2014年12月7日日曜日

日系二世人権活動家ユリ・コチヤマの年譜(9) 1941(昭和16)年 20歳 (その3:8月16日~10月4日の日米関係年表)

江戸城(皇居)東御苑 2014-12-03
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8月16日
・野村駐米大使、彼が接触している米国閣僚間で、成功の見込のない首脳会談に米国が応する筈がないとの悲観的観測があるのを知り、再度ハルと会談、近衛の意図を説明。

8月17日(日曜日)
・野村駐米大使、ルーズベルト大統領会談。
米英首脳会談でとり決めた対日警告書を渡す。米国、8月7日の近衞・ルーズベルト会談提議に対し日本の態度宣明が先決と回答しつつ、会談の可能性をも仄めかす。
18日、野村大使、基本国策再検討の意見具申(着電19日)。

大統領は、日本がこのまま武力行使を続けるなら、「合衆国政府ハ時ヲ移サス・・・必要ト認ムル一切ノ手段ヲ講する」と外交慣例上の「戦争の警告」であったとも評される強硬態度を表明しつつも、「日本が其の膨脹政策的活動を中止し、太平洋に於て米国政府が執り来れる線に沿って平和政策に出ずる場合には、米国は七月中に中絶した非公式会談を再開し、なお意見交換の為に適当なる時と場所を定むることを欣快とする。
また米国政府は両国が非公式会談を再開し若しくは両国首脳者の会見を計画する前に、日本政府が現在の態度及び計画について今一層明快なる声明を与えらるれば、それは両国政府に貢献するものと思う」(「米国に使して」)と会談の可能性をほのめかす。

8月18日
・豊田外相、グルー駐日大使の会談、巨頭会談斡旋を要請。グルー大使は日本提案の真剣な検討を要望する意見を本国に具申。

8月18日
・ルーズベルト大統領、選抜徴兵法18ヶ月延長法案に署名。

8月19日
・米参謀本部戦争計画部、ルソン特にマニラ湾保持を確保する為、高射砲、新型戦闘機、戦車などをフィリピソに増強する計画を提出し、マーシャル参謀総長はこれを承認。

8月26日
・大本営政府連絡会議、近衛メッセージとルーズベルトが求めてきた日本の態度・計画に関する一層明快な声明を採択。近衛首相、ルーズベルト大統領宛の親書を送り、日米首脳会談を早急に実現するよう再度提案。

①近衛親書。
「必ずしも従来の事務的常商議に拘泥することなく大所高所より日米両国間に存在する太平洋全般に亘る重要問題を討議し時局救済の可能性ありや否やを検討することが喫緊の必要事」である。
②対米回答。
「・・・日本国政府ハ自己ノ行動ガ日本国ノ国家的必要ノ充足及防護ニ悪影響アル環境的政治的障害ニ対応セントスル考慮ニ依り支配セラレタルモノナリト思考ス・・・」と、日本の国策を正当化。
また、アメリカが自己の原則のみを基調として他国を判断するのは独善である、ある事件が一つの事態の原因であるか結果であるかを認定するのは困難ではないか、一つの国が正当と信ずることでも相手国からは反対の見解が出るのはあり得ることである、諸条件の優位にある国は劣悪条件下にある国に対して不断の脅威を与えるものである、等の諸点をあげ米国の日本に対する見解に抗議。

8月28日
・野村駐米大使、ルーズベルト大統領に首脳会談開催希望の近衞メッセージ手交。
「重要な原則問題(ハル4原則)について合意に達した上でなければ会談には応じられない」と回答。
米国の遅延策=対日戦争準備。

野村大使はルーズベルトの対応から受けた希望的印象と春の冷ややかな態度から受けた悲観的印象の2つを日本に送る。しかし、ルーズベルトもこの時点で、日米交渉には見切りをつけていたと思われる。
近衛は、30日に受電。

ルーズベルトは「あたかもハルと貴大使と会談中仏印進駐ありしがごとく、近衛公と会談中泰国進駐を見るがごとき事なきや」という(「太平洋戦争への道」)。

9月3日
・大本営政府連絡会議、「帝国国策遂行要領」討議。また、外務省起案の対米申し入れを採択し、豊田外相~グルー大使、野村大使~ハル長官の二重伝達の形がとられる。

