2013年4月13日土曜日

寛仁4年(1020)3月22日 藤原道長、無量寿院(のち法成寺)の落慶供養を行う。 左京の拡大、東朱雀大路

法成寺付近の地図
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寛仁4年(1020)
3月22日
・道長、無量寿院(のち法成寺)の落慶供養を行う。
三后の行啓を仰ぎ新堂の落慶供養が盛大に挙行される。
それまで中河御堂とか京極御堂とか呼ばれていた寺に、改めて行成筆の無量寿院の額が掲げられた。

法成寺の寺域は、『栄花物語』には方4町(約440m四方)とあるが、実際は南北3町(約330m)、東西2町(約220m)余くらい。
この新造の阿弥陀堂は、その中央より西側に、東向きに南北に細長く建てられたものらしい。

引き続き数々の堂舎が建てられ、寺の中核となる金堂は、治安元年(1021)6月に立柱、翌2年7月14日、後一条天皇の行幸のもとに落慶供養が挙行され、ここに初めて、正式に法成寺の寺号が定められた。更に、治安4年には薬師堂が造営されている。

無量寿院落慶供養までの経緯(受領・公卿たちの奉仕)
道長は、寛仁3年(1019)7月に阿弥陀仏像の造立を発願し、新堂(阿弥陀堂)の造営を始めた際、受領1人に1間を割り当て(前年、土御門第を再建した時に寝殿1間を受領に当てた方式と同じ)。
このような方式は、奉仕を行った受領たちを摂関家の家司(家政を掌る職員)に編成する契機として有効だったと考えられる。
法成寺造営にも受領の財力を使ったが、一方で公卿たちへも奉仕を課した。
寛仁4年2月には阿弥陀堂を道立し、丈六(じようろく)阿弥陀仏を安置したが、築壇などを公卿以下に分配。
この月、無量寿院として落慶供養。

平安京の条坊制の拡大(左京の拡大)と東朱雀大路
道長は、その邸宅(土御門第)に対して東京極大路を挟んで東側、即ち平安京の外側である東京極大路と鴨川の間に法成寺を造営した。
この辺りは、平安京の条坊制を拡大した直線道路によって区画された一帯である。
東京極大路より東側にある法成寺の南門から南へ二条大路の延長線までの直線道路は、東朱雀大路と呼ばれていた。

摂関期になると、平安京は右京が衰退し、左京が中心となるが、「東朱雀大路」は本来の朱雀大路に対して、左京が中心になった新しい平安京の中心軸線としての呼称である。
東朱雀大路の南には道長の父兼家が建立した法興院(ほこいん)や祗陀林寺、貴族の邸宅、民衆の町屋・小屋なども存在し、この一帯は平安京の条坊制を拡大したものと捉えることができる。

その立地を選んだのは、東寺・西寺以外には寺院を京内に造営できないという平安京遷都当初からの原則が意識されていたと思われる。
道長が御堂関白と呼ばれるようになったのは、阿弥陀堂を建てたからで、その阿弥陀堂が発端となって法成寺が造営された。

そして、平安時代後期(院政期)になると、鴨川を越えて更に東へと平安京は発展していき白河の地に直線道路が敷かれ、法勝寺をはじめ院御願寺である六勝寺や白河北殿・南殿といった院御所が造営されて開発されていく。
また、白河より南方に、平氏の六波羅や後白河法皇の法住寺殿や蓮華王院などが、平安京の条坊制の延長である直線道路に沿って造営される。

さらに、平安京の東側だけでなく南側にも、朱雀大路の延長である鳥羽作道(とばのつくりみち)を基準に直線道路が敷かれ、院御所や天皇陵と院御願寺などが造営されて、鳥羽の地が開発される。

このように平安京の拡大が始まったのは、摂関期である。

院によって平安京は拡大されていき、京を補完する都市空間が造営されていく。
このような大規模な造営を行うには権力集中が必要であった。その先駆けをなしたのが道長であったという意味で、道長の時代と院政期の関連を読み解くことができる。

平安京の変貌:右京の衰退・左京の繁栄
平安京は造営当初、京の北中央に宮城(平安宮)を置き、左右京には官衙や離宮である朱雀院や冷然院、貴族の邸宅、東西市、そして京内に建立が許された官寺である東寺・西寺などが、バランスよく配置されていた。

ところが、摂関期になると、左右京のバランスが崩れ、右京は衰退し、左京が繁栄するようになる。
造営当初には右京にも貴族の邸宅があったが、低湿地の多い右京は次第に衰退していった。

天元5(982)年の慶滋保胤『池亭記』には、「予(慶滋保胤)二十余年以来、東西二京を歴見するに、西京は人家漸く稀にして、殆ど幽墟に幾(ちか)し。人は去るは有るも来るは無く、屋(や)は壊るる有るも造るは無し」とある。西京(右京)は人家が稀であると記されている。

しかし、慶滋保胤の記述にはやや誇張があるようで、近年の発掘成果によると、摂関期の右京には中規模以下の邸宅が点在しており、都市的景観はまだ失われていなかった。
右京全域では条坊制による街路の整備が行われなくなり、居住地として衰退していく。
しかし、右京の二条大路より北では街路の整備がみえ、七条大路などでは街路に沿って建物が並ぶ新たな町並みが形成され、朱雀大路も再整備されて平安宮の南側正面からみた宮の景観が権威づけられた。
その後、平安時代後期(院政期)から鎌倉時代になると、耕作地の中に市街地がモザイク状に入り組んだ状態へと農村化していく。

一方、『池亭記』には、「東京(左京)四条以北、乾艮(いぬいうしとら)二方、人人貴賤無く、多く群聚する所なり。高家門を比べ堂を連ね、少屋壁を隔て簷(のき)を接(まじ)ふ」とあり、左京の反映がみえる。左京の四条大路以北には貴族の邸宅や民衆の「小屋」「町屋」が密集していた。
特に、二条以北は上辺と呼ばれ、貴族の邸宅が多く存在していた。

左京には商工業地域も出現する。
11世紀半ばに、七条大路と町小路の周辺には鋳造工房が多くあった。
天喜・康平の頃(1053~64)の成立とされる『新猿楽記』にみえる金集百成(かなつめのももなり)は七条以南の保長(地区の責任者)で、その仕事は、「鍛冶・鋳物師ならびに銀金の細工」だった。
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