2013年3月22日金曜日

ナオミ・クライン『ショック・ドクトリン』を読む(65) 「第6章 戦争に救われた鉄の女-サッチャリズムに役立った敵たち-」(その1)

千鳥ヶ淵 荘川桜 2013-03-21
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第三部 民主主義を生き延びる - 法律で作られた爆弾

 国家間の武力紛争は私たちを恐怖に陥れる。だが経済戦争も武力紛争と同じくらい悲惨である。
経済戦争はいわば外科手術のようなもので、延々と続く拷問にも等しい。それがもたらす惨害は、戦争文学に描かれた悲劇に劣ることはない。私たちが経済戦争について関心を払わないのは、その致命的な影響に慣れてしまっているからだ。(中略)戦争に反対する運動は健全であり、私はその成功を祈っている。だがその道動が、あらゆる悪の根源にあるもの - 人間の欲望 - に触れずに失敗に終わるという恐れに、私は絶え間なく苛まれている
      - マハトマ・ガンジー『非暴力 ー 最大の武器』(一九二六年)

第6章 戦争に救われた鉄の女-サッチャリズムに役立った敵たち-(その1)
 主権者とは非常事態において決断を下す者である。
      ー カール・シュミット(ナチスに協力した法学者)

サッチャーとハイエク(シカゴ学派の守護聖人)とピノチェト
 一九八一年、シカゴ学派の守護聖人とも言うべきフリードリヒ・ハイエクはチリを訪問した際、アウグスト・ピノチェトとシカゴ・ボーイズに大きな感銘を受けた。
帰国すると彼は友人のマーガレット・サッチャー英首相に手紙をしたため、チリをモデルにしてイギリス経済をケインズ主義から転換するよう促した。
サッチャーとピノチェトはのちに親交を深め、イギリスで集団虐殺、拷問、テロの罪に問われて自宅軟禁下に置かれた老将軍をサッチャーが見舞いに訪れたエピソードは有名だ。


 サッチャー首相は「チリ経済の驚異的な成功」について熟知しており、それは「われわれが多くの教訓を学ぶことのできる特筆すべき経済改革の成功例」だと述べている。
だが、ピノチェトを称賛していたものの、ハイエクからチリを見習ってショック療法を取り入れるよう最初に勧められたとき、サッチャーはまったく乗り気ではなかった。
一九八二年二月、サッチャーはハイエクに宛てた私信のなかでこう説明している。
「あなたも必ずや同意してくだきると思いますが、イギリスには民主主義的な制度があり、高いレベルの合意が必要とされているため、チリで採用された方法のいくつかはとうてい受け入れることはできません。ここでの改革はイギリスの伝統と憲法に沿って行なわれなければなりません。わが国の変革のプロセスは、ときにひどく遅く感じられることもあるのです」

サッチャーは、イギリスのような民主主義国でショック療法は不可能という
 言い換えれば、シカゴ流のショック療法をイギリスのような民主主義国で行なうのは不可能だというのだ。
第一期の三年目に入ったサッチャー政権は支持率の低下に悩んでおり、ハイエクの提案するような急進的あるいは国民に不人気の政策を取って次の選挙に負けるようなことは、断じてするわけにはいかなかった。

サッチャーかレーガンならやれる
 ハイエクと彼に代表されるシカゴ学派にとって、これは不本意な結論だった。
南米南部地域の実験は目を見張るような収益をもたらしており、新たなフロンティアを貪欲に求める多国籍企業は増える一方だった。
その対象には発展途上国だけではなく、欧米の富裕な国も含まれていた。
それらの国では電話、航空、テレビ放送、電力などの事業が国によって運営されており、もしそれが営利目的の事業となれば、膨大な利益を生み出すことが予想された。
もし先進世界においてこの課題を実践できる指導者がいるとすれば、それはイギリスのサッチャー首相か、当時のアメリカ大統領ロナルド・レーガンのどちらかであることは疑いなかった。

発展途上の小国でさえうまくやれる、まして大国では・・・ 
 一九八一年、『フォーチュン』誌は「チリにおけるレーガノミクスの素晴らしい新世界」を褒め称える記事を掲載した。
「贅沢品がずらりと並ぶきらめくような店」が立ち並び、「ピカピカの日本製の新車」が走るサンティアゴを称賛するこの記事は、社会を覆い尽くす弾圧の嵐や急激に増えるスラム街についてはひとことも触れていない。
「正統的経済を導入したチリの実験からわれわれは何を学べるのか?」と問いかけたあと、記事はすぐに”正解”を出す。
「発展途上にある小国が競争的優位の原理のもとでうまくやれるのであれば、それよりはるかに資源に恵まれた経済にできないはずはない」
 
