日に、一葉が息を引き取った室であった。馬場は一葉に対して強い懐旧の情を抱いていたので、それ以後、3日にあげず森田の下宿へ訪ねて来るようになった。森田はそれを自分への親愛の現われと考えてこの先輩の好意に感謝した。森田が一葉の旧居へ下宿したという話が大学内に伝わって、文学好きな学生たちは次々とその室を見に来るようになり、そのために森田は大学生の間で名を知られるようになった

翌明治37年春、森田たちの仲間は、その家で一業の記念祭を行うことにした。馬場の世話で、吉江政次の妻になっている一葉の妹の邦子を招待した。また大学で森田の先生である上田敏の外、与謝野寛・晶子夫婦、河井酔茗、蒲原有明、小山内薫と妹の八千代などが参会した。森田の仲間では生田弘治、川下喜一、五島駿吉、中村蓊(しげる)、栗原元吉などが集まった。会場の設備としては、友人の描いた一葉の肖像の木炭画を室の正面に掲げ、森田の使っている机をその前に据えて、貧弱な供物を並べただけであった。そして一同は庭に並んで記念の写真を撮った。

それ以後森田と馬場の交際は急に親しみを加え、森田は馬場の家へ行って、その蔵書を次々と借り出し、馬場の書斎を自分の書庫であるかのように考えていた。森田が、この本を貸して下さい、と言うと、馬場は、「ああいいとも、持ってけ背負ってけ」と言って少しも惜しむ風がなかった。森田は馬場の家へ通って、そこにあるツルゲーネフの英訳書を全部読み、更に馬場の紹介で田山花袋、柳田国男を訪ねて、英訳のあるものを読んだ。更に彼は馬場にすすめられてメレジコフスキイの「人及び芸術家としてのトルストイとドストエフスキイ」を読んだ。それは彼のロシア文学に対する熱狂をほとんど頂点まで高めたものであった。この頃この書は僅かに田山花袋と馬場孤蝶などが持っていたもので、島崎藤村もそれを読みたいという手紙を花袋に書き、この翌年の明治37年1月にはじめて借りて読んだものであった。彼はこの本に導かれて、トルストイの「アンナ・カレーニナ」を読み、ドストエフスキイの「罪と罰」の英訳を読み、いよいよ英文学から遠ざかった。そして森田は、トルストイよりもドストエフスキイに感動した。彼は、自分こそ、いまの世界の新文学の第一線の作家に接している日本人だと考えながら英訳のあるものを捜して、「白痴」を読み「虐げられた人人」を読んだ。更に彼は馬場の書斎にあったフローベルやゾラの作品を全部読み、英文学に関するものはほとんど読まずに大学3年の大半を過した

明治38年、漱石が「吾輩は猫である」をはじめ、次々と創作を発表し、それが文壇の反響を得つつあったとき、小説家志望の森田は、教師としてよりも文士としての漱石に近づきたい気特を強く抱きはじめた。森田の一高からの同級生の野村伝四(英文科)は小山内薫等の「七人」の同人であり、更に、五高で漱石に習ったことのある先輩の野間真綱の同郷人だった関係で、漱石宅に出入りしていた。森田は野村が「七人」の同人になっていることは羨しいとは思わなかったが、彼が漱石宅に出入りしていることを羨んだ。

この年10月、上田敏は「海潮音」を刊行し、その直後、「芸苑」復刊を企画した。上田はこの雑誌の編輯所を、本郷区西片町の自宅に置き、発行所は京橋区銀座3丁目の左久良書房に頼んだ。編輯兼発行人には「文学界」当時の旧友孤蝶馬場勝弥の名を借りた。そのため、馬場と親交があり、かつ上田の学生であった森田は、馬場の紹介でその雑誌に参加することとなった。森田とともに、その仲間の辻村鑑、生田弘治、五島駿吉、栗原元吉、川下喜一等もまたこの雑誌に参加した。生田は大学では美学を専攻し、大塚保治に師事していた。また江村川下喜一は独文科に籍を置き、古城栗原元吉は英文科に籍を置いていた。いよいよ「芸苑」が出ることになると、五島駿吉は梧桐夏雄というペンネームでアイへンドルフの「大理石像」を訳し、馬場孤蝶はチェーホフの「六号室」を訳し、胆駒古峡という筆名の中村蓊はツルゲーネフの「あがおひたち」を訳し、江村川下喜一は「沖の小島」という作品を書き、森田米松は白楊という号で「病葉」という小説を書いた

上田敏はこの雑誌を出すに当って、生田弘治に長江という号を、また森田米松に白楊という号をつけてやった。更に上田敏の旧友で、この年4月から上京して、「破戒」の原稿の完成に努めていた島崎藤村は、特にこの雑誌に「朝飯」という短篇小説を寄稿した。また栗原古城は長風郎という匿名で、漱石がこの年11月に、「中央公論」に発表したばかりの「薤露行(かいろこう)」の批評を書いた。

森田が漱石宅を訪ねたのは、この雑誌が出来あがる少し前のことであった。森田は、この雑誌に参加する前に、「捨てられたる女」という美文めいた感想文を書いて「帝国文学」に送り、発表されたが、鴎外の「舞姫」張りの文語体で書いたその作品は何の反響ももたらさなかった。森田は今度の「病葉」という小説について漱石の意見を聞きたかったし、それ以上に彼は人間としての漱石に近づきたかった。

年末、「芸苑」は漱石に送り届けられた

翌明治39年正月元旦、漱石の手紙が森田に届き、森田は感激した


「拝啓本日書店より『芸苑』の寄贈をうけて、君の『病薬』を拝見しました。よく出来てゐます。文章などは随分骨を折ったものでせう。趣向も面白い。而し美しい愉快な感じがないと思ひます。或ひは君は既に細君を持って居る人ではないですか。それでなければ近頃の露国小説などを無暗に読んだんでせう。(略)君の若さであんな事を書くのは、書物の上か、又生活の上で相応の源因を得たのでありませう。ホトトギスに出た伊藤左千夫の『野菊の墓』といふのを読んで御覧なさい。文章は君の気に入らんかも知れない。然しうつくしい愉快な感じがします、以上。(略)」


