2025年9月2日火曜日

大杉栄とその時代年表(605) 1905(明治38)年9月2日~4日 台湾総督民政長官後藤新平、奉天着。 満州軍総参謀長(兼台湾総督)児玉源太郎に「満州経営策梗概」を説明、賛意を得る。児玉・後藤の台湾統治コンビが日露戦争後の満州経営方策を立案。協議後、後藤は視察旅行に出る。鉄嶺~昌図~前線、営口・天津・北京、大連・旅順、安奉軽便鉄道で韓国へ。 9月27日釜山発、28日門司着。

 

後藤新平

大杉栄とその時代年表(604) 1905(明治38)年9月1日 各新聞、一斉に日露講和条約反対の論陣  「大阪朝日新聞」 第1面真ん中に黒枠。中に「請和条件」と見出し。「…一切日本の譲歩のみにして、吾人はこれを急報するを恥ず。今御用紙国民新聞の報じたる講和否請和条件なる者を左に掲ぐ」と記し、「国民新聞」記事を転載。その下、紙面の1/4の大きさで折れたサーベルを前に草むらに転がるしゃれこうべ、その目から涙。 社説「天皇陛下に和議の破棄を命じ給はんことを請い奉る」は、未調印の講和条約破棄を天皇に願い、「重ねて軍人に命ずるに進戦を以てしたまわんことを」と、戦争継続を要望。 より続く

1905(明治38)年

9月2日

清国、翌年からの科挙廃止を決定。

〈清国に日本留学ブーム〉

弘文学院が開校した1902(明治35)年、清国から500人の留学生が来日し、日本にいる清国人留学生は600人となった。

翌年、倍の千人が来日し、1904(明治37)年には1,300人が来日した。

1905(明治38)年、日本が日露戦争に勝利して日本への関心が一気に高まり、同年、清国で300年続いてきた「科挙」制度が廃止され、日本留学ブームに一気に火が付いた。立身出世に不可欠な資格であった「科挙」試験がなくなり、海外留学を立身出世の資格とみなし、「洋科挙」と呼ぶ者もいたほど。

この年(明治38年)の日本にいる清国人留学生は約8千名、翌1906(明治39)年には約1万2千名に急増した。

留学生は、まず東京にできた日本語学校に入学して半年から1年間ほど日本語を学び、その後、早稲田、法政、慶應などの東京を中心とした私学を目指すのが一般的だった。東京や九州、京都、東北、北海道などの帝国大学へ入学するには、まず難関の高等学校に入学しなければならず、合格者はごく限られていた。その点、私学には短期育成の「清国留学生部」や「専門部」が特設され、1、2年だけ学んで帰ろうという学生の受け皿になった。私学の「本科」へ正式入学するには勉強に専念しなければならず、進学したのは全留学生総数の半分にも満たない。その他、軍事教育を専門に行う振武学校や成城学校もあり、軍事教練と基礎教育を受けた後、試験を受けて陸軍士官学校へ進学するのだが、難関の試験に合格する者はほんのひと握りだ。そうした中で、早稲田大学は人気の的であった。もっとも、大学に入っても、無事卒業まで至る留学生はそれほど多くはなかったようだ。

9月2日

「講和問題同志聨合会」(会長:元衆議院議長・憲政本党代議士河野広中)、幹部会で5日に国民大会開催決定。

実行委員:小川平吉(政友会代議士)・桜井熊太郎(弁護士)・垣屋盛服(弁護士)・大竹貫一(無所属代議士)・村松恒一郎(「東京朝日」記者)・細野次郎(元弁護士)・高橋秀臣(神田区議会議員)・大谷誠夫(「都新聞」記者)。