 だがハイエク宛てのサッチャーの手紙を見れば明らかなとおり、事はそれほど単純ではなかった。
選挙で選ばれた指導者は、有権者が自らの仕事ぶりに対して下す評価を常に気にしなければならない。
八〇年代初め、レーガンやサッチャーが政権の座にあり、ハイエクやフリードマンという有力なアドバイザーがいたとはいえ、南米南部地域であれほど残忍な暴力をもって推進された経済改革がイギリスとアメリカで実行可能かどうかは、まったく定かではなかった。

フリードマンの期待を裏切ったニクソンの場合
 それより一〇年前、リチャード・ニクソン政権下のアメリカで、フリードマンと彼の進めていた運動が大きな失望に直面したことがある。
シカゴ・ボーイズがチリの軍事政権入りすることを助けたニクソンは、国内ではそれとはまったく異なる方針を取った。
フリードマンはこの矛盾をけっして許さなかった。
一九六九年、ニクソンが大統領に就任すると、フリードマンはニューディール政策の痕跡を消し去る国内改革を推進できるときが来た、と考えた。
「私自身の思想に合致する考え方をここまではっきりと表明した大統領は、これまでほとんど存在しませんでした」と、フリードマンはニクソン宛ての書簡に書いている。
二人はホワイトハウスの大統領執務室で定期的に会合を持ち、ニクソンはフリードマンと同じ考えを持つ友人や同僚数人を主要な経済ポストに就けた。
そのうちの一人はフリードマンの後押しにより政権入りしたシカゴ大学教授のジョージ・シュルツであり、別の一人は当時三七歳のドナルド・ラムズフェルドだった。
ラムズフェルドは過去にシカゴ大学のセミナーに何度も参加しており、のちに畏敬の念を持ってそのことをふり返っている。
ラムズフェルドはフリードマンとその同僚を「天才集団」と呼び、自分を含む「若造」たちはセミナーに参加し、「彼らの足元にひれ伏して学んだ。(中略)私はなんと恵まれていたことか」と述べている。
弟子たちが政策立案に関わり、自分自身も大統領との間に強い個人的な関係を築いていたフリードマンは、自分の考えが世界でもっとも強力な経済によって今すぐにでも実行に移されることを信じて疑わなかった。

ラムズフェルド(フリードマンの弟子)による物価統制
 だが一九七一年当時、アメリカ経済は不況に陥っていた。
高い失業率とインフレによる物価上昇が続いており、もしフリードマンの助言どおり「自由放任」政策をとれば、怒った何百万という有権者が自分を落選させるにちがいないとニクソンは考えていた。
そこでニクソンは、家賃や石油など必需品の価格に上限を設ける。
これがフリードマンを激怒させた。
政府の介入による「歪み」のなかでも価格統制は最悪中の最悪であり、彼はそれを「経済システムの機能を破壊する恐れのあるガン」と呼んでいた。

「われわれは今や、全員ケインズ主義者だ」(ニクソン)
 さらにフリードマンにとって不名誉だったのは、ケインズ主義政策を実行していたのが彼自身の弟子だったということだ。
貸金・価格統制プログラムを担当していたのはラムズフェルドで、彼は当時行政管理予算局局長だったシュルツの直属の部下だったのだ。
そこでフリードマンはホワイトハウスのラムズフェルドに電話をかけ、厳しく叱責した。
ラムズフェルドによれば、フリードマンは「君が今やっていることをすぐにやめなさい」と命じたという。
これに対し、新人官僚ラムズフェルドはこの施策はうまくいっているように見えると反論した。
インフレ率は下がり、経済は成長に転じている、と。
フリードマンはそれこそが最悪の犯罪行為であると反撃し、「皆、君のせいでそうなったと考えるだろう。(中略)国民に間違った考えを植えつけることになる」と断言した。
はたして事実はそのとおりとなり、翌年、ニクソンは得票率六〇%で再選される。
第二期目、ニクソンはさらに多くのフリードマンの定説を捨て去り、産業界により高い環境基準や安全基準を課す新しい法律を次々に成立させた。
「われわれは今や、全員ケインズ主義者だ」というニクソンの言葉は有名だが、フリードマンにとってこれほど残酷な仕打ちはなかった。
ニクソンに裏切られた思いのあまりの深さから、フリードマンはのちにニクソンを「二〇世紀のアメリカ大統領のなかでもっとも社会主義的だった」と評している。
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