森田は、自分は漱石に存在を認められたことに無上の喜びを感じた。また人に告げずに田舎に置いてあるとは言え妻を持っていることも、ロシアの小説を読みふけっていることも漱石に見破られたのが分った。しかし、それ故に一層彼は自分の存在を夏目にはっきりと認められ、もう自分は孤独ではなくなった、と感じた。

つづく

2025年9月26日金曜日

米司法省、FBIのコミー元長官を起訴 ロシア疑惑の捜査巡りトランプ氏と敵対(CNN) / 元FBI長官ジェームズ・コミー、起訴後の声明「私と私の家族は何年も前からドナルド・トランプに立ち向かうには代償が伴うことを知っていた…我々は膝をついて生きることはない…恐怖は暴君の道具だ。私は恐れていない…私は無実だ」 / コミーを起訴する証拠が十分でないとDOJに伝えた検察官マヤ・ソングが、トランプのDOJによって解雇 / リンゼイ・ハリガン、新たに任命された米国検事で、トランプ大統領の指示によりジェームズ・コミーを訴追している人物は、保険弁護士であり、ミス・コロラドのファイナリストです。彼女はこれまで一度も訴訟を担当したことがありません。 / 司法省の驚くべき変貌を決定づけた。法の独立した執行者から、ホワイトハウスの延長線上へと(WSJ)          



 

石破首相以上に「不信を招いた」自民党議員ランキング…3位岸田前首相、2位萩生田光一氏を抑えた第1位は?(女性自身) ;「そんな2人を抑えて第1位に選ばれたのは、麻生太郎最高顧問(85)」    

大杉栄とその時代年表(629) 1905(明治38)年11月21日~30日 この頃、河上肇(27歳)は、道を求めて街上を歩きまわっていたが、この日、専修学校への途中、神田の古本屋でトルストイ「我が宗教」の翻訳を見つけて買った。この日、学校から帰って下宿でそれを読み、彼はトルストイの熱烈な信仰に魅入られた。 更にその数日後、彼は「無我愛」という題の、伊藤証信の発行する薄っぺらな雑誌を読んだ。彼は、伊藤証信は、トルストイと同じ宗教思想を実践している日本人だと思った。無我愛という思想は、彼の考えていた絶対的非利己主義と同じものだと感じた。

 

伊藤証信

大杉栄とその時代年表(628) 1905(明治38)年11月14日~20日 幸徳秋水(34)、横浜港から伊予丸で出航、アメリカに向かう。「多くの洋行者は、洋行に依て名を得んとせり、利を射んとせり、富貴功名の手段となせり、此如き洋行者は洋行を以て名誉となせり、愉快となせり、所謂壮遊なるものとせり、我れに於ては然らず、我れの去るは去らんと欲するが故に非ず、止まらんとして、止まる能はざれば也。」 より続く

1905(明治38)年

11月21日

「新聞大同盟」代表委員、各政党・首相・内相を訪問、緊急勅令撤回を求める。黒岩涙香・池辺三山・横井時雄ら5人。

11月22日

韓国、水原観光帰路、伊藤の列車に農民投石。

11月22日

ロシア・バルチック艦隊司令官ロジェストヴェンスキー中将一行、船内暴動騒動のあと長崎港出港。

11月22日

ワシントン密使事件。米人ホーマー・ハルバート、11月26日付け高宗密書を国務長官ルートに渡す。協力拒否(「桂=タフト協定」のため)。他の駐仏公使・前駐米公使を通じた対米工作も失敗。

ホーマー・ハルバート:

宣教師・言語学者・歴史学者。1886年官立洋学校「育英公院」英語教師として招聘。情報誌「コリアン・レビュー」を刊行、皇室にも出入り。著書「韓国史」「大東年紀」「韓国見聞記」。高宗は一時帰国中のハルバート(在ワシントン)に密書を送り、ルーズベルトへの伝達を依頼。

11月23日

初代韓国統監、伊藤博文が就任。

11月23日

第2次日韓協約、「官報」・外務省告示で公表。

11月23日

ロシア、「10月勅令」をロシアの歴史的転換点と見做す穏健派反政府運動、オクチャブリースト(「10月17日の同盟メンバ」)設立。指導者グチーコフ、ロジャーンコ

11月24日

菅野須賀子、論説「筆の雫」(「牟婁新報」)。

11月24日

(漱石)

「十一月二十四日(金)、東京帝国大学文科大学で Tempest を講義する。」(荒正人、前掲書)


11月24日

永井壮吉(荷風)、カラマズで父の手紙を受け取る。

父は横浜正金銀行の頭取にたのんで、壮吉をその銀行のニューヨーク支店の事務月見習に使ってもらうことにしたから、至急ニュー・ヨークへ行って支店の支配人に逢うように、とのことであった。

永井は断ろうと思ったが、ニュー・ヨークの正金銀行支店からも電報で招いて来たし、ニュー・ヨークならば三十分ぐらいでイデスのいるワシントンへも行ける、と思って彼は出かけた。

12月7日から、彼はいやいやながら正金銀行に勤めはじめた。

11月25日

清国に考察政治館設置。

11月25日

英米独仏で募集する公債の件公布(勅令241号)。4分利付・第2回、英貨公債5千万ポンド募集。2,500万ポンドのみ発行。英団体1,300万ポンド、パリ・ロスチャイルド家1,200万ポンド。

11月25日

米臨時代理公使、韓国における米の外交事務は、今後東京公使館で取り扱うことを通知。

11月25日

ワシントン、日露講和条約・追加約款の批准書交換。

11月26

「東京朝日」、同胞俘虜の数を1,718人とし、これ以外に二百数十人存在と報じる。

11月26

孫文らの中国革命同盟会、機関誌『民報』創刊(日本、東京)。

11月26

(漱石)

「十一月二十六日(日)、『太陽』の編集をしていた大町芳衛(桂月)から原稿を依頼されたが、多忙を理由に断る。『明星』・『白百合』・『新小説』からの依頼も、同じ理由で断る。