(永野軍令部総長の説明)
「帝国ハ各般ノ方面ニ於テ特ニ物カ減リツツアリ。即チヤセツツアリ。之ニ反シ敵側ハ段々強クナリツツアリ。時ヲ経レハ愈々ヤセテ足腰立タヌ。又外交ニ依ツテヤルノヲ忍フ限リハ忍フカ、適当ノ時機ニ見込ヲツケネハナラヌ。到底外交ノ見込ナキ時、戦ヲ避ケ得サル時ニナレハ早ク決意スルヲ要スル。今ナレハ戦勝ノ「チャンス」アルコトヲ確信スルモ、此ノ機ハ時卜共ニナクナルヲ虞レル。戦争ニ就テハ海軍ハ長期短期二様ニ考ヘル。多分長期トナルト思フ。従ツテ長期ノ覚偉カ必要タ。敵カ速戦速決ニ来ルコトハ希望スル所ニシテ、共ノ場合ハ我近海ニ於テ決戦ヲヤリ、相当ノ勝算カアルト見込ンテ居ル。而シ戦争ハソレテ終ルト思ハヌ。長期戦トナルヘシ。此ノ場合モ戦勝ノ成果ヲ利用シ長期戦ニ対応スルカ有利卜思フ。之ニ反シテ、決戦ナク長期戦トナレハ苦痛タ。特ニ物資カ欠乏スルノテ、之ヲ獲得セサレハ長期戦ハ成立セヌ。物資ヲ取ルコトト戦略要点ヲ取ルコトニ依り、不敗ノ備ヲナスコトカ大切タ。敵ニ王手テ行ク手段ハナイ。而シ王手カナイトシテモ、国際情勢ノ変化ニ依り取ルヘキ手段ハアルタラウ。要スルニ国軍トシテハ非常ニ窮境ニ陥ラヌ立場ニ立ツコト、又開戦時機ヲ我方テ定メ、先制ヲ占ムル外ナシ。之ニ依ツテ勇往邁進スル以外ニ手カナイ」(「杉山メモ」)。

(杉山参謀総長の説明)
「十月下旬ヲ作戦準備完整ノ目途トナセルニ就テハ、今直ニ決心ヲシテモ、動員、船舶ノ徴傭、集中展開ナトヲヤレハ此ノ時機(十月下旬)迄カカルノテアル。第三項(外交交渉の日限)ニ就テハ、十月上旬ニハ外交ノ目途ヲツケテ、出来ナケレハ邁進シナケレハナラヌ。ズルズル引摺ラレテ行クノハ不可ナリ。其ノワケハ二月迄ハ北ハ大作戦ハ出来ヌ。北ノ為ニハ南ノ作戦ハ早クヤル必要アリ。今直ニヤツテモ明春初メ迄カカル。遅クナレハソレダケ北ニ応セラレヌ。故ニ成ルヘク早クヤル必要アリ」。

永野が云う「王手で行く手段はない」対米戦を、春迄に片付けて、対ソ作戦に備えようという。

杉山の説明後、及川海相が、第三項に関し、「十月上旬頃ニ至ルモ尚我要求ヲ貫徹シ得ル目途ナキ場合ハ自存自衛ノ為最後的方策を遂行ス」とするとの修正意見がでる。真意は、対米(英、蘭)開戦ヲ決意ス、という決定的表現を避けることに、海軍の開戦回避の意図を盛り込もうとしたもの。しかし、不徹底との異論が出て論議の結果、「十月上旬頃ニ至ルモ尚我要求ヲ貫徹シ得ル目途ナキ場合ニ於テハ直チニ対米(英、蘭)開戦ヲ決意ス」となる。「目途ナキ場合」という再審議を要するかもしれぬ表現に、海軍の消極性が表われている。

「国策遂行要領」には及川海相が粘っただけで、近衛首相は首脳会談のことに気がいっており、この「要領」が対米戦に直結するとの認識はなく、豊田外相も前日(2日)午前に目を通しただけ。

対米申し入れ。
①仏印以上に進駐せず。②三国条約に対する日本の解釈を自主的に行ふ。③日支協定に遵ひ支部より撤兵す。④支那に於ける米国の経済活動は公正なる基礎に於て行はるゝ限り之を制限せず。⑤南西太平洋に於て通商上の無差別待遇の原則を樹つ。⑤日米の正常なる通商関係の恢復に必要なる措置を構図ず。(近衛「平和への努力」)。

