東京 江戸城(皇居)東御苑 2012-06-14
*天慶4年(941)
天慶の乱(将門・純友の乱)の歴史的位置
将門/純友の乱の共通点と相違点
(1)共通点
①2人は、9世紀未~10世紀初頭の体制転換期に生まれた。
公卿・殿上人からなる宮廷貴族社会が形成され、五位への叙爵ルートが固定していくこの時期、父親の早世は子孫の昇進に大きな打撃であり、宮延貴族社会から脱落していく要因となる。
平高望の父高見王は無位のまま早世し、高見王の兄の高棟(たかむね)王統平氏(公家平氏)が代々公卿になったのとは対照的に、子孫は宮廷貴族社会から転落した。
平将門自身も、父の死により宮仕えを辞めて無位のまま帰郷した。
純友も、父艮範の従兄の推挙で伊予掾になっていることからみて、父は早く死去したと考えられる。彼もまた宮廷社会から締め出された。
②それでも2人は、貴族社会に地歩を得る努力を怠ってはいなかった。
彼らは兵衛尉(ひようえのじよう)や衛門尉(えもんのじよう)を経て五位に叙され、受領の道を歩む人生を求めていた。
その機会の一つに勲功賞による叙爵があった。
2人が海賊追捕や紛争調停に全力で取り組んだのは、勲功賞を期待してのことであった。
しかし、その期待がくじかれ、憤懣が沸点に達したとき、反逆に立ち上がらざるをえなかった。
③2人とも武名をもつ英雄であった。
忠平宛て書状のなかで「将門、天の与へたる所すでに武芸にあり。思ひ惟(はか)るに、等輩(とうはい)誰か将門に比せん」と述べているように、将門には「武芸」への強烈な自負があった。
その武名は坂東・京畿内に響きわたり、坂東諸国受領も将門の治安維持能力に頼っていた。
一方、純友は承平南海賊を無血一斉投降させた最高殊勲者であり、平定後、伊予守紀淑人から国内治安維持を任され、瀬戸内諸国の紛争調停者としての役割が期待されていた。
讃岐や大宰府の電撃的占領にみる果敢さは、彼の卓抜した武勇を示している。
④2人は、政府の評価と処遇に満足していなかった。
将門は忠平に、「朝延から褒章されないばかりか、逆にしばしば譴責されてきたことは、恥辱であり面目を失うものである」と抗議している。
この「恥」と「面目」こそ、将門決起の内面的動機であった。
純友も承平南海賊平定の最高殊勲者でありながら、勲功申請を黙殺される。
純友が盟友文元の救援を決断したのは、年来の怒りの爆発であり、据え置かれたままの恩賞を要求する抗議行動だった。
⑤2人はともに、自己の武芸に対する過信という錯覚に陥った。
彼らは、自らの武芸で世界が動くと信じていた。しかし、彼らは、自己の武芸が本当に威力を発揮するのが、追捕官符を賜与され国家の軍事指揮官として戦っている時だけであるという冷厳な事実に、気がついていなかった。
将門も純友も、追捕官符が約束する勲功賞に群がる政府軍に敗れ去った。
その後の反受領蜂起(凶党蜂起)の先駆
将門反乱軍の指導者・幹部は、延喜勲功者子孫であり、純友反乱軍の指導者は純友・文元・三辰ら承平勲功者自身であった。
また将門・純友のもとには、受領に反発する田堵負名層が結集した。
田堵負名層にとって、旱魃・飢饉にあえぐなかで、徴税事務をマヒさせ、国衙と負名との間にある支配関係を一時的にも破棄する国衙占領・受領追放は、歓迎すべき面があった。
将門や純友も一面では負名であった。
将門・純友の乱には、登場まもない王朝国家の受領支配に対する田堵負名層の闘争という側面があり、その後の反受領蜂起(凶党蜂起)の先駆でもあった。
一方の政府軍主力も、将門の乱では坂東諸国押領使に任じられた秀郷・貞盛・公雅・遠保ら延喜勲功者子孫であり、純友の乱では、現役の下級武官や東国から転戦した延喜勲功者子孫が、追捕山陽南海遣使小野好古指揮下の幕僚や諸国警固使になっていた。
動員された諸国の兵力は田堵負名層であった。階層的には、反乱軍も政府軍も同一であった。
武士・田堵負名層のうち、ある者は受領の収奪に反発する立場から将門や純友に身を託し、ある者は勲功賞による出世を夢見て政府軍に身を投じた。
政府軍に寝返り讃岐・伊予での政府軍の勝利をもたらした藤原恒利や、文元をだまし討ちにした賀茂貞行などは、勲功賞にかける地方武士の姿を典型的に示している。
武士たちは、将門や純友の悲運を目の当たりにして軍事的抗議の無意味さを悟り、政府も武士たちへの冷遇が大規模な反乱を招くことを知った。
天慶の乱の後ほぼ100年間、武士の大規模反乱は起こらない。
武士たちは、勲功賞をステップに位階・官職の昇進を目指す、王朝国家の戦士として歩み始める。
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