十一月二十七日(月)、東京帝国大学文科大学で午前十時から十二時まで「十八世紀英文学」を継親する。俳書堂の籾山仁三郎から川崎安製作の石膏製額「子規居士半身像」を贈られる。「初時雨故人の像を拝しけり」と、礼状に添える。」(荒正人、前掲書)


11月26

ロシア、ペテルブルク・ソヴィエト議長フルスタリョーフ逮捕。ソヴィエトには抗議ストを打てる力もなかった。

11月27

駐韓アメリカ公使モルガン、第2次日韓協約により公使館閉鎖。イギリス公使などもこれに続く。

11月27

東京府会、「警視庁廃止に関する意見書」案を満場一致可決、内相・衆議院に提出。警視庁が首都警察として国家的性格を持ち、警視総監は府知事ではなく首相・内相の指揮下にある。府知事・警視総監の対立を排除し一本化。また、内閣保護の為の警視庁から東京府知事下での人民のための警察に転換させる。1906年10月より議会で議論。

翌年、西園寺内閣において、内相原敬は警視庁廃止には反対。議会で否決。但し、原は元老山縣が掌握してきた内務行政権力基盤解体のため東京府下24警察署の18署長(薩摩閥)を更迭。

11月27

社説(池辺三山)「凱旋歓迎の盛」(「東京朝日」)。三山も勝利凱旋の熱狂に酔う

11月27

この日、島崎藤村はようやく『破戒』第一稿を書き終える。稿を起したのは、前年明治37年初めで、1年10ヶ月を経て一応の完成を見た。

この日付、援助者の神津猛宛の葉書。

「草稿全部完了。十一月二十七日夜七時、長き長き労作を終る。(章数二十一、稿紙五百三十五)。無量の感謝と長き月日の追憶とに胸踊りつゝこの葉書を認む。」

彼は、原稿浄書に取りかかるに当り、本文の組み方から、挿絵や表紙の写真製版の仕方にまで念を入れた。鏑木清方に絵を依頼し、この頃、従来の木版に代る新しい写真製版術をアメリカから輸入した田中猪太郎に相談して事を運んだ。また本文の組と同じ字数で、原稿紙一枚がちょうど一頁になるように十二行四百三十二字の原稿用紙の版木を作り、それを手刷りにして、その上に彼は全部の浄書を行った。

11月27

オーストリア・ハンガリー帝国、モラビアを言語による民族区域に区分しドイツ人とチェコ人の対立を調整する妥協成立。28日、普通選挙制導入。

11月28

この頃、河上肇(27歳)は、道を求めて街上を歩きまわっていたが、この日、専修学校への途中、神田の古本屋でトルストイ「我が宗教」の翻訳を見つけて買った。この日、学校から帰って下宿でそれを読み、彼はトルストイの熱烈な信仰に魅入られた。

更にその数日後、彼は「無我愛」という題の、伊藤証信の発行する薄っぺらな雑誌を読んだ。彼は、伊藤証信は、トルストイと同じ宗教思想を実践している日本人だと思った。無我愛という思想は、彼の考えていた絶対的非利己主義と同じものだと感じた。

伊藤証信は、真宗系の僧であり、真宗大学を卒業して研究科に籍を置いた人物であったが、自己の思想を見出して、僧位を返上し、久しく乞食の巣になっていたという東京郊外の巣鴨の大日堂に立て籠り、味噌を嘗めて生活しながら、その薄い雑誌を発行していた。彼の主張は、「吾々は如何なる行為をしても、他人の愛を育てるか、他人の我執を挫くか、どちらかになるので、何も心配することはない。畢竟一切の活動はみなそのままで無我愛の活動なのである。それを自覚しないから安心が得られないのであるが、その道理さへ自覚すれば、吾々は直ちに絶対の平安絶対の幸福を得られるものである」というもの。

11月28

アイルランド、シン・フェイン党結党。ダブリン、アーサー・グリフィス(1872~1922)。アイルランド完全独立主張。

11月29

午前9時、枢密院会議、緊急勅令(戒厳令・新聞雑誌取締令)廃止。

11月29

(漱石)

「一月二十九日(水)、E.A.Poe(ボー)の短編 "Ma. Found In a Bottle" (「壜のなかの手記」)を読み、森巻吉宛葉書に英文の訳語について連絡する。(斎藤静枝)」(荒正人、前掲書)


11月30

韓国、侍従武官長兼陸軍副将閔泳煥、抗議自殺。

12月1日、前議政大臣・特進官趙乗世(77)、自殺(27日、上疏。憲兵隊に拘留)。

他に、経筵官宋乗璿、前参賛洪万植(甲申政変時、開化派として死んだ洪英植の兄)、学部主事李相哲、平壌徴上隊兵丁全奉学なども抗議の憤死。

11月30

カマラズ(ミシガン州)にいた荷風に正金銀行ニューヨーク支店長から連絡があり、ニューヨークに向かうことにする。

12月4日、カマラズを発つ。


「十一月三十日 紐育出張店支配人より電報あり。兎に角来談すべしといふ。余は突然華盛頓にて別れたるイデスの事を思ひ出し余若し紐育の銀行に勤務の身とならば両地の距離わづかに急行列車の半日に過ぎざれば再び相逢うて暖き接吻に酔ふ事を得べし。かく思へは今は経済原論の一頁だも知らざる身を顧みるべき暇あらず、両三日中に当地を引払ひて馳せ赴くべき旨返電す」(『西遊日誌抄』)