9月3日
・ルーズベルト米大統領、野村大使へ、近衛メッセージに対する回答と、米国政府の覚書が手交。
近衛メッセージへの回答は、日米首脳会談を成功させる為には、基本的かつ枢要な諸問題についての予備的討議が必要であるとし、覚書には、4月16日の非公式会読の初めに、国務長官はすべての国際関係に於て根本となるべき4原則について述べたことを指摘し、日本政府の態度の明確な表示を望む。

9月4日
・近衛首相、欧州戦争に米国が参戦した場合にも、日本は必ずしも三国条約に縛られて参戦する事はないとの一項(所謂、自主的解釈)を容れた対米申入れを行ない、首脳会談に非常な期待をかける。

9月6日
・この年2度目の御前会議、「帝国国策遂行要領」決定。
対米交渉続けるが、10月下旬目処に対米英蘭戦争準備完遂。準備はするが決意は後、の海軍型方針。

大本営は和戦の決定時期を遅くとも10月15日と政府に要望。政府首脳の意見は不一致。東郷外相は交渉継続、及川海相は首相に一任、東條陸相は米国提案に反対。

これを推進した軍部(とりわけ統帥部)の主張の根拠は所謂「ジリ貧論」。
永野修身軍令部総長は、「帝国は今日油其の他重要なる軍需資材の多数が日々涸渇への一路をたどり、ひいては国防力が逐次衰弱しつつありまして、もしこのまま現状を継続して行きますならば若干期日の後には国家の活動力を低下し、ついには足腰立たぬ窮地に陥ることを免れないと思います」、明年後半になれば米国側の軍備は急速度に増加され、彼我の力関係が非常に懸隔するであろうと述べ、「機を失せず」「積極的作戦に邁進し、死中に活を求むるの策に出ざるべからず」と主張(「杉山メモ」)。

「一、帝国ハ自存自衛ヲ全ウスルタメ、対米(英蘭)戦争ヲ辞セザル決意ノ下ニ、オオムネ一〇月下旬ヲ目途トシ戦争準備ヲ完整ス。 
 二、帝国ハ右ニ並行シテ、米、英ニ対シ外交ノ手段ヲ尽クシテ帝国ノ要求貫徹ニ勤ム。対米(英)交渉ニ於テ帝国ノ達成スヘキ最小限度ノ要求事項竝ニ之ニ関聯シ帝国ノ約諾シ得ル限度ハ別紙ノ如シ。
 三、前号外交交渉二依り一〇月上旬頃ニ至ルモナオ我ガ要求ヲ貫徹シ得ル目途ナキ場合ニオイテハ、直チニ対米(英蘭)開戦ヲ決意ス。対南方以外ノ施策ハ既定国策ニ基キ之ヲ行ヒ、特ニ米「ソ」ノ対日連合ヲ結成セシメサルニ務ム。」

「別紙
 対米(英)交渉ニ於テ帝国ノ達成スヘキ最小限度ノ要求事項竝ニ之ニ関聯シ帝国ノ約諾シ得ル限度
 第一 対米(英)交渉ニ於テ帝国ノ達成スヘキ最小限度ノ要求事項
 一、米英ハ帝国ノ支那事変処理ニ容喙シ、又ハ之ヲ妨害セサルコト。(細目略)
 二、米英ハ極東ニ於テ帝国ノ国防ヲ脅威スルカ如キ行為ニ出テサルコト。(細目略)
 三、米英ハ帝国ノ所要物資獲得ニ協力スルコト。(細目略)」(省略した細目の主なものは、中国における日本軍駐屯は固守すること、米英はビルマ・ルートを閉鎖して、政治的、軍事的、経済的援蒋行為をしてはならない、等)。
「第二 帝国ノ約諾シ得ル限度 第一ニ示ス帝国ノ要求カ応諾セラルルニ於テハ、
一、帝国ハ仏印ヲ基地トシテ支那ヲ除ク其ノ近接地域ニ武力進出ヲナササルコト。 
二、帝国ハ公正ナル極東平和確立後仏領印度支那ヨリ撤兵スル用意アルコト。 
三、帝国ハ比島ノ中立ヲ保障スル用意アルコト。」(なお註として、三国同盟に関して質疑されれば、日本の義務遂行にはなんら変更がないこと、ソ連に対する日本の態度に関して質疑されれば、日ソ中立条約をソ連が犯さない限り、日本は条約を遵守することを付記)。

