2014年12月14日日曜日

ナオミ・クライン『ショック・ドクトリン』を読む(112) 「第17章 因果応報-資本主義が引き起こしたイラクの惨状-」(その1) : ブッシュ政権は・・・戦後のイラクを、濡れ手で粟の利益を得られる新規公開株のごとく扱った

増上寺に隣接する東照宮境内にある大イチョウ 2014-12-13
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第17章 因果応報
-資本主義が引き起こしたイラクの惨状-

世界が混迷している以上、誰かが片づけなければならない。
- コンドリーザ・ライス、二〇〇二年九月、イラク侵攻の必要性について

ブッシュが異なる中東像をイメージできたのは、中東について無知だったことと関係があると思われる。もし実際に現地に行って機能不全に陥っている現状を目にしていたら、失望してやる気をなくしたかもしれない。中東の日々の現実を知らなかったからこそ、彼なりの中東ビジョンを抱くことができたのだ。    - ファリード・ザカリア(『ニューズウィーク』誌コラムニスト)

イラン復興指南とイラク側の反撥
米国防総省主催の会議
 占領初期の二〇〇三年九月、国防総省がバグダッドで開催した会議の場で、手際よくまとめられたビジョンが提示された。
会議にはロシアや東欧諸国から財務大臣や中央銀行総裁、元副首相など、一四人の政府高官や官僚が出席した。
・・・(場所はグリーンゾーン)・・・。グリーンゾーンとはフセイン政権時代の大統領宮殿周辺を壁で囲った一画のことで、当時はアメリカ主導によるイラク統治機関、連合国暫定当局(CPA)が設置されていた(現在はアメリカ大使館が置かれている)。VIPたちはここで少数のイラク人有力者を前に、資本主義への移行に関しての指南を行なった。

マレク・ベルカ
 メイン・スピーカーの一人はポーランドでかつて右派政権の財務大臣を務め、イラクでもプレマーのもとで数ヵ月間仕事をしたマレク・ベルカだった。
国務省の公式記録によれば、ベルカはこのとき、混乱状態にある今こそ「多数の国民を失業させる」政策を「強引に」推し進める必要があると主張した。
(ベルカは、国営事業の民間への売却、政府補助金の撤廃(配給制度の即時廃止)と民間の育成を強調した。)
(しかし、実際にはポーランドの場合)民衆が「連帯」の打ち出した急激な民営化構想を阻止し、ロシアのような経済崩壊に陥らずにすんだ・・・。

エゴール・ガイダル
 次に登場したのは、エリツィン政権で第一副首相を務め、ロシア・ショック療法計画の立案者と言われるあのエゴール・ガイダルだった。
ガイダルを招聘した米国務省は、彼が新興財閥(オリガルヒ)と結託し、その政策によって何千万というロシア人を貧困に追いやった悪名高い人物だとはイラク人もよもや知るまい、と高をくくっていたようだ。(しかし)、・・・この会議に出席していたイラク人のほとんどは、最近亡命先から戻ってきた人々であり、ロシア崩壊当時は『インターナショナル・へラルド・トリビューン』紙などの国際報道に目を通していた。

*イラク侵攻と占領を率いた中心的人物のなかには、かつてロシアにショック痛法を要請した米政府のスタッフが少なからず含まれている。ブッシュ(父)大統領がソ連崩壊後の対ロシア政策を練っていたその当時、ディック・チェイニーは国防長官、ポール・ウォルフォウィツツは国防次官コンドリーザ・ライスは国家安全保障会議ソ連・東欧担当部長を務めていた。彼ら政権トップ以下数十人のスタッフは、九〇年代にソ連崩壊後のロシアで実施された政策が一般市民に悲惨な結果をもたらしたものであるにもかかわらず、しばしばそれを体制移行期のイラクの手本として、皮肉抜きに引き合いに出した。

イラク側の怒り
 イラクの暫定産業大臣を務めていたモハマド・トフィク・・・はこの会議のことを笑いながらふり返った。
イラク人側は、防弾チョッキに身を固めた来訪者たちに向かって怒りをぶつけたという。プレマーが貿易を自由化して無制限の輸入を許可したせいで、戦争で疲弊した国民の生活は急激に悪化している。このうえガソリンの政府補助金や食料の配給を廃止すれば、占領当局は革命暴動という事態に直面することになるだろう、と。
また、ロシアからやってきた”スター”についてはこう皮肉った。「会議を開催した連中に言ってやったよ。もし私がイラクで民営化を促進することになったら、ガイダルを引っ張ってきて、ロシアでやったことと正反対のことをするように助言してもらうとね」

ジョセフ・スティグリッツの警告:旧ソ連の時よりも過酷なショック療法
 ・・・元世界銀行チーフエコノミストのジョセフ・スティグリッツは、イラクでのショック療法が「旧ソ連で推進されたものよりもはるかに過激」になりつつあると警告を発した。実際、そのとおりだった。・・・

 どんなに過酷な経済改革であろうとブレーキがまったくきかなかったのは、旧ソ連やラテンアメリカ、アフリカ諸国では現実認識を欠いた政府と国際通貨基金(IMF)担当者との間で型にはまった交渉が行なわれたのに対し、イラクではアメリカ財務省がすべてを牛耳っていたからだ。
イラク統治にあたって米政府は仲介機関を排除した。IMFや世銀は脇役に押しやられ、アメリカが表舞台の中央に立ち、ポール・プレマーがイラク政府そのものと化した。ある米軍高官はAP通信に、イラク暫定政権と交渉してもなんの意味もなかったと語った。そんなことをしても「自分自身と交渉するようなものだった」からだ。