11月下旬

「十一月下旬(推定) (日不詳)、寺田寅彦と赤坂で芸者をあげる。」

「昭和十四年十一月末、東京で開かれた寺田寅彦の追悼会で、小官豊隆が話す。この箇所は、『坊っちゃん』のうらなりの送別会で、芸者が唄をうたう場面に利用されている。(「寺田寅彦日記」には、十一月が全く脱落している。寺田寅彦の夫人純子が上京して来たのは、十二月二日(土)(推定)である)。「待合」での遊興である。「待合」は、座敷を貸し、芸妓を招き、酒食を好みに応じて取り寄せる。席料は、不通二円以上である。当時は、玉代・祝儀の合計三円五十銭が相場である。「赤坂藝者と稲するは、溜池附近に散在するものなるが、田町通りに最も多し。客は軍人官吏が多しとかや。」 (平山勝熊(編集兼発行者)『東京新繁昌記』明治四十年三月一日 隆文館刊)」(荒正人、前掲書)


つづく


2025年9月25日木曜日

CNNがトランプの国連演説をファクトチェック: 「完全に間違った主張がたくさんありました。それらすべてを検証する時間さえありません。」 / トランプ米大統領は国連総会で演説し、国連を「空虚な言葉」ばかりだと強く非難した。さらに気候変動対策を「信用詐欺」、国境開放は国の破壊を招くと述べるなど、不平を並べ立てた。 / 「私はこの手のことは得意中の得意だ。 あんたらの国は地獄に堕ちるぞ」 / 「みんなが私がノーベル平和賞を受賞すべきだと言っている。」  

 

トランプ@国連 「ロンドンは最悪の市長がシャリーア(イスラム法)を持ち込み、移民と自爆のエネルギーが西側を殺す」 / ロンドン市長サー・サディク・カーン:「私はどうやらドナルド・トランプの頭の中に家賃なしで住んでいるようだ。彼は人種差別主義者であり、性差別主義者であり、女性嫌悪者であり、イスラモフォビアである」   

 

トランプ氏「国連による妨害工作だ」 エスカレーター停止など(毎日) / 「エスカレーター停止」と「テレプロンプターの故障」は、実は両方ともトランプチームのミスによって引き起こされたものであることが発覚。 /   

BBCニュース- トランプ氏、妊婦の解熱鎮痛剤タイレノール使用で「自閉症リスク増える」 証明されていない説を主張 / トランプ米大統領、妊婦のアセトアミノフェン使用と自閉症の関係に言及 「我々の方がよく知っている」(CNN) / 「アセトヴ ... えと ... なんと言うのか ... アセネム ... メノフェン。アセトアミノフェン。これで正しいか?」 アセトアミノフェンはタイレノールの成分名。自閉症の原因になり得ると言いながら、多分、事前に資料を読んでない。(堂本かおる)       

ホワイトハウスの歴代大統領の写真列、バイデン大統領の写真が「自動署名ペン」に置き換えられた。 ← 性格、ちっちゃ!(知ってたけど、ここまでとは、、、)

大杉栄とその時代年表(628) 1905(明治38)年11月14日~20日 幸徳秋水(34)、横浜港から伊予丸で出航、アメリカに向かう。「多くの洋行者は、洋行に依て名を得んとせり、利を射んとせり、富貴功名の手段となせり、此如き洋行者は洋行を以て名誉となせり、愉快となせり、所謂壮遊なるものとせり、我れに於ては然らず、我れの去るは去らんと欲するが故に非ず、止まらんとして、止まる能はざれば也。」

 

幸徳秋水、妻の千代子

大杉栄とその時代年表(627) 1905(明治38)年11月10日~13日 「11月13日、われわれはメンシェヴィキと協力して、大規模な政治機関紙『ナチャーロ(出発)』を創刊した。発行部数は、日をおってどころか、時間をおって拡大した。レーニンのいないボリシェヴィキの『ノーヴァヤ・ジーズニ(新生活)』はぱっとしなかった。それにひきかえ『ナチャーロ』は巨大な成功をおさめた。」(トロツキー『わが生涯』) より続く

1905(明治38)年

11月14日

幸徳秋水(34)、横浜港から伊予丸で出航、アメリカに向かう。留学する医師加藤時次郎長男時也と画家志望の甥幸徳幸衛を同行。

11月29日シアトル着、12月5日SF着。39年6月23日香港丸で横浜港に帰着。

幸徳が外国行きの希望を加藤時次郎に相談すると、加藤は、サンフランシスコぐらいなら旅費と半年か1年の滞在費は出してやろう、と言った。友人たちも、彼の外遊に賛成した。母は国許へ預けることにした。妻千代子の姉須賀子は判事松本安蔵の妻になって金沢に住んでいたので、妻はそこへ預けるか、金の集まり具合では連れて行ってもいいと思った。千代子は国文学の素養が深く、日本画に巧みであった。結局、幸徳は母を郷里の家を継いでいる義兄幸徳駒太郎に預け、駒太郎の息子で東京の自宅に置いていた甥の幸衛を連れて行くことにした。

幸徳は伊予丸でこう書く。

「多くの洋行者は、洋行に依て名を得んとせり、利を射んとせり、富貴功名の手段となせり、此如き洋行者は洋行を以て名誉となせり、愉快となせり、所謂壮遊なるものとせり、我れに於ては然らず、我れの去るは去らんと欲するが故に非ず、止まらんとして、止まる能はざれば也。」

彼は、激しい弾圧により、日本ではこれ以上積極的な展開は出来ないと考えた。彼は、獄中で読んだクロボトキンなどの影響を受け、新しく無政府主義の研究を志し同志の多いアメリカに行って、身体を休めるとともに在留する日本人同志のカを集めるというのが目的であった。

「一貧洗ふが如き我は、何の処より遠遊の資を得しや、・・・。細野次郎君、竹内虎治君。加藤時次郎君。福田和五郎君、小島龍太郎君、幸徳駒太郎君、大石誠之助君、小泉策太郎君、片野文助君、是等の諸君が或は三十円、或は百円と給与せられたもの一千金を得た。」とし、その一半を出獄以後の生活費に充て、その一半は携えて日本を去った、と書いた。

