2025年9月3日水曜日

大杉栄とその時代年表(606) 1905(明治38)年9月5日 日比谷焼打事件① 〈日比谷焼打事件の概要〉 藤野裕子『民衆暴力 ― 一揆・暴動・虐殺の日本近代』(中公新書)による

 

警察・教会の焼打伝播

大杉栄とその時代年表(605) 1905(明治38)年9月2日~4日 台湾総督民政長官後藤新平、奉天着。 満州軍総参謀長(兼台湾総督)児玉源太郎に「満州経営策梗概」を説明、賛意を得る。児玉・後藤の台湾統治コンビが日露戦争後の満州経営方策を立案。協議後、後藤は視察旅行に出る。鉄嶺~昌図~前線、営口・天津・北京、大連・旅順、安奉軽便鉄道で韓国へ。 9月27日釜山発、28日門司着。 より続く

1905(明治38)年

9月5日 日比谷焼打事件①

〈日比谷焼き打ち事件の概要〉


事件が起きた一九〇五年(明治三八)九月五日は、日露戦争の講和条約であるポーツマス条約が調印される予定だった。この日の昼に日比谷公園で、講和条約の破棄を求める国民大会(政治集会)が開かれた。参加者は二、三万人といわれる。

この国民大会の開催に端を発して、東京市内にまで広がる暴動が起きた。たった二晩で東京市内の警察署二ヵ所、分署六ヵ所、派出所・交番所二一四ヵ所が焼失したとされる(松本武裕『所謂日比谷焼打事件の研究』)。放火にまでいたらずとも襲馨の対象になった派出所を含めると、その数はさらに多くなる。鎮圧のために、五日の夕方から軍隊が出動し、七日には戒厳令が一部施行された。」


「日本は明治初年の段階から東アジア地域に進出しはじめ、明治中期には朝鮮半島での内乱への介入を幾度も試みた。一八九四年(明治二七)に日清戦争、一九〇四年(明治三七)には日露戦争を起こした。日露戦争は日清戦争に比してはるかに規模が大きかった。動員兵力は地上戦で一〇九万人にのぼり、戦死者は約八万四〇〇〇人といわれるが、これらはそれぞれ日清戦争の約四・五倍、六・五倍にあたる。戦費は約二〇億円にもなった。・・・・・

産業面では、日清戦争期に繊維工業が、日露戦争期に鉄鋼などの重工業が大きな進展を遂げたことはよく知られている。こうした新たな産業の発達は、都市部を中心に社会のあり方を変えていった。また、戦争報道への強い関心から、メディアが急速に発達し、新聞・雑誌の購読者数は飛躍的に伸びた。

政治面でいえば、自由民権運動に突き動かされるように一八八九年(明治二二)に大日本帝国憲法が制定され、帝国議会が開設されたが、衆議院議員選挙法では高額納税者の男性のみに選挙権が与えられ、有権者は全国の人口の一〜二%にとどまった。したがって、日清・日露戦争期の男性の多くは、二つの戦争を乗りきるための兵役・納税の義務を負う一方で、選挙権がなかったのである。

こうしたなか、日露戦争が終結する際に首都東京で起きたのが、日比谷焼き打ち事件であった。」


「九月五日の最初の暴力行使は、国民大会の直前に日比谷公園で繰り広げられた警官と群衆との衝突から始まった。馨視庁は前日に国民大会の開催禁止を決定していたが、当日は午前中から多くの人びとが日比谷公園に集まりはじめた。制止しきれなくなった蕾蕪は、木棚を設けて公園の正門を封鎖した。この封鎖に対して、人びとは猛然と抗議し、警官に向かって罵声を浴びせ、石を投げるなどした。

国民大会終了後、参加した人びとの多くは、政府の御用新聞と批判された『国民新聞』を発行する国民新聞社を襲撃し、屋内の機材や輪転機を破壊した。一方、日比谷公園を出てすぐの場所にあった内務大臣官邸でも、蟹官との大規模な衝突が起こった。窮地に陥った欝官がサーベルを抜いて人びとに斬りつけたことが、事態を激化させた。これを契機として、人びとが内相官邸の敷地内にある建物に放火するまでに発展したのである。

