2013年3月14日木曜日

ナオミ・クライン『ショック・ドクトリン』を読む(64) 「第5章 まったく無関係 - 罪を逃れたイデオローグたち -」(その4)

江戸城(皇居) シナミザクラ 2013-03-12
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ナオミ・クライン『ショック・ドクトリン』を読む(64) 
「第5章 まったく無関係 - 罪を逃れたイデオローグたち -」(その4)

生き長らえた新自由主義:被害は独裁政権によるものよりも大きいのに・・・
 独裁政権下のラテンアメリカに深く根を下ろした過激な経済モデルは、それを実行に移した将軍たちよりも頑健に生き延びた。
軍事独裁が終わり、ふたたび選挙によって政府が選ばれるようになってからも長い間、シカゴ学派の論理はしっかりこの地域に定着していた。

 アルゼンチンのジャーナリストで教育者のクラウディア・アクーニャは、七〇~八〇年代当時、暴力が軍事政権にとって目的ではなく手段にすぎないということを十分理解するのは至難だったとふり返る。
「軍政による人権侵害があまりに常軌を逸していて、信じがたいほどひどかったので、とにかくそれをやめさせることが第一でした。でも秘密拘留施設を破壊することはできたけれど、軍が始めて現在もまだ続いている経済プログラムを破壊することはできなかったのです」

「行方不明になった人々の流した血で、経済プログラムが覆い隠されてしまった」
 最終的にはロドルフォ・ウォルシュが予測した通り、弾丸よりも「計画された苦難」によってはるかに多くの人命が奪われることになる。
ある意味で、七〇年代の南米南部地域ではきわめて暴力的な武装強盗が起きたにもかかわらず、それは殺人現場としてしか扱われなかったと言える。
「まるで行方不明になった人々の流した血で、経済プログラムが覆い隠されてしまっていたようでした」とアクーニャは私に話した。

 「人権」が政治や経済と完全に切り離せるかどうかを巡る議論は、ラテンアメリカに限られた話ではない。国家が政策実施の武器として拷問を用いるときには必ず浮上する問題だ。

拷問は、その政権が反民主的プロジェクトに関わっているかどうかを示す指標
 拷問には何らかの理解し難い神秘性がつきまとい、政治を超えた異常な行動だと片づけたくなるが、実際には拷問は複雑でも神秘的なものでもない。
それは最も粗野な強制の手段であり、その国の暴君や外国の占領者が支配するのに必要な同意を得られないとき、高い確率で出現する。
フィリピンのマルコス大統領、イランの国王、イラクのサダム・フセイン、アルジェリアのフランス人、パレスチナ占領地のイスラエル人、イラクやアフガニスタンの米軍・・・と、その例は枚挙にいとまがない。
拘束者に対して広範に行なわれる虐待は事実上、その国や地域の多くの人々が反対するシステムー政治的なものであれ、宗教的、経済的なものであれーを政治家が強制的に実施しようとしていることの確実な兆候である。
生態学者が生態系の状態を「指標種」と呼ばれる特定の動植物の生育データによって評価するように、拷問はある政権が、たとえ選挙によって権利の座に就いたとしても、反民主的なプロジェクトに関わっているかどうかを示す指標となる。

アルジェリア独立戦争:拷問には反対するが占領には同調するフランス人
 拷問が、尋間中に情報を引き出す手段として信頼できないことはよく知られている。
だが、住民を恐怖に陥れコントロールする手段としては、拷問ほど効果的なものはない。
一九五〇~六〇年代にかけてのアルジェリア独立戦争中、フランス軍が民族解放戦線の兵士に電気ショックや水兵めなどの拷問を行なったというニュースに対し、フランスのリベラル派が道徳的な怒りを表明しつつも、そうした虐待の原因である占領そのものを終わらせる努力をしなかった理由は、まさにここにある。

人道的な民主的な占領などあり得ない
 一九六二年、拘束され残忍なやり方で強姦されるなどの虐待に遭ったアルジェリア人数人の弁護士を務めたフランス人ジゼル・アリミは、次のように怒りをぶつける。
「いつも変わらない陳腐な決まり文句の羅列。アルジェリアで拷問が用いられるようになって以来、出てくるのは常に同じ言葉、同じ憤りの表現、抗議運動への同じ署名、同じ約束だ。この条件反射のようなお決まりの反応によって、電極やホースがただのひとつもなくなっただろうか。あるいはそれらを使う者たちの権力をほんのわずかでも抑制することができただろうか」。

 シモーヌ・ド・ボーヴオワールもこれに同調する。
「「行き過ぎ」や「虐待」に対する道徳の名を借りた抗議は誤りであり、積極的な共犯関係をほのめかすものでしかないい。ここには「虐待」も「行き過ぎ」も存在しない。ただ隅々にまで行き渡るシステムがあるだけだ」

