江戸城(皇居)二の丸庭園のフジ 2013-04-25
*ナオミ・クライン『ショック・ドクトリン』を読む(69)
「第7章 新しいショック博士-独裁政権に取って代わった経済戦争-」(その1)
ボリビアの状況は、手術を控えたガン患者のそれになぞらえることができる。目の前にある通貨の安定化などの対策が、きわめて危険で苦痛の大きいものになるのは確実であるにもかかわらず、それ以外の選択肢はないのだ。
- コーネリアス・ゾンダグ(米政府派遣のボリビア政府経済頼問、一九五六年)
政治的議論にガンを持ち出すことは運命論を助長し、「強硬」手段を取ることを正当化する。それと同時に、この病気は必ず死に至るという世間一般の考えをさらに強化する。病の概念は決して無害ではありえない。ガンの隠喩それ自体が集団虐殺を暗示するとも言えるだろう。
ー スーザン・ソンタグ『隠喩としての病い』(一九七七年)
1985年のボリビア大統領選挙:ハイパーインフレと民主化
一九八五年、発展途上世界を覆う民主化の波がボリビアにも押し寄せた。
過去二一年間のうちの一八年間、ボリビアはなんらかの形の独裁政権下にあったが、今ようやく国民は自分たちの大統領を選挙で選べるチャンスを手にしたのだ。
とはいえこの時期にボリビア経済の采配を振るうことは、困難をきわめた。
国家債務は膨大な額に上り、利子だけでも国家予算全体を上回るほどだった。
その前年の一九八四年、ロナルド・レーガン政権はコカインの原料になるコカを栽培している農場に対して前例のない軍事攻撃をしかけ、ボリビア中を驚愕に陥れた。
ボリビア国土のかなりの部分が占拠されたことによってコカ取引が止まっただけでなく、同国の輸出収入のほぼ半分を占めるコカの葉の供給がストップしたために、ボリビア経済は危機に陥った。
『ニューヨーク・タイムズ』紙の記事はこう書く。
「八月、チャパレ地方に米軍が侵攻して麻薬密売ルートの一部が寸断されると、その衝撃はたちどころに活況を呈していたドル取引による闇市場を襲った。(中略)チャパレが占拠されて一週間も経たないうちに、政府はペソの公定レートを半分以上に切り下げることを余儀なくされた」。
数カ月後、インフレ率は一〇倍に上昇。
何千人もの人々が職を求めてアルゼンチン、ブラジル、スペイン、アメリカなど国外に向かった。
経済学者ジェフリー・サックス(30歳)の起用
一九八五年、一万四〇〇〇%というハイパーインフレに陥り、きわめて不安定な状況にあったボリビアで歴史的選挙が行なわれ、七〇年代に独裁政権を率いたウーゴ・バンセルと、かつて三度にわたり選挙で大統領に選出されたビクトル・パス・エステンソロという国民にとってなじみの人物同士の対決となった。
結果は接戦となり、最終決定は議会での決選投票に委ねられたが、勝利を確信したバンセル陣営は結果が発表される前に、当時ほとんど無名だった三〇歳の経済学者ジェフリー・サックスを対インフレ経済計画の策定者に起用する。
サックスはハーバード大学経済学部の若き俊英で、学術賞を次々に受賞し、記録的な若さで同大学終身教授に就任した。
数ヵ月前、彼の仕事ぶりを見るために同大を訪れたボリビアの政治家代表団は、サックスの大胆な発言にいたく感じ入った。
彼はボリビアのインフレを一日で終息させてみせると豪語したのだ。
サックスにとって開発経済は未経験の分野だったが、彼自身はインフレについて「必要なことはすべて知っていると確信していた」と述懐している。
ケインズとシカゴ学派(フリードマン)の折衷
サックスは、第一次世界大戦後のドイツにおけるハイパーインフレとファシズムの拡大の関係について書かれたケインズの著作に大きな影響を受けていた。
戦後のベルサイユ体制によってドイツは深刻な経済危機に陥り(一九二三年のインフレ率はじつに三二五万%にも達した)、数年後の世界大恐慌がこれに追い討ちをかける。
失業率は三〇%に上り、国民は国際的陰謀だと疑いたくなるような苦境に怒りを募らせた。
こうしてナチズムが根づくのに格好の土壌が作られていったというのである。
