鎌倉 成就院 クロジクアジサイ 2012-06-20
*ナオミ・クライン『ショック・ドクトリン』を読む(13)
「序章 ブランク・イズ・ビューティフル - 三〇年にわたる消去作業と世界の改変 -」(その2)
このときのフリードマンの論説(ハリケーン・カトリーナ来襲の3ヶ月後に教育バウチャー制度を提唱した)は、けっきょく彼が生涯最後に提言した公共政策となった。
論説掲載から約一年後の二〇〇六年一一月一六日、フリードマンは九四歳でこの世を去った。
過去半世紀でもっとも影響力のあった経済学者と言われるフリードマンである。・・・フリードマンの信奉者には、ここ数代のアメリカ大統領からイギリス首相、ロシアの新興財閥、ポーランドの財務大臣、第三世界の独裁者たち、中国共産党書記長、国際通貨基金(IMF)理事、米連邦準備制度理事会(FBR)の過去三人の議長までが連綿と連なっているのだ。・・・
ショック・ドクトリン(ナオミ・クライン)=
「現実の、あるいはそう受けとめられた危機のみが、真の変革をもたらす。」(フリードマン)
フリードマンはきわめて大きな影響力を及ぼした論文のひとつで、今日の資本主義の主流となったいかがわしい手法について、明確に述べている。私はそれを「ショック・ドクトリン」、すなわち衝撃的出来事を巧妙に利用する政策だと理解するに至った。
彼の見解はこうである。
「現実の、あるいはそう受けとめられた危機のみが、真の変革をもたらす。危機が発生したときに取られる対策は、手近にどんなアイディアがあるかによって決まる。われわれの基本的な役割はここにある。すなわち現存の政策に代わる政策を提案して、政治的に不可能だったことが政治的に不可欠になるまで、それを維持し、生かしておくことである」。
大災害に備えて缶詰や飲料水を準備しておく人はいるが、フリードマン一派は大災害に備えて自由市場構想を用意して待っているというわけだ。
このシカゴ大学教授の確信するところによれば、いったん危機が発生したら迅速な行動を取ることが何よりも肝心で、事後処理にもたついたあげくに「現状維持の悪政」へと戻ってしまう前に、強引に襲撃をかけて改革を強行することが重要だという。「新たな陣営が大改変を成し遂げるには半年から九カ月かかると予測される。その間にもし断固とした行動を取る機会を逸すれば、変革のチャンスは二度とやってこないであろう」。
負傷を負わせるなら”一気呵成に”襲いかかれというマキアヴェリ思想のバリエーションであるこの考え方は、フリードマンの提唱した戦略のなかでももっとも長く後世に影響を及ぼす遺産となった。
チリの独裁者ピノチェトの経済顧問 : 経済的「ショック治療」を採用
大規模なショックあるいは危機をいかに利用すべきか。フリードマンが最初にそれを学んだのは、彼がチリの独裁者であるアウグスト・ピノチェト陸軍総司令官の経済顧問を務めた一九七〇年代半ばのことだった。
ピノチェトによる暴力的な軍事クーデターの直後、チリ国民はショック状態に投げ込まれ、国内も超インフレーションに見舞われて大混乱をきたした。
フリードマンはピノチェトに対し、減税、自由貿易、民営化、福祉・医療・教育などの社会支出の削減、規制緩和、といった経済政策の転換を矢継ぎ早に強行するようアドバイスした。
その結果、チリ国民は公立学校が政府の補助金を得た民間業者の手に渡っていくのを呆然と見守るしかなかった。
チリの経済改革は資本主義の大改革のなかでもいまだかつてないほど激烈なものだった。
この手法が「シカゴ学派」の改革と呼ばれるようになるのも、ピノチェト政権下のエコノミストの多くが過去にシカゴ大学のフリードマンのもとで学んでいたからである。
フリードマンは、意表を突いた経済転換をスピーディーかつ広範囲に敢行すれば、人々にも「変化への適応」という心理的反応が生じるだろうと予想した。
苦痛に満ちたこの戦術を、フリードマンは経済的「ショック治療」と名づけた。
以後数十年にわたり、自由市場政策の徹底化を図る世界各国の政府はどこも、一気呵成に推し進めるこのショック治療、または「ショック療法」を採用してきたのである。
経済的ショック療法と拷問は表裏一体
経済的ショック療法に加え、ピノチェトは彼独自のショック療法も採用した。
ピノチェト政権が数多く設けた拷問室の中で、資本主義的変革に盾突く恐れがあるとして捕らえられた人々の身体に、すさまじい暴力が加えられるという形のショック療法である。
多くのラテンアメリカ人は、何千万もの国民を貧困に追いやる経済的ショック療法と、ピノチェト路線とは違う社会を願ったことへの罰として与えられた数十万の人々への拷問の横行が、表裏一体の関係にあると見た。
ウルグアイの作家エドゥアルド・ガレアーノはこう問うている。
「電気ショックの拷問なくして、どうしてこんな不平等社会が存続できようか?」
チリの30年