 イラクにおける経済改革が初期のショック療法実験と大きく異なる点は、こうした力学にあった。・・・これからは”ヘビー”な自由貿易 - すなわち仲介機関も傀儡政権も介さずに、先制攻撃をしかけた戦争で直接、欧米多国籍企業のために新市場を獲得するなりふり構わぬやり方も登場してくる・・・。

ポール・プレマーの起用
 かつて「モデル理論」を提唱した人々は今になって、イラク情勢が泥沼化した原因はそこにあると主張している。二〇〇六年末、リチャード・パールは「プレマーの起用」こそが「重大な間違い」だったと発言し、デイヴィツド・フラム〔ブッシュ大統領のスピーチライターを務めた右派ジャーナリスト〕も、イラクのすみやかな改変のためには「誰でもいいからイラク人を投入すべきだった」と述べている。

 だが、アメリカ政府が青緑色のドームを頂く大統領宮殿に据えたのはポール・プレマーであり、プレマーは国務省からEメールで送られてくる貿易や投資に関連する法案をプリントアウトしては、せっせと署名して一方的にイラク国民に押しつけた。・・・

 9・11が起きたとき、プレマーは大手保険会社マーシュ&マクレナンの常務取締役兼「上級政治顧問」を務めていた。世界貿易センターの北棟にオフィスのあった同社は甚大な被害を受け、事件後数日間は七〇〇人の社員が消息不明となり、最終的には二九五人の死亡が確認された。

 事件からちょうど一カ月後の二〇〇一年一〇月一一日、プレマーは同社の一部門として、クライシス・コンサルティング・プラクティスをスタートさせる。多国籍企業を対象に、テロ攻撃その他の危機対策を支援するのが業務である。プレマーはかつてレーガン政権でテロ対策担当大使を務めた経歴をアピールしつつ、政治リスク保険から広報活動、備蓄品に関する助言に至る包括的なテロ対策サービスをクライアントに売り込んだ。

プレマーの使命
 プレマーのセキュリティー産業へのいち早い参入は、イラクでの活動に向けての理想的な下準備となった。
・・・ブッシュ政権は・・・戦後のイラクを、濡れ手で粟の利益を得られる新規公開株のごとく扱った。

 プレマーがイラク国民の感情を逆なでするようなことを多々行なったとしても、それは当然のことだった。そもそも彼の使命はイラク国民の信頼を勝ち取ることではなく、「イラク株式会社」創業のための準備工作だった。
そう考えれば、厳しい非難を浴びたプレマーの占領初期の政策にも明白な首尾一貫性が見て取れる。

国営企業200社の民営化
 慎重派のジェイ・ガーナー将軍がアメリカ代表特使を解任され、その後任としてバグダッド入りしたプレマーは、就任後の四カ月をほぼ経済改革に専念して過ごした。この時期に彼が制定した一連の法律は、古典的なシカゴ学派流ショック療法と呼べるものだった。・・・

 プレマーは就任翌月、「イラク経済復興のためには、非効率的な国営企業を民間の手に渡すことが不可欠である」として国営企業二〇〇社をただちに民営化すると発表した。

新経済法の制定
次に着手したのは新たな経済法の制定だった。
①海外投資家を民営化オークションに呼び込み、イラクに新しい工場や小売店を建設させるため、プレマーは一連の急進的な法律を制定する。『エコノミスト』誌はこれを「海外投資家や資金供与機関が発展途上市場に望む夢のようなリスト」だったと持ち上げた。

②ある法律は、それまで約四五%だった法人税を一律一五%へと引き下げ(ミルトン・フリードマンの教科書どおりの数字だ)、

③別の法律は、外国企業がイラクの資産を一〇〇%保有することを認めた。これは新興財閥に旨みをさらわれたロシアでの失敗をくり返さないための措置だったが、

④今回のさらなるメリットとして投資家はイラクで上げた利益を一〇〇%無税で国外に持ち出せるうえ、再投資の義務もなかった。

⑤また、投資家は四〇年の長期リースや契約を結ぶことができ、その後も更新資格を取得できる。言い換えれば、将来選挙によって選ばれた政府も、かつてイラク占領者と結んだ契約に縛られるというわけだ。

⑥アメリカ政府が唯一手控えたのが石油事業だった。政権移譲以前に国営石油会社の民営化に動いたり、未開発資源に手をつけたりしようものなら、それは戦争行為とみなされるとイラク側顧問が警告を発したからである。
それでも占領当局は、イラク国営石油会社の収益から二〇〇億ドル相当を差し押さえ、「イラク開発基金」の名目のもと、自分たちの自由裁量で使うことにした。

*このうちの八八億ドルはしばしば「イラクの巨額の使途不明金」と呼ばれるが、それはこれらの資金が二〇〇四年にアメリカの管理下にあったイラク政府省庁や機関に渡されたのち、文字通り行方不明になってしまったからだ。
二〇〇七年二月、米議会の委員会でずさんな管理ミスを指摘されたプレマーは、「イラク経済を再稼動させることが何にも増して急務だった。その第一段階が、イラク人側にできるだけ早く資金を渡すことだった」と介明した。
委員会でこの莫大な不明金について語られたブレマーの財政顧問デイヴィッド・オリヴァー元海軍少将は、「その件は承知している。私としては、だからどうしたと言いたい」と答えた。
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