11月14日

堀内紫玉、没。翌年2月「紫玉遺稿」刊行、序文啄木。

11月15日

韓国、伊藤特派大使、再度高宗会見。日韓新協約(保護権設定)について陳説、保護国承認強要、恫喝

午後、林公使は外部大臣朴齊純を公使館に呼出し、条約案文・照会文を手渡し、翌16日に伊藤特使が閣僚に説明すると告げる。

11月15日

ロシア・バルチック艦隊司令官ロジェストヴェンスキー中将一行、神戸港より帰国。

11月16日

韓国、伊藤特派大使、大韓政府大臣をソンタク・ホテルに集め、条約案文を説明。公使館付通訳塩川一太郎が通訳。伊藤は各大臣に意見を求める。反対もしくはすぐには結論がでないという回答。

のち、徳寿宮で御前会議。反対の決心固める。

11月16日

東京市会、警視庁廃止を決議。

11月16日

警視庁廃止期成会、発会式と演説会。江東・伊勢平楼。高橋秀臣(国民倶楽部、旧同志連合会幹部)、肥塚龍(東京参事会員)は弁士中止。松田源治(弁護士、のち文相)ら3人演説。角田真平は途中で弁士中止。江間俊一(東京市参事会)にも中止命令、解散。23日にも「期成同盟会」の政談演説会。

11月17日

(漱石)

「十一月十七日(金)、菓京帝国大学文科大学で Tempest を講義す」(荒正人、前掲書)

11月17日

米大統領宛韓国皇帝親書携えた米人ハルバート、ワシントン着。ルーズベルト大統領会見拒否。

11月17日

韓国、第2次日韓協約(乙巳条約)強制調印

韓国の外交に対する日本の管理指揮、漢城に統監駐在を定め、保護国化する。

23日、公示。各地で反日蜂起・義兵闘争。

30日 侍従武官長閔永煥、憤慨自殺。

この日、歩兵1大隊・砲兵中隊・騎兵連隊、ソウル市内行進。公使館のある倭城台に大砲を引上げ、砲口を王宮に向けさせる。

午前11時、林公使、各大臣を日本公使館に招集、予備交渉。進展せず、御前会議開催要求。

午後3時、諸大臣、参内。林公使も王宮に向かう。王宮周辺は日本軍が警備。御前会議は結論出ず。

午後7時頃、再度協議し、交渉延期を求めることを決める(学部大臣李完用は条文修正を求める意見。数人が同意の様子。参政(総理)大臣韓圭かが反対)。

御前会議終了前、休憩所の林公使は伊藤特使に伝令。やがて、御前会議を終えた閣僚が退出し、中明殿の一室で林公使と再交渉。

この頃(夜8時)、伊藤公使・長谷川好道(大将)駐剳軍司令官・小山三己憲兵隊長・随員らが徳寿宮に到着。日本兵も王宮に入る。間もなく、伊藤特使は中明殿に現れ、各大臣の賛否を問う。参政大臣韓圭かは反対。外部大臣朴齊純は不明瞭、絶対反対でないと見做される。度支部大臣閔泳綺は反対。法部大臣李夏栄は反対。内部大臣李址鎔は反対を唱えず。軍部大臣李根沢も反対せず。学部大臣李完用は条約案文に注文をつけ、伊藤は条約を修正(4項目を5項目とする)。農商工部大臣権重顕は李完用と同じ。

午後11時、「乙巳五賊」と呼ばれる大臣5人の賛成で可決。

午後11時30分、林公使・朴齊純外相記名。

午前1時30分、朴齊純外相、職印押印。

夜、李完用邸焼き討ち。


11月18日

韓国、乙己五賊暗殺計画、事前発覚。容疑者11人逮捕、獄死。群衆が王宮正門(大漢門)に押しかける。商店は休業。

11月18日

清国、立憲大綱の準備を発令。

11月18日

ノルウェー、ホーコン7世、即位(~1957年)。

11月19日

清国で幣制制定。

11月20日

韓国、「皇城新聞」社説、「是日也放声大哭」(主筆:柳瑾)。即日、張志淵社長逮捕。会社閉鎖、~翌年2月。この間に張志淵は社長の座を奪われる。

「大韓毎日申報」も「乙巳保護条約」締結の顛末を詳細に報道。また、英「デイリー・ニュース」特派員エルネスト・ベゼル(同社社長)・梁起鐸・朴殷植・申采浩(シン・チェホ)が特別記事を書く。ベゼルは治外法権を利用して大韓毎日申報社を設立、排日論を展開。高宗もひそかにこれを後押し。


11月20日

西川光二郎・堺利彦ら凡人社設立、西川光二郎・山口義三ら平民社主流派、「直言」の後継紙「光」(半月刊)創刊。キリスト教派分離後の社会民主主義機関誌。

山口「我利主義を正義と称して労働者にアキラメ的道徳を脅迫する内村鑑三氏」。

執筆者:幸徳秋水・森近運平・田添鉄二・片山潜・荒畑寒村・竹内余所次郎・金子喜一・大石禄亭・堺利彦・久津見蕨村・児玉花外・白柳秀湖・大塚甲山・小野有香・土屋窓外・原霞外・岸上克己ら。

日刊「平民新聞」発行準備ができ、明治39年12月29日発展的廃刊。

幸徳秋水「予の感懐(平民社解散に寄せて)」

「▲平民社は解散したり、禁錮、罰金、器械の没収に継ぐに、戒厳令施行、長日月の発行停止及び第二回の罰金を以てせる今日において、平民社を維持せんには、予の財嚢は余りに乏しく、予の健康は余りに衰え、予の才識は余りに疎なりき、慚謝す、諸兄姉よ、予が諸兄姉の寄託に背けるの罪まことに遁るる所なし。

▲然れど結社集会の解散や、新聞雑誌の廃滅や、是れ独り一平民社のみならずして、世界いずれの国の社会主義者といえども其運動の初めに当っては、みな同一の運命に遭遇せざるはなし。彼のカール・マルクスの如き偉人の運動においてすら、その新聞雑誌は幾度か政府の迫害もしくは財政困難のために廃止し亡減し、その結社は幾度か外部の圧迫もしくは内部の紛擾のために解散し分離せるにあらずや、況んや予等、後進の運動にして日浅く人少なき日本社会党が今日あるは毫も怪しむに足らざる也。