サックスはケインズの次のような警告を好んで引用した。
「通貨を台無しにすること以上に、現存の社会基盤を転覆させる巧妙かつ確実な方法はない。このプロセスによって、経済法則のあらゆる隠れた力が破壊を促進する方向に働く」。
サックスは、こうした破壊力をなんとしてでも抑制するのが経済学者の聖なる義務だというケインズの見解を支持していた。
サックスはこう語る。
「私がケインズから学んだのは、物事がまったく台無しに終わる可能性があることについての深い悲しみと危機感でした。ドイツを荒廃した状態に放置してしまった私たちはとんでもなく愚かだったのです」。
またサックスは記者の取材に応えて、ケインズは世界を股にかけ、政治に関与する経済学者だと評し、自らもケインズを見習いたいと語っている。
経済学が貧困と戦う力を持つというケインズの考えに同調する一方で、サックスはレーガンのアメリカの申し子でもあった。
一九八五年当時、アメリカではケインズ的なものに対して、フリードマンの考えに影響を受けた反動の嵐が吹き荒れていた。
自由市場の優位性を主張するシカゴ学派の考え方は、急速にハーバードをはじめとするアメリカ北東部の名門大学経済学部において疑問の余地のない正統理論となり、サックスも少なからずその影響下にあった。
彼はフリードマンの「市場への信頼、適切な金融管理の必要性の強調」を称賛し、それは「発展途上世界でよく耳にする曖味な構造主義的、あるいは似非ケインズ主義的な議論よりはるかに正確なもの」だとしている。
彼の言う「唆味な」議論とは、その一〇年前にラテンアメリカで暴力によって抑比された考え方にほかならない。
すなわち、この大陸が貧困から抜け出すためには、植民地支配的な所有構造を土地改革や貿易保護策、補助金、自然資源の国有化、協調的な職場運営などといった介入主義的政策によって崩すことが必要だという考え方である。
サックスはそうした構造的改革にはほとんど見向きもしなかった。
こうしてボリビアという国についても、あるいはその長い植民地支配の歴史や先住民に対する抑圧、そして困難の末に勝ち取られた一九五二年の革命についても、ほとんどなんの知識もないにもかかわらず、サックスはこの国がハイパーインフレのみならず、「社会主義的ロマン主義」に陥っていると思い込んでいたのだった。
アメリカで教育を受けたサックスより前の世代の経済学者たちが、かつて南米南部地域から一掃しようとしたのも、これと同じ開発主義の幻想だった。
サックスがシカゴ学派の正統理論と一線を画していたのは、自由市場経済政策には債務救済と多歓の援助が伴わなければならないと考えていた点にある。
若きハーバードの経済学者にとって、「見えざる手」だけでは十分ではなかったのだ。
この不一致から、サックスは最終的により自由放任的な考えを持つ同僚たちとは袂を分かち、援助問題に専心するようになる。
だがそれは何年も先のことだ。
ボリビアでは、サックスの折衷的な考え方はいくつかの奇妙な矛盾を生んだだけだった。
たとえばサックスが初めて首都ラパスの空港に降り立ち、アンデス高地の薄い空気を吸い込んだとき、彼は自分を、ボリビア国民をハイパーインフレの「混沌と無秩序」から救うためにはるばるやってきた現代のケインズだとみなしていた。
ところが、深刻な不況に陥っている国では財政支出を増やして経済を刺激するというのがケインズ主義の中心的教義であるにもかかわらず、サックスはそれとは正反対の方法を取る。
危機の真っ最中に緊縮財政と物価上昇を提唱したのだ。
かつてチリで、これと同じ縮小政策が取られたとき、『ビジネスウィーク』誌は「意図的に不況を起こすというストレンジラブ博士さながらの世界」と椰愉してみせた。
*ハイパーインフレを退治しても、ドイツは不況やそれに続くファシズムから逃れることはできなかった。サックスは何度も自らをケインズになぞらえているが、一度もこの矛盾について言及したことはない。
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