夕方過ぎに軍隊が出動することで、七時間にわたる内相官邸前での攻防は終わったが、それでも人びとの暴力行使は止まらなかった。内相官邸付近の派出所に放火したのを皮切りに、芝区(現在の港区)方面に向かった一団、京橋区から深川・本所区へと向かった一団、同じく京橋区から日本橋・神田区方面に向かった一団に分かれて、大通り沿いを中心に派出所を次々と襲撃したのである (地図)

五日に始まった欝案の焼き打ちは夜明けとともに一旦収束したが、六日の日中から再び内相官邸で暫官との衝突が起き、そこから路面電車の破壊と放火が始まった。座席の布を破り、中綿に石油を撒いて火を付けると、たちまち炎があがった。人びとは計一一台の車両に火を付け、ワッジョイのかけ声とともに、燃え上がる車両を内相官邸付近に移動させた。

六日には、浅草公園周辺のキリスト教の教会が焼き打ちされ、浅草区・本所区・下谷区・日本橋区の教会が襲撃された。日本基督教会の機関紙『福音新報』の報告によれば、教会と関係建物二一ヵ所が襲撃され、八ヵ所が焼き打ちされた。」


「暴動の場は決して無秩序ではなかった。新聞や判決文には、住宅と接している場所で派出所を焼き打ちしまうとした際、近隣の住民から類焼の可能性を指摘されたところ、派出所内部の器材を破壊し、それらを大通りまで運んで燃やしたと記されている (『都新聞』九月七日)。暴動に参加した人びとは、路上でやみくもに暴れていたわけではなかった。近隣住民と最低限の合意がとれる範囲で暴力をふるっていたのである。

もう一つ重要なのは、焼き打ちが広がるにつれ、焼き打ち集団には、暴動の発端であった国民大会に参加していない人が含まれていたことである。派出所の焼き打ちが起きたことを聞きつけて見物に行き、集団に付いていくうちに、自らも積極的に破壊しはじめるパターンである。その一方で、離脱者も多かった。判決文で被告の行動をたどると、多くの参加者は焼き打ちに加わった区の隣接区で行動を終えている。

つまり、焼き打ちの集団はメンバーが徐々に入れ替わりながら、東京市内を移動していったのである。焼き打ちという行為が、異なる人の手から手へとリレーされるように、東京の街路を移動していった。

・・・・・日比谷焼き打ち事件の大きな特徴は、屋外での政治集会によって群集状態がつくられたのを機に暴力行使が始まり、人員を替えながら焼き打ちがリレーされていった点にある。見知らぬ者同士の、その場限りの集団だけに、結束力は弱かった。警官の説諭によって解散するケースも見られた。反対に、警官がサーベルを抜いて焼き打ち集団を鎮圧しようとすると、共通の敵ができたことにより、一つの派出所が繰り返し襲撃された。」(藤野裕子『暴力 ― 一揆・暴動・虐殺の日本近代』(中公新書))

〈国民大会主催者の小川平吉の問題意識〉

「昨年のボーッマウス条約の締結の報が伝わりました時分に、日本全国何れの所にもモウ戦争は嫌になった、戦争で死ぬのは犬死であると云うような、実に不都合極まる、不祥極まる言語を聞きましたのであります。其当時は吾々は此言葉を聞いて非常に心配し、且非常に恐れました。国民が戦争に行くことに嫌になり、死ぬることが嫌になると云うような事では、国の基礎と云うものが破壊せらるると云わなければならない。(『鳴呼九月五日』)」


「・・・・・日露戦争の戦費は多額であったが、それをまかなうために内国債・外国債が発行されたほか、非常特別税として直接国税や酒税・砂糖消費税が臨時に増税された。大量の外国債の発行は、国内の物価の高騰を招き、そこに増税も加わって、特に都市の貧困層に大きな負担がのしかかった。