▲蓋し万国社会主義の運動は、その集会結社や言論出版や、解散また解散、禁止また禁止、数回、数十回、数百回の困頓磋鉄を経て、漸次にその勢力を増大せるにあらざるはなし。故に我等同志の運動は、ただ忍耐し忍耐し、巓びては起き、巓びては起き、一人倒るれは二人継ぎ、前者殪(たお)るれは後者進んで幾年、幾十年の日月を経て初めてその目的を達し得べきのみ。もしそれ一結社の解散、一雑誌の廃止を見て失望落胆するが如きは、真に我が大主義大理想に対する信念誠意の足らざるに依らずんはあらず。

▲然り、一平民社の解散、一直言の停刊は決して彼等武断政治家の妄想するが如く、世界の大思潮たる社会主義運動そのものを停止し得べきにあらず、もし我等同志の忍耐にして継続し、我等同志の誠意にして鞏固ならんか、一平民社の解散は更に数平民社を生み、一『直言』の停刊は更に数『直言』を生むこと、恰も一団の猛火砕けて教団、数十団の飛火となるが如くならん。

▲果然、木下、安部、石川の諸君は『新紀元』に拠て新たに基督教社会主義を唱道し、西川、山口の諸君、また本誌を以てマルクス派社会主義の運動を続けんとし、……堺君もまた続々社会主義の書籍出版を計画し、……此の如くにして日本社会主義の思想及び運動は、或は陰に或は陽に曾て寸毫もその勢力を減少することなくして、益々蔓延拡張しつつある也。

▲ただ此の如く各地に分布蔓延せる思想と運動とを連絡合同整斉して、以て厖然たる大勢力、大党派となし、日東の政界を席捲するは、一に全国同志諸兄姉の忍耐と誠意とに俟たぎるべからず、然りただ忍耐のみ誠意のみ。」

山口義三;

「山口は二十二、三歳の青年で孤剣と号し、その作るところの長詩短歌、特に小田頼造とともに敢行した社会主義伝道行商の日記は、週刊『平民新聞』および『直言』 に連載されて、同志には馴染の深い名であった。しばしば開かれた社会主義演説会で、彼の熱烈火の如き雄弁に魅せられた者も少なくはないだろう。彼が郷里下の関を出でて東京に遊学中のある日、本郷のキリスト教会の前を通ると「信ずるか信ぜざるか 牧師宮崎八百吉」と記された立看板が眼についた。宮崎八百吉は湖処子と号し、その著書『帰省』は当時、洛陽の紙価を高からしめたものである。山口は湖処子の風丰(ふうぼう)を見たい好奇心から傍聴したのだが、その説教を聴いてたちまち其場で入信し、熱烈なキリスト教信者となった。だが、彼はやがてトゥルゲーニェフの小説『父と子』の主人公バザーロフの如く、ビュヒネルの『物質と勢力』を読むに及んで翻然として信仰を一擲し、社会主義に改宗したのである。後日、平民社に出入するようになった時、彼はすでに『社会主義と婦人』および『破帝国主義論』の二小著を有していたが、それにはまだ「万軍の主エホバ」云々というような、旧信仰の名残をうかがわせる辞句がのこっていた。毎週土曜日の午後、定連の同志が平民社に集まって刷り上がって来た『平民新聞』を発送したあと、一同会食の際に幸徳秋水がキリスト教の非科学性などを指摘して揶揄すると、まだ完全にキリスト教の影響を脱しきらぬ山口は、「それは先生がまだ新神学を知らないからです」などとムキになって抗弁するのを、一同おもしろがって唆(け)しかけたりしたものである」(荒畑『続平民社時代』)


11月20日

(漱石)

「十一月二十日(月)、東京帝国大学文科大学で、午前十時から十二時まで「十八世紀英文学」を講義する。」(荒正人、前掲書)


つづく


2025年9月24日水曜日

鎌倉 英勝寺の彼岸花三分咲き ハギ満開 大巧寺のタマスダレ 路傍のシコンノボタン サルスベリ ツユクサ 2025-09-24

 9月24日(水)晴れ

まだ彼岸花三分咲きは了解してるんだけど、待ちきれずに鎌倉、英勝寺に行ってきた。

きれいにしっかり咲いている。







▼萩は満開

▼書院


▼大巧寺のコムラサキ

▼タマスダレ

▼路傍のシコンノボタン

▼サルスベリまだまだ元気

▼今日の空

▼まだツユクサが(自宅近く)

大杉栄とその時代年表(627) 1905(明治38)年11月10日~13日 「11月13日、われわれはメンシェヴィキと協力して、大規模な政治機関紙『ナチャーロ(出発)』を創刊した。発行部数は、日をおってどころか、時間をおって拡大した。レーニンのいないボリシェヴィキの『ノーヴァヤ・ジーズニ(新生活)』はぱっとしなかった。それにひきかえ『ナチャーロ』は巨大な成功をおさめた。」(トロツキー『わが生涯』)

 

トロツキーが創刊した『ナチャーロ』

大杉栄とその時代年表(626) 1905(明治38)年11月1日~9日 森近運平一家、この頃から1年近く、東京・神田三崎町でミルクホール「平民舎」を経営しながら社会主義活動をしている。 より続く