選択肢は二つある
 ボーヴォワールが言いたかったのは、人道的な占領などありえないということだ。人々をその意に反して占領するのに、人道的なやり方などないという。
選択肢は二つある、即ち、占領とその遂行に必要なあらゆる手段を受け入れるか、「それともそれらを拒否するか - それもある特定の行為だけでなく、占領を是認し、不可欠なものとする、より大きな目的を拒否するかのどちらかだ」と。

 この厳しい選択は、今日のイラクやイスラエル/パレスチナにも当てはまるし、七〇年代の南米南部地域にとって唯一の選択肢でもあった。
確固とした意思に反して人々を占領するのに、優しく思いやりのある方法が存在しないのと同様、何百万人もの住民から尊厳を持って生きるために必要なものを奪い取るのに(シカゴ・ボーイズがやろうとしたのはまさにそれだ)、平和な方法など存在しない。
土地であれ生き方であれ、それを奪い取るには力か、少なくとも力の行使をちらつかせる現実的な脅しがなければならない。
泥棒が銃を携行し、しばしばそれを使う理由はそこにある。
拷問は胸が悪くなるほど不快なものだが、ある目的を達成するにはきわめて合理的な手段となりうる。
それどころか目的達成のための唯一の手段である場合もある。
ここに、当時のラテンアメリカでは多くの人が問うことのできなかった、より深い問いが生じる。
新自由主義とは本質的に暴力的な思想なのか? 
そしてその目標に達するには、残虐な政治的浄化とそれに続く人権蹂躙作戦の連鎖を不可欠とする何かがあるのだろうか?

 この問いに関する証言のなかでもとりわけ大きなインパクトを持つのは、タバコ農業従事音でアルゼンチン農業連盟事務局長のセルヒオ・トマセラの証言だ。
彼は妻や多くの友人・親戚と同様、五年間にわたって拘束され拷問を受けた。
一九九〇年五月、トマセラは「免責に反対するアルゼンチン法廷」で証言するため、東北部コリエンテス州から夜行バスでブエノスアイレスに向かった。
この法廷では独裁政権下での人権侵害についての証言が行なわれていたが、トマセラの証言は他とは違っていた。
野良着と作業ブーツ姿で都会人の聴衆の前に登場した彼は、自分が良い戦争-協同組合を結成するために僅かの土地を求める貧しい農民と、州の土地の半分を所有する全権力を握る農場経営者との戦いの犠牲者だったと話した。
「この連鎖は途切れることなく続いている。インディオから上地を奪い取った連中が今も、封建的仕組みのもとでわれわれを抑圧し続けているのです」

 トマセラはこう主張した。
自分や農業連盟の仲間が受けた虐待は、その身体を破壊し、活動のネットワークを破壊することで有利になる巨大な経済的利害と切り離せないと主張した。
したがって彼は自分を虐待した兵士の名前を挙げるのではなく、アルゼンチンが経済的に依存し続けることで利益を得る国内外の企業の名前を挙げた。

彼らのような大富豪もまた同じ独占企業にコントロールされている
 「外国の独占企業はわれわれに作物を押しつけ、われわれの国土を汚染する化学物質を押しつけ、技術やイデオロギーを押しつけます。そしてこれらすべては土地を所有し、政治を支配するごく一部の人々を通して行なわれるのです。でも忘れてはならないのは、彼らのような大富豪もまた同じ独占企業、同じフォード・モーター、モンサント、フィリップ・モリスといった企業によってコントロールされているということで。私はこのことを非難するためにここにやってきた。ただそれだけです」

 会場には割れるような喝采が沸き起こった。
トマセラは証言を次のように締めくくった。
「最後には真実と正義が勝利すると私は信じています。何世代もの年月がかかるかもしれないし、もしこの戦いのさなかに死ぬことになったとしてもかまわない。でもいつの日か、私たちは必ず勝利します。私は敵が誰なのかを知っています。そして敵も私が誰なのかを知っているのです」

次なる征服地を世界に求める新自由主義
 七〇年代にシカゴ・ボーイズが世界に先がけて行なった冒険は、人類に対する警告としての役目を果たすべきであった。彼らの思想はきわめて危険なものだったからだ。
その最初の実験室で犯されたあまたの罪の責任がこのイデオロギーに負わされることなく終わったことから、悔悟の念を持たないイデオローグたちは罪を逃れ、次なる征服地を世界に求めていった。

今日、私たちはまたしてもコーポラティズムによる大量殺戮の時代に生きている。
世界の多くの国々がとてつもない軍事的暴力とともに、その国を「自由市場」経済のモデル国家に作り変えようとする組織的な企てに苦しめられている。
そしてまたしても、自由市場経済を構築するという目的とそのために必要とされる残虐行為とは、まったく無関係のものとして扱われている。
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