それにもかかわらず、日露戦争が二年にわたって繰り広げられたのは、人びとと戦争とをつなぐ経路があったからである。・・・・・インターネットやテレビ放送などのない時代に、遠くで行われた戦いに対して多大な犠牲を払うまでに、人びとが戦争を間近に感じる経路は何たったのだろうか。

一つは、新聞・雑誌による報道である。速報性のある新聞、従軍記者などの手による臨場感あふれる記事が載る雑誌によって、人びとは戦況を知り、一喜一憂した。田山花袋が従軍記者として記事を書いた博文館の『日露戦争実記』や、国木田独歩が編集長だった『戦時画報』は、戦争報道に特化した雑誌として知られる。日清・日露戦争をとおして、雑誌を定期購読するという慣習が日本に広まった(永嶺重敏『〈(読書国民〉の誕生』)。

新聞も日清・日露戦争期に購読者層を拡大させた。高尚な政治議論を売りにする知識人層向けの「政論新聞」ではなく、労働者層をターゲットに、政治的なスキャンダルや社会問題などをやさしく伝える『万朗報』『二六新報』などの「民衆新聞」がこの時期に登場した。

それらに加えて、戦争とメディアを考えるうえで重要となるのは、号外である(岸本亜季「日露戦争期の都市における多衆行動の一背景」)。売り子によって路上で安価に売られた号外は、大通りを行き交う人の足を止めさせ、すぐさま戦況を知るためのツールとなった。

号外を買おうとして路上に人だかりができ、買った人びとがその場で号外を読みながら感想を言い合う。大都市の街頭は戦況を知るための情報空間であり、それをめぐって談議する政治空間であった。」


戦争と国内の人びとを一体化させる経路のもう一つは、「祝う」ことであった。日清戦争で盛んに行われ、将棋倒しのすえに死者まで出した提灯行列は、日露戦争でも各地で行われた。東京では、仁川沖戦勝・九達城占領・金州占領・遼陽占領・旅順開城・奉天占領・日本海海戦の戦勝など、戦勝報道が入るとともに提灯行列・視勝会が開かれた。

(略)

東京でも夜の街頭の灯は現在に比して乏しかったから、提灯を持つ集団の明るさは際立ち、見知らぬ者との間に昂揚感と一体感をもたらした。その一体感は国の戦勝を祝う「国民」としての一体感にほかならない。

国の勝利を祝うという行為は、提灯行列による昂揚感とともに、戦争に人びとの意識を向けさせる一つの経路となった。」


「日露戦時下に急速にふくれあがったナショナリズムは、・・・講和条約の締結を機に一挙に厭戦ムードへと傾いた。戦時下の非日常的なお祭り気分の昂揚感に支えられていたからこそ、膨らんだ風船がほじげろように、人びとの内面に空しさと馬鹿らしさが湧いたと考えられる。そして、戦時下のお祭り騒ぎのエネルギーは、そのまま講和反対のエネルギーへと転化した。

講和条約締結の報道が始まって以降、銀座・新橋・浅草などの電信柱や日比谷公園の樹木には、数々の貼り紙が貼られた (藤野裕子『都市と暴動の民衆史』)。「桂首相以下の閣臣ならびに元老の首を刎ねて天下にとなえん」、「内閣を転覆せよ」、「〇〇〇を斬殺すべ」、単純で刺激的な文言が街頭におどった。こうした貼り紙を囲んで通行人が騒いでいたとも報じられている。

さらには、講和条約の成立を「弔う」 ために、白張提灯行列を企画する者も現れた。・・・これまで日の丸のついた祝勝提灯を持って行列を行っていた人びとが、葬礼用の提灯に持ち替えて、講和条約を「弔う」ことで講和反対のデモンストレーションを試みようとしだのである。・・・・・

(略)

戦時下の提灯行列がそうであったように、日比谷公園を起点として白張提灯行列が行われようとしていた。

・・・・・大都市の路上が政治的空間であった・・・・・講和反対の意思表示として、多くの人びとの集合行為が路上に現れやすい条件が戦時下にできていた。(藤野裕子『民衆暴力 ― 一揆・暴動・虐殺の日本近代』(中公新書))


つづく

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