1905(明治38)年

11月10日

韓国、伊藤特使、林権助日本公使らと徳寿宮で高宗と会見。

11月10日

安部磯雄・石川三四郎・木下尚江らキリスト教社会主義派、新紀元社設立、「新紀元」(月刊)創刊

内村鑑三「新紀元の発刊を祝す」。

執筆者:徳富蘆花・大川周明・赤羽一・内村鑑三・斯波貞吉・高島米峰・山口孤剣・小野有香・幸徳秋水・金子喜一ら。

1906(明治39)年11月10日終刊(平民社再興気運の中で、石川がこれに参加の意向、安部は継続を望むが木下が社会主義に疑念を持ち始める)。

菊判48頁、12銭。編輯には石川三四郎があたり、安部と木下は編輯顧問になった。

第1頁に「巻頭の祈」が、「神よ、今筆を執りて又爾の栄光に跪く。希くば我心を開きて爾の愛と力に満つることを得せしめ給へ」と印刷される。

また次の予告が掲載された。

「小説『黒潮』第二篇を掲載するにつきて/三年前拙著小説『黒潮』の第一篇を公にせし以来、余は殆んど一行をも書かずして今日に到れり。今や我日本人民は北の巨人を相手の拳闘より起ちて、砂を払ひ、汗を拭ひ、嘯(うそぶ)いて世界環視の中に立たんとす。彼の歴史は確か、に一時期を劃するなり。『新紀元』の此時を以て生るゝも亦偶然にあらずと謂はむ歟。/此誌上に於て拙著小説の稿を続ぐを得るは余の窃に喜ぶ所なり。/恐らくは、依然たる低級の芸術、生硬、粗笨、浅薄の旧態を脱する能はざらんことを。/十月廿日秋雨コスモスの花に灑ぐ夕/原宿の僑居に於て/蘆花生」

徳富蘆花は、この雑誌に賛意を表し、作品をここに掲載する決意をした。そして12月号に「黒潮」第二篇の一・二が掲載された。蘆花はこの時数え年38歳。

彼は迷っていた。社会主義者の群に加わったが、自分にその資格があるのか?無産労働者でなければ真の社会主義者たり得ない、との反省が絶えず彼を苦しめていた。また、自分は兄と絶縁していていいのだろうか? 「国民新聞」が襲撃されたことを白眼視したまま、何の同情も示さなかった自分が正しかったのか?


11月10日

この時点でロシア軍捕虜、国内26ヶ所の収容所、総計71,947人。

ロシア人負傷者・俘虜に対する日本の寛大な処置を讃える海外メディア特派員の記事は数多い。

11月10日

「帰還俘虜取扱方」(「東京朝日」)。

陸軍は俘虜帰還者取扱規則により、当該所管長官が審問会議に付し取調べ。放免か軍法会議か行政処分かの結論が出るまで外出の自由なし。

社説「言論自由と政府」(「東京朝日」)。

「神戸クロニクル」が緊急勅令存続で新聞を取締るのは憲法を反古にする手段との主張を引用。

11月10日

日米間著作権保護に関する協約、同上協約第3条の解釈に関する交換公文調印。1906年5月10日、実施。

11月10日

この日、漱石は、新学年に出て来ず、胃病と神経衰弱の治療のために、広島から瀬戸内海の小さな島へ移り住んだ鈴木三重吉に手紙を書く。

「三重吉さん一寸申上ます。君は僕の胃病を直してやりたいと仰やる御心切は難有いが僕より君の神経病の方が大事ですよ早く療治をして来年は必ず出て御出でなさい。僕の胃病はまだ休講をする程ではないですが来年あたりは君と入れ代りに一年間休講がして見たいです。・・・

「君は島へ渡ったさうですね。何か夫を材料にして写生文でも又は小説の様なものでもかいて御覧なさい。吾々には到底想像のつかない面白い事が沢山あるに相違ない。文章はかく種さへあれば誰でもかけるものだと思ひます。・・・僕は方々から原稿をくれの何のと云つて来て迷惑します。僕はホトゝギスの片隅で出鰭目をならべて居れば夫で満足なのでそんなに方々へ書き散らす必要はないのです。・・・文庫といふ雑誌の六号活字がよく僕のわる口を申します。・・・文章でも一遍文庫へ投書したらすぐ褒め出すでせう。・・・段々秋冷になりました。今日は洋服屋を呼んで外套を一枚、二重廻を一枚あつらへました。一寸景気がいゝでせう。猫の初版は売れて先達印税をもらひました。妻君曰く是で質を出して、医者の薬札をして、赤ん坊の生れる用意をすると、あとへいくら残るかと聞いたら一文も残らんさうです。いやはや。一寸此位で御免蒙ります。」


「十一月十日(金)、東京帝国大学文科大学で、 Tempest lを講義する。

内田貢(魯庵)から小沢平吾について、注憲を促す手紙来る。

十一月十一日(土)、古城・天鳳(不詳)来て、小沢平吾に高い絵をかたられたことを話す。野間真綱宛葉書に、小沢平吾は、文科大学助教授文学士と称して諸々をだましている詐欺師だと昨日内田魯庵の注意で知った、また自分の名前も方々へ行って触れ回っているとのことだ、なぜあんな人物を紹介してきたのかと書く。」(荒正人、前掲書)

11月11日

警察、9月5日国民大会主催の河野広中・大竹貫一・山田喜之助・桜井熊太郎ら6人を兇徒嘯聚罪で拘引。

12月19日、東京地裁予審結果。河野・大竹・小川・桜井・佃信夫の5人は12月2日の保釈取消し、東京地裁重罪裁判所に付され、山田・細野は免訴。

11月11日

ロシア、セバストポリで軍隊反乱。政府軍が鎮圧。

11月12日

横浜・神戸・長崎よりロシア汽船による捕虜送還開始。翌年2月19日迄に7万9,454人の送還完了。日本人捕虜の帰国は翌年4月28日迄に2,045人完了(死亡28、残留31を除く)。

11月12日

この日のペテルブルク・ソヴィエト会議、「即刻の、あらゆる場所での8時間労働」は一時的に中止せざるを得なく、この間題の解決には全ロシア的規模での労働者の組織化が必要であると強調した。

ソヴィエトは多数の失業者の救済や工場再開を企業家、政府に要求することに力をそそいでいた。この窮境をゼネストで打開しようとする意見もあったが、多数の支持は得られなかった。全ロシアのソヴィエト、労働者組織との連絡を強化する努力がこの段階でとりあげられたが、大きな成果は得られなかった。

11月13日

中国の廬漢(京漢)鉄道開通。

11月13日

(漱石)

「十一月十三日(月)、東京帝国大学文科大学で午前十時から十二時まで「十八世紀英文学」を講談する。

野村伝四から真砂座へ誘われていたが、都合悪く葉書で断る。」(荒正人、前掲書)


