2017年2月19日日曜日

堀田善衛『ゴヤ』(113)「版画集『戦争の惨禍』」(1) 「彼の理性は、この戦争の惨禍を前にしての人間の弱さ、無力な怒りと悲しみなどを記録することの空しさ加減を恐らくは明らかに告げていたであろう。」

版画集『戦争の惨禍』

元来この版画集のための赤チョークによるデッサンと、銅版への刻画そのものも、六年間の長きにわたる対仏戦争中に、老ゴヤがそのアトリエにあってこつこつと、なるべく人には知られぬようにして、しかもなお情熱をこめて描き、かつ刻みつづけて来たものであった。なかには(六五番以降)戦後に、フェルナンド七世のスペイン復帰以後に描かれかつ刻まれたものも含まれている。
・・・ゴヤは、年老いて、枯れたり乾上ったり、あるいは円熟というものをしたりする人ではなかった。
ここに強烈に躍動して小さな版画の画面から溢れ出ようとしている情熱は、それは主として”憎悪”にかかわる情熱であることに先ず注目をしなければならないであろう。

・・・その主題となるもののほとんどすべては、発表どころか、それが描かれて存在しているということ自体、危険を犯すことになる。・・・
彼の理性は、この戦争の惨禍を前にしての人間の弱さ、無力な怒りと悲しみなどを記録することの空しさ加減を恐らくは明らかに告げていたであろう。・・・
何分にも彼は、当時としての、宮廷画家としてのみならず、職業的画家としての埒も乗り越えて出てしまっているのである。画家とは、かかるものを描くために在るものではなかった。

この版画集は、先にも一度述べたように、一八二〇年になってから彼の友人で美術史家のセアン・ベルムーデスが、画家がほんの少数を極秘に刷ってみたものを編集して、「スペインがボナパルトと戦った血みどろの戦争の宿命的結果とその他の強烈な気まぐれ」と命名した八五枚からなっていた。公刊は、画家の死後三五年もを経ての、一八六三年まで待たなければならなかった。美術アカデミイはこれを公刊するに際して、戦争の惨禍と一応関係ないとして、最後の三枚の、鎖につながれた囚人を描いたものをはずして、改めて『戦争の惨禍(Los Desastres dela Guerra)』との題名をつけたものであった。けれども、最後の三枚の囚人図もまた、歴史の文脈においては戦争の惨禍、祖国の解放のために戦ったものが誰によって裏切られたかを証言するものであって、やはり欠くことの出来ないものである。
『戦争の惨禍』1「やがて来るに違いないことに対する悲しむべき予感」1808-14

『戦争の惨禍』2「理由あってのことなのか、それとも」1808-14

『戦争の惨禍』3「これもまた」1808-14

その第一頁の第一番は、・・・。つむじ風でもが吹き荒れているかのような、動きかつ揺れている真暗な背景の前面に、百姓とも市民とも聖職者ともつかぬ男が、胸をはだけ手を左右にひろげて跪き、宙空にその兇徴を注視し、何事かを聴きとろうとしている。
これは戦後に描かれ刻まれて、集全体の序としたものである。男の姿勢、姿態は明らかに宗教画の伝統に由来しているものであるけれども、それはいわゆる受難や殉教などということとは遠く距ってしまっている。いや、距っているなどというよりも、人々が「やがて」蒙らなければならぬ苦痛と悲惨は、実にあまりに近過ぎて、気付いたときにはすでに、第二番の・・・ように、もう銃剣によって刺し貫かれている。この詞書は「有無を言わさずに」と訳した方がいいかもしれない。

この集は、大体のところ、七つの部分に分けることが出来る。
第一は、いま言った第二番から第一九番までの、仏軍の残虐と陵辱に対する、スペイン側の、仏軍にもおさおさ劣らぬ勇猛果敢かつ残酷な復讐の戦いを描いたものである。
槍と短刀で、近代装備の軍隊に襲いかかる。第三番では、破衣にわらじ履きの百姓がマサカリを振り上げている。立派なサーベルを手にして地によろめいているフランス兵は、銃弾で死ぬことは考えたことがあっても、マサカリでぶっ殺されることがあろうとは、考えてみたこともなかったであろう。