9月6日
・夜、近衛首相、陸海外3相諒解の下、グルー駐日米大使と極秘裡に会食懇談、日米首脳会談促進の協力を要請。
近衛は、現内閣が陸海軍も一致して日米交渉成立を希望し、この内閣を措いては機会はなく、この機会を逸せば「我々の生涯の間には遂にその機会が来ないであろう」と語る。
グルー大使は、近衛のハル4原則(①全ての国の領土・主権の尊重。②他国の内政に干渉しないという原則を守る。③通商の平等を含めて平等の原則を守る。④平和的手段にて変更される場合を除き、太平洋の現状を維持する)に対する見解を質し、近衛は「原則的には結構であるが、実際適用の段となると種々問題が生じ、その間題を解決する為にこそ会見が必要になるのだ」と答える。
グルーは、近衛が、「日本国政府は四原則に決定的且つ全面的に同意するものである」と答えたと諒解(グルー「滞日十年」)。グルーは、彼の外交官生活で「最も重要なな電報」を本国政府へ打つ。

グルーによると、「近衛公爵は私に、ワシントン非公式会談の当初から、彼が陸海軍首脳部の力強い協力を受けていると話した。・・・軍部内に彼の政策に賛成しないある種の分子が存在することは彼も認める。しかし陸海軍の責任者が完全に支持する以上、かかる分子の間で起るかもしれない反対を、抑圧統御することは可能であるとの信念を彼は洩らした」(グルー「滞在十年」)。
アメリカの外交文書によると、近衛はグルーに、「懸案となっている一切の問題はルーズベルトとの会談の中で相互に満足しうるよう処理しうるを確信する。ルーズベルトと同意に到達し、その旨を天皇に報告し次第に、天皇は直に一切の敵意ある行動の即刻停止を命ずる詔勅な発するであろう」と述べる(「太平洋戦争への道」)。

グルー電のその後。
グルー電は10月2日付合衆国政府覚書に「九月六日日本国首相ハ在東京米国大使トノ会談ニ於テ上述四原則ニ賛同スル旨言明セラレタリ」と公電中に採用され、近衛首相は窮地に立たされる。近衛は「主義上は結構である」と述べたに過ぎないと釈明、10月7日、豊田外相からグルーへこの旨申入れ、グルーは本国政府へ訂正電報を打つ。
この出来事は、米国の対日不信を増幅し、国内的には軍部に近衛の対米妥協に対する疑惑と反感を与える。

9月8日
・この日、杉山参謀総長は南方作戦構想について詳しく上奏、翌9日、対南方動員に関して上奏。
天皇は2度の上奏で南方作戦構想を諒解し、動員許可を与える。10、13、16、24、29日、10月3日と、陸軍各部隊の動員または臨時編制発令。

天皇は、南方作戦実施中に北方で事が起らぬかと、同じ事を2度質問。
杉山は、その心配が絶対にないとは云えないが、北方では冬期間は大作戦が困難で大事件は起らないと考えられ、仮りに事が起れば支那から兵を転用して対処できる、と回答。
天皇は、日本軍の攻撃範囲(第1段作戦)と順序が、香港、英領馬来、英領ボルネオ、フィリピン、グアム等が概ね同時、次いで蘭印を占領する作戦構想について、「作戦構想ニ就テハヨク分ツタ」ち言い、「動員ヲヤツテ宜シイ」言う。天皇は、南北二正面作戦での敗北を懸念。

9月11日
・東條陸相、陸軍の「対米戦争準備」状況を上奏。
天皇は、「御前会議の際の発言によって戦争を避けたい。自分の意向は陸相には明らかになったものと諒解する」と確認を求められ、東條は、「思し召しを十分体して交渉妥結に極力努力いたします」と答える。

9月11日
・ルーズベルト米大統領、米防衛海域領内の枢軸国艦船は攻撃と演説。米海軍、「発見次第発砲」命令を下命される

9月12日
・図上演習に上京した連合艦隊司令長官山本五十六、秘密裏に近衛首相と2度目の会談。
日米首脳会談が実現すれば、山本はこれの随員に予定されており、話はその間題が中心になったようであるが、近衛が、「万一交渉がまとまらなかった場合、海軍の見通しはどうですか?」と、前と同じ質問。
山本も、「それは、是非私にやれと言われれば、一年や一年半は存分に暴れて御覧に入れます。しかしそれから先のことは、全く保証出来ません」と、前回と同じく答え、「もし戦争になったら、私は飛行機にも乗ります、潜水艦にも乗ります、太平洋を縦横に飛びまわって決死の戦をするつもりです。総理もどうか、生やさしく考えられず、死ぬ覚悟で一つ、交渉にあたっていただきたい。そして、たとい会談が決裂することになっても、尻をまくったりせず、一抹の余韻を残しておいて下さい。外
交にラスト・ウォードは無いといいますから」と付け加える。

9月14日
・中国・英・米、3国経済会議開催(香港)。

9月18日
・大本営政府連絡会議、杉山参謀総長・永野軍令部総長ら、野村大使を接点とする日米国交交渉の最終的態度を政府に迫る。
「速ニN工作(野村大使による国交調整)ニ関ル帝国ノ最後的態度ヲ決定シ米側ニ提示ス」る事を政府に迫る。
9月6日の御前会議以来2週間近く経過しているが、日米首脳会談実現か否かは判然せず、このまま時を過せば、御前会議決定による日限の10月上旬になっても外交交渉成否の目途が立たない。そのようなことでは米国の遷延策に乗せられてしまうので、日本の最後的態度を速やかに決定して米国に提示する必要がある、という。

9月20日
・大本営政府連絡会議、「日米諒解案の最後的決定ニ関スル件」が審議され、「日本国「アメリカ」合衆国間国交調整ニ関スル了解案」、決定。

これは、6月21日米国案を基礎とする日本側からの最終対案として決定されたものだが、参謀本部の修正意見を全て容れ、駐兵(「一定地域ニ於ケル日本国軍隊及艦船部隊ノ所要期間駐屯」)も、蒋政権と汪政府の合流も、満州国承認も、全て日支和平基礎条件として列記。
豊田外相は、この案を何も新しい条項は含まれていないとして留保、25日、グルー大使に対し、新提案を含まず一種の便利な参考書類(対米総合整理案)との説明を付して伝達。
27日、米国務省へ提出される。

対米総合整理案(アメリカの6月21日案に対する修正提案)。
「(米国政府は)支那事変の解決の実現促進の為、重慶政権に対し戦闘行為の終結及び平和関係の快復の為、日本国政府と交渉に入る様、橋渡しを為すベく、且日本国政府の支那事変解決に関する措置及び努力に支障を与うるが如き一切の措置及び行動に出でざるペし」という1項(9月4日付案の撤兵問題を事実上否定)を含む案をアメリカに通告、これがアメリカ側を一層硬化させる。

9月24日
・海軍の真珠湾情報収集。
この日 真珠湾を5水域に分けて各水域毎に艦船の停泊状況を整理する要領を定め時局の逼迫とともに所要事項の資料を加えて情報を収集(A情報と呼称)。
また軍令部第3部は、邦人引揚船に航空・潜水艦の専門家を乗船させ、常用航路ではない艦隊予定航路/北方航路を航海させて航路上の気象や海上模様を視察させる。
ホノルル総領事附「森村書記生」として諜報活動に従事した吉川猛夫予備役海軍少尉も軍令部第3部嘱託。

9月25日
・大本営政府連絡会議。
永野軍令部総長・杉山参謀総長、政府に10月15日迄に政戦決定を要請。(11月15日、南方作戦発動。10月15日、兵力輸送・日米交渉成否判断)。

「政戦ノ転機ニ関連シ外交交渉成否ノ見透決定ノ時機ニ関スル要望」が提出され、「・・・開戦決意ノ時機ニ関シテハ作戦上ノ要請ヲ重視スヘク之カ為日米外交交渉ハ一日モ速カニ其ノ成否ヲ判定シ遅クモ十月十五日迄ニ政戦ノ転機ヲ決スルヲ要ス」という。
9月6日御前会議決定の「十月上旬頃」が、統帥部は「十月十五日」と日限を切るよう要望。

「昨日(この日25日)ノ連絡会議ニ於ケル統帥部ノ要望大ナル反響ナカリシガ如ク観察セルニ、事実ハ然ラズ、近衛総理ハ心境ニ大ナル変化アリシガ如シ。其事情別紙ノ如シ」(「大本営機密戦争日誌」26日の項)。
戦争指導班有末第20班長が記す別紙には、近衛総理は、連絡会議終了後、宮中大本営で用意した昼食もとらず、会議列席閣僚を伴って首相官邸に帰り、10月15日を期限とする統帥部要望は、強い要望だろうか、と陸相に対して尋ねたという。

及川海相は、両総長は要望文を政府に交付する積もりであったのを、「此際機微ナル関係モアリテ差控へ度」と制める。及川海相は政府が統帥部から要望を正式書類として突きつけられ、のっぴきならなくなるのを避けようとする。
根底には、政府の一員としての海相自身が開戦決意(10月15日期限)に自信を持てなかいとの事情もある。

9月25日
・豊田貞次外相、グルー大使に日米国交調整諒解案(9月20日連絡会議決定)提示。この日、野村大使へも打電。

9月26日
・近衛首相、木戸内大臣と懇談、辞意表明。
27日~10月2日、鎌倉別邸に引籠もる。
「・・・近衛首相と四時より五時十五分頃迄懇談す。軍部に於て十月十五日を期し是が非でも戦争開始と云うことなれば、自分には自信なく、進退を考うる外なしと苦衷を述べられし故、切に慎重なる考慮を希望す」(「木戸幸一日記」下)。
矢部貞治「近衛文麿」(下)では、木戸は「九月六日の御前会議をやったのは君ではないか。あれをそのままにして辞めるのは無責任だ。あの決定をやり直すことを提議し、それで軍部と不一致というなら兎も角、このままでは無責任だ」と、言ったという。

9月27日
・豊田外相、グルー大使の来訪を求め、日米首脳会談実現を本国政府へ意見具申するよう強く懇請。同夜、野村大使へも打電。

会合期日は10月10日乃至15日を好都合とし、近衛総理及現内閣を措いては「当分日米国交調整ヲ為ス機会ナカルベク・・・日本ハ和平ヲ顧念スト雖、敢テ他ノ威圧ニ屈スルモノニ非ズ、又何物ヲ犠牲トシテモ和平ヲ欲スルモノ二非ズ・・・」。

9月29日
・駐米武官から、駐兵問題に絡んで日米交渉成立見込薄との電報、参謀次長・陸軍次官宛てに入る。軍務局員は局長室に集り、日本の譲歩で交渉妥結の場合と、譲歩も開戦もせずに物資欠乏のまま忍耐する場合とを検討。

アメリカに屈服して妥結した場合は、日支事変開始以前の状態にへ退却する事になり、それは重慶に対する屈服であり、支那を侮日の風潮が蔽う事になり到底忍び難い。
対米妥協せずにジリ貧に甘んずる場合は、最後的には対米無条件降伏とになる、という。

武藤軍務局長は、「見透しとしは結局戦争ということかも知れぬ。だがね-、戦争は一歩を誤ると社稷を危うからしめる。俺はどうしても戦争の決断はできない。俺は戦争は嫌だ。殊に先般の御前会議で陛下はあの通りおっしゃったからなあ。とにかくわれわれは外交にベストを尽くさねば相済まぬ」と言う。

9月29日
・駐日グルー大使、日米首脳会談開催を勧める長文の意見書をハル国務長官に具申。

9月29日
・野村大使、ハル国務長官を訪れ、ルーズヴェルト大統領との会見を申入れ。大統領はワシントン不在で、帰国次第米国政府としての覚書を提示するとの回答。

10月
・湖北省、宜昌作戦、実施。宣昌守備の日本軍、中国軍15個師団に攻められ孤立。弾薬欠乏の中、毒ガスのアカ弾と共にきい弾(イペリット)14発使用。700人を殺害。
ヘンリー・スチムソン陸軍長官とルーズベルト大統領、日本軍の毒ガス使用について会談。日本軍が毒ガスを使用した場合の対応(報復の準備)を検討。化学戦統轄部隊で防護服開発などを行う。

10月1日
・鎌倉別邸に籠る近衛首相、及川海相を呼ぶ。沢本頼雄海軍次官の証言。

(及川)
「総理は絶対非戦主義なりと言はるるも、それ丈けにては陸軍を引っ張って行けませぬ。又此の儘緊張状態を続けて行けば、資源の消耗大・・・にして到底永続し行けず、速やかに国交を調整して自給し得る様為ざるべからず、それにはを米国案を鵜呑みにする丈の覚悟にて進まなければならぬ。総理が覚悟を決めて邁進せらるるならば、海軍は充分援助すべく、陸軍もついて来るものと信じます」。
(近衛)「それなら安心した。自分の考へもそこにある。・・・」。

10月2日
・ハル米国務長官、首脳会談に関する米国政府の正式回答を、9月6日提案(9月3日決定の申入れ)の形で、実質的にこの日迄の日米交渉を総括する米国政府の見解として、野村大使に手交。
首脳会談(8月7日日本提案、ホノルル)の事前諒解要求(一切の国家領土保全、主権尊重等4原則確認、仏印・中国撤兵等)の正式覚書。

ハルは回答伝達にあたり、野村に「米国政府は予め諒解成立するにあらざれは、両国首脳会見は危険であると考えて居ること、太平洋全局の平和維持の為には一時の間に合せに纏った諒解では不可で、はっきりとした協定を欲する」と告げる(野村「米国に使して」)。

米国国務省政治顧問ホーンペックに代表される米国政府の正確な対日認識。
ホーンペックの主張。「日本が重大な決意をなす必要に直面していること以外には、今日「危機」は存在しない。現在の本当に「重大な危機」は日本国内の危機である」「現在の重大問題は日米間の問題ではなく、日本の政治並びに軍事指導者の内部とそれらの間の問題である」
「最近数年間日本を支配して来た分子が依然として日本を支配する限り、日本が平和国家となり、極東に平和状態を作り出しそれを縫持し、てして太平洋が真に安全となる見込みは少しもない・・・」(「米国外交白書」)。

国務省極東部対日主任バレンタイン、「九月六日の提案に対して、・・・我が政府の態度を明らかにすると同時に、その態度の通告は友好的論調をもってし、今後の論議のための門戸を開放し、かつ論議の終止に対する責任は日本に負わせることに努める」(交渉打切り責任を日本に被せる)よう、ルーズベルトに進言。

米国覚書は、何一つ具体的な希望を提示せず、しかも、根本的原則検討を継続の上で、両国首脳会談実現に希望を托す形で結ばれる。

10月3日
・第1、11航空艦隊司令長官名で両参謀長草鹿龍之介・大西瀧治郎、連合艦隊司令長官山本五十六にハワイ作戦撤回進言。山口県室積沖旗艦「陸奥」で。2人とも、山本に同調させられる。

10月3日
・野村大使、「日米交渉は遂にdeadlockとなれる感あり、世界政局に大なる変化ある場合及び日本が政策を転向する場合の外対日外交は不変なりと思考す」と豊田外相に具申。

10月4日
・ゾルゲ、日米開戦が1941年の年末であることを報告。ゾルゲの最後の報告。
この日クラウゼンはゾルゲに託されたラムゼイ報告6通をモスクワに打電。クラウゼソ供述によれば、内容は次の通り。
「日米会談は最終的段階に達せり。近衛の見解によれば、支那、仏印における八か所の海空軍基地の建設を行わざれば、会談は成功せんと。一〇月中旬までにアメリカにして妥協を肯んぜざれば、日本は同国を攻撃し、さらにマレー諸国、シソガポール、スマトラを攻撃せん」(「現代史資料」四)。
1991年夏クーデタ前に発行されたKGB機関紙に掲載されたゾルゲ電報10月4日付のものには、さらに「アメリカ合衆国との軍事行動は、年末に開始されるはずだ」と記されている。
クラウゼンによれば、ラムゼイ報告発信回数は、1939年50回、40年60回位、41年22回で、電文数は41年5月以降だけで64通という(「現代史資料」三)。

10月4日
・大本営政府連絡会議、米国の覚書に対する回訓、外務省案を不採択。
陸相 米ノ回答ハ「イエス」カ「ノー」カ又ハ其ノ中間ノ三テアルヘキ所、今次米回答ハ「イエス」ニアラス「ノー」ニアラス。帝国ハ此ノ際外交ノ見透ヲツケネハナラヌ。事ハ極メテ重大ナルヲ以テ対米回答電文ハ暫ク措キ、慎重ニ研究スル必要アリ。 参謀総長 陸相ノ所見ニ同意ナリ。而シテ時間ヲ延ハサレテハ統帥部トシテハ困ル。引キ延ハサレテハ南モ北モ中途半バトナル。本日ハ決定スルコトナク研究ノ結果決定スヘシ。 軍令部総長 最早「ヂスカツシヨン」ヲナスへキ時ニアラス。早クヤツテモライタイモノタ。・・・以下審議なし(「杉山メき」)
「ヂスカツシヨン」・・・。和戦の決は政府が採るべき事柄で、統帥部としては作戦上の必要から、何れかに早く決めてもらいたい、という。
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