11月13日

トロツキー(26)、メンシェヴィキと協力して大衆的政治機関紙「ナチャーロ(出発)」創刊。部数は拡大。

この頃、ボルシェヴィキの「ノーヴァヤ・ジーズニ(新生活)」は振るわず。また、この頃、トロツキー、パルヴスと協力して「ルースカヤ・ガゼータ(ロシア新聞)」発行。更に、ペテルブルク・ソヴィエト機関紙「イズヴェスチア」にも社説掲載。

「「ナチャーロ」創刊号が出た。われわれは闘争の同志に挨拶を送る。創刊号において注目を引くのは、11月ストライキに関する同志トロツキーのすばらしい論文である」(「ノーヴァヤ・ジーズニ」)。

「ノーヴァヤ・ジーズニ」はレーニンが到着した後もトロツキー論文を擁護。両新聞・両分派は統一に向って動き出す。ボルシェヴィキ中央委員会は、分派は亡命という条件下で生れた結果と決議。


「ペテルブルク・ソヴィエトでは、私は、自分の生まれた村にちなんでヤノフスキーと名乗っていた。印刷物にはトロツキーと署名していた。私は3つの新聞で働いていた。パルヴスといっしょに『ルースカヤ・ガゼータ(ロシア新聞)』という小規模な新聞の編集部を掌握し、それを大衆向けの戦闘的機関紙に変えた。同紙の発行部数は、数日のうちに3万部から10万部に拡大した。1ヵ月後には、注文部数は50万部になった。しかし、印刷技術が部数の増大に追いつかなかった。そして結局、この困難からわれわれを救い出してくれたのは、政府による弾圧であった。

11月13日、われわれはメンシェヴィキと協力して、大規模な政治機関紙『ナチャーロ(出発)』を創刊した。発行部数は、日をおってどころか、時間をおって拡大した。レーニンのいないボリシェヴィキの『ノーヴァヤ・ジーズニ(新生活)』はぱっとしなかった。それにひきかえ『ナチャーロ』は巨大な成功をおさめた。思うに、それは、この半世紀に現われたいかなる刊行物よりも、その古典的原型たる、1848年におけるマルクスの『新ライン新聞』に似ていた。当時、『ノーヴァヤ・ジーズニ』の編集部にいたカーメネフは、後年、私にこう語っている。鉄道での移動中、彼は各駅の売り子が着いたばかりの新聞を売っているのを眺めていた。ペテルブルクからの列車が到着すると、駅には長蛇の列ができていた。お目当てはもっぱら革命的刊行物であった。

 『ナチャーロ、ナチャーロ、ナチャーロ!』と列の中から声がかかった。『ノーヴァヤ・ジーズニ!』。するとまたもや、『ナチャーロ、ナチャーロ、ナチャーロ!』。

 『当時』、とカーメネフは告白した――『僕はくやしい思いを抱きながらもこう自分に言い聞かせたものだ。なるほど、『ナチャーロ』の連中は、われわれよりも優れた記事を書いているんだ、とね』。

私は、『ルースカヤ・ガゼータ』と『ナチャーロ』以外に、ペテルブルク・ソヴィエトの公式機関紙『イズベスチヤ(通報)』の社説を書き、さらにまた、多数のアピール、宣言、決議を書いた。最初のソヴィエトが存在していた52日間、ソヴィエト会議、執行委員会、絶え間ない会合、3つの新聞への執筆などで、ぎっしり仕事がつまっていた。この渦の中でいったいどうやって日々を過ごしていたのか、今となっては私自身にもはっきりしない。過去のこととなると、多くのことがわからなくなるものである。なぜなら、記憶から当事者の能動性の要素がすっぽり抜け落ちてしまい、自分自身を横から眺めることになるからである。そして、われわれはこの時期、十分すぎるほど能動的だったのだ。われわれは渦の中をぐるぐる回っていただけでなく、渦そのものをつくり出していた。あらゆることが駆け足で行なわれたが、結果はそれほど悪くはなく、非常にうまくいったことも多々あった。『イズベスチヤ』の名目上の編集長である老民主主義者のD・M・ゲルツェンシュテイン博士は、黒いフロックコートを申し分なく着こなして、時おり編集局に立ち寄り、部屋の中央に立って、愛情のこもったまなざしでわれわれの混沌ぶりを眺めていた。1年後、彼は、自分がいかなる影響力も持っていなかった新聞の革命的狂乱の責任を問われて法廷に立たされるはめになった。老人はわれわれとの関係を否認しなかった。それどころか彼は目に涙を浮かべて、われわれが、最も人気のあった新聞を編集しながら、仕事の合間に、門番が近くのパン屋から紙に包んで持ってきてくれた干からびたピロシキで飢えをしのいでいたことを、法廷で語った。そして老人は、敗北に終わった革命と、亡命仲間と、干からびたピロシキのために、1年の禁固刑を言い渡されたのである…。」(『わが生涯』第14章「1905年」より)


つづく

2025年9月23日火曜日

横浜みなとみらい、ランドマークプラザの「美濃吉」さんで今年初の松茸 2025-09-22

 9月22日(月、昨日) 晴れ

ようやく秋の到来を感じられる気候になってきた。

今年初の松茸の料理を、横浜みなとみらい、ランドマークプラザの「美濃吉」さんで戴きました。

一年にそうは何度もない、長男・次男を入れての外食だった。

お酒は(写真に無いけど)京都の「玉の光」。





チャーリー・カークの追悼式。X のリベラル系インフルエンサーたの遠慮ない批判を一部ご紹介(Mystery Parrot (ミスパロ)さんのツイートより)。 / 雰囲気は「プロレス団体​ WWE のショー」。さらに画面下のテロップでグッズの宣伝が行われた点もいかにも MAGA イベント。 / 巨大スクリーンの目立つところに現在アメリカで最も悪名高い会社「パランティア」の広告 / 保守派論客ベニー・ジョンソンは、チャーリー・カークの死を「神のための犠牲」と呼び、居並ぶ閣僚たちに「統治者たちよ、悪に対して剣を振るえ」と呼びかけ、、、などなど