ゴヤ『戦争の惨禍』4「女性たちは勇気を与える」1808-14

ゴヤ『戦争の惨禍』5「彼女らも猛獣のようだ」1808-14

ゴヤ『戦争の惨禍』8「こんなことはいつも起った」1808-14

第四番、五番は、・・・、前者は夜陰に乗じて一人の女性は拾ったサーベルを振るって敵兵を刺し殺し、もう一人の女性はこれはサーベルを打ち落されたものか、お椀帽の敵兵とむんずとばかり組み合っている。第五番は、女ばかりが、そのうち一人は赤ん坊を左手で小わきにかかえ、右手で槍を敵兵に突き刺している。左端の女性は大きな石を頭上に抱え上げて、いま打ち落そうとしている。
いわゆる正規軍対正規軍の通常戦ならぬゲリラ戦では、不意を襲われた軍にあって動物もまた恐慌状態に陥る。怯えた馬は何にでも蹴躓いて転ぶ。・・・第八番は、おそらく実際の戦闘地帯から遠くはなれた地点での落馬事故を描いたものである。

ゴヤ『戦争の惨禍』9「彼女たちはそれを望まない」1808-14

ゴヤ『戦争の惨禍』10 1808-14

ゴヤ『戦争の惨禍』11 1808-14

ゴヤ『戦争の惨禍』13 1808-14

ゴヤ『戦争の惨禍』19「もう時間がない」1808-14

ゴヤ『戦争の惨禍』12「そのために生れてきたのか?」1808-14

ゴヤ『戦争の惨禍』15「かくて救いはない」1808-14

ゴヤ『戦争の惨禍』16 1808-14

ゴヤ『戦争の惨禍』18「埋めて、黙っていよう」1808-14

ゴヤ『戦争の惨禍』14「辛い段」1808-14

そうして、九、一〇、一一、一三、一九番の五枚は、女性に対する強姦陵辱の景である。はじめの第九番は、豚の皮の水袋をつけた水車小屋内での惨劇である。逆立った毛皮帽子に、これも逆立ったロヒゲの兵にむんずと抱き寄せられた若い女房は、兵の頬に爪を立てて抵抗し、短剣を振りかざした母親が兵の背中に、いままさにぐさりと突き刺そうとしている。これら強姦図における影と光の対比は怖ろしいばかりである。そうして第一九番、・・・は、おそらく集団強姦の場へ、いささか遅れて駈けつけて来た兵が、げだものどもめ、そんなことをしている暇はないんだ、と警告をしているものと読みとられる。・・・

これらの残虐図にはさまれて、第一二番は、あたかも巨大な蝙蝠かと見える戦火による煙を背景とした屍の堆積に、口から大量の血を吐いてよろめく男が配されている。・・・一五番の『五月の三日』の処刑図の先駆をなすものは、「かくて救いはない」と詞書されている。
そうして一六番のそれに見られるように、屍からは、敵味方を問わず衣類は再び使用されるために剥ぎとって - スペインは貧しい -、裸にむかれてしまった屍の間に、夫を息子を見つけることが出来なければ、屍を「埋めて、黙っていよう」(一八番) - その他に何が出来るか。

この第一分類中で、いささか類を異にしているものは、一四番・・・である。それは狂ったように眼をらんらんと光らせた司祭が、吊るせ、吊るせ、と喚めきたてていて、被処刑者が階段を押し上げられてい、背景にはすでに吊るされた犠牲者がブランコのように左右に揺れている。
ここに兵の姿はない。
これは、これまでのものとは逆に、スペイン人によるフランス人殺戮図である。一八〇八年五月二日のマドリード蜂起につづいて火が全国に及んだとき、バレンシアで「食肉獣」と仇名された狂信の修道士カルポなるものが煽動をして、フランス人在住者三八〇人を殺した。そのときの処刑図と解されている。

ゴヤ『戦争の惨禍』40 1808-14

ゴヤ『戦争の惨禍』44「私がこれを見た」1808-14

ゴヤ『戦争の惨禍』45「これもまた」1808-14

・・・敵も味方もないのである。
一旦解き放たれた野獣性は、たとえば後半冒頭(第四〇番)の怪獣のように、如何に一人の女性が短剣を振るって押しとどめようとしても、それはとめられるものではなかった。

これらの血まみれの惨禍のすべてを、言うまでもなくゴヤは「私がこれを見た」(四四番)「これもまた」(四五番)として自らの実見にもとづいて描いているわけではない。
しかし、人々からの実見の話、あるいはその伝聞が、聾者であって音のない世界、あるいは怪音のみが頭蓋の暗黒のなかにあって轟いている世界に生きるゴヤにつたえられた場合を想像してみなければならない。
日も夜も、人間の為すありとある残虐が彼の頭蓋を占領したとすれば、つたえられた話の仔細は、ついには「私がこれを見た」としてゴヤによって生きられたものに昇華して行くであろう。




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