9月2日

この日付の桂より山縣への手紙。

「講和談判始末には、…随分騒敷、壮士政客の挙動に付ては、左迄心配仕候事も無之候(予め内田らとは話をつけたと暗示?)。

9月3日

大阪中之島公会堂、講和反対市民大会。5千人。商業資本家・綿布業者・紡績経営者主導。

座長:大阪府会議長三谷軌秀。市会議長「戦争継続・日露講和条約破棄」要求宣言書読上げ。

9月3日

木下尚江(筆名「罵花生」)「お鯉の為に泣く」(「毎日新聞」)。各紙が極悪人と書きたてる中で、尚江はお鯉を弁護。

9月3日

『直言』第31号発行。

「今後の平民社」を発表(8月29日夜の木下、堺、幸徳、石川による相談結果)。

(一)平民社は今後、木下、堺、幸徳、石川の会議と連帯責任で経営される。

(二)木下、堺、幸徳は無給ではたらく。

(三)新開の販売と書籍の出版とを分離し、書籍出版に関する債権債務は一切、堺が引受ける。

(四)平民社は『直言』だけの独立採算で経営する。

また堺は別に「由分社」を設けて出版による生計を図り、幸徳は病気療養を兼ねて海外の見聞を得るため、しばらく外遊することも決定発表された。

「国際的連合と愛国心とは果して両立すべきか否か、また社会主義者は現在の防衛戦争に参加すべきか否か」

イタリア社会党首領エンリコ・フェリの主張。

「予は予の家庭を愛し、予の生まれたるマンツー県およびロンパルディー州を愛し、イタリー共和国を愛す。しかし予の愛国心は、予が熱烈な社会主義者として人道を愛することを妨げない。予の愛国心は戦争を以て野蛮時代の遺物となし、平和の進歩を以て個人的、国民的、世界的幸福の唯一の保全者とする人道の戦士たることと、毫も矛盾しないのである。人道の愛と一致せざる、いわゆる国家主義と称せられるものは、愛国心の堕落したものにほかならない。

愛国心と世界主義とは完全に調和するが、しかし国家の愛を傷うがごとき過度の世界主義は、はなはだ有害なるを免がれぬ。なぜなら、人道の多面的進歩に極めて必要な国民的天才を、個々に発達させるのを妨害することがあるからである。しかし忘れてならぬ一事は、国家はダンテの言ったごとく『一民命令して一民凋衰する』の事実あることである。故に社会主義者は被圧制者、被掠奪者の解放を以て、国家の独立を図ると同様に、高尚にして偉大な義務としなければならぬ。

軍国主義に対する社会主義者の態度は、極力これに反抗する以外には存しない。戦争は権利を否認する太古の蛮的勢力であって、その目的、その方法はただ盗奪と殺人とあるのみ。戦争は破壊であり、濫費である。世界的関係における社会主義者の任務は、国民的関係におけると異なるところなく、個人間の団結と国民間の団結との教導者たるにある。盗賊、殺人、凌辱等のごとき個人的罪悪、および戦争、掠奪、植民等のごとき社会的罪悪の世界をして、労働と友愛との世界に変えるにある。

もし予の家が盗賊に襲われた時は、予は死に至るまで予と家族のために防衛するであろう。もし予の本国が征服者の軍隊に襲われた時は、予は死に至るまでこれと戦うであろう。だが、もし政府者と称するわが国のブルジョアジーが、他国民の国土を掠奪することあらは、予は絶対に服従を拒絶するであろう。」

9月4日

台湾総督民政長官後藤新平、奉天着。

満州軍総参謀長(兼台湾総督)児玉源太郎に「満州経営策梗概」を説明、賛意を得る。児玉・後藤の台湾統治コンビが日露戦争後の満州経営方策を立案。協議後、後藤は視察旅行に出る。鉄嶺~昌図~前線、営口・天津・北京、大連・旅順、安奉軽便鉄道で韓国へ。

9月27日釜山発、28日門司着。

9月4日

国民大会中止命令を想定して、集会届を直前のこの日に提出。内田良平の指摘で主催者を大会実行委員でない高田三六とし、その高田を隠す。大会実行委員の小川平吉・河野広中・大竹貫一らは形の上で委員を辞める。

深夜、向田麹町署長が、国民大会を禁止させるべく名義人高田三六のもとに巡査を派遣するが不在。代って委員の高橋秀臣を召喚して大会中止を申し入れるが、高橋は拒否。午前0時過ぎ、小川代議士にも出頭命令。不在。

撒布されたビラ

「来れ憂国の士。/十万の忠魂と二十億の負担とを犠牲にしたる戦捷の結果は千載不拭の屈辱と列国四囲の嘲笑とのみ、鳴呼是れ果して何人の罪そや。・・・」

新聞各紙の掲載された翌日の国民大会のスケジュール

一、九月五日午後一時より日比谷公園に於て全国民大会を開く同志の士ハ何人も参会差支なし

一、右大会終りて同二時より京橋区新富町新富座に於て政談演説会を開く

一、右演説会終て同所に於て大懇親会を催ほす(懇親会費金二十銭)


このスケジュールを見ると、主催者側もさほど大きな集会になるとは考えていなかったことがわかる。国民大会と呼称していても、一時間の枠しか考えていない。しかもその後の新富座の演説会はさらに小規模なものと想定している。主催者側は紙製の連隊旗に黒リボンをつけた弔旗五千本を参加者に配る予定だった。とすればおよそ五千人の参加者を見込んだはずだが、新富座まで二キロ強の距離の移動時問を考えると、国民大会自体の開催をさほど重く見ず、演説会を主体にしていたと思われる。

9月4日

河野広中、宮内省に講和問題同志連合会総代として上奏文を奉呈。桂内閣告発、天皇に講和破棄の決断願う。

9月4日

(漱石)

「九月四日(月)、寺田寅彦から、『一夜』(『中央公論』九月号)の感想を葉書で伝えられる。」(荒正人、前掲書)

9月4日

フィリピン、特別州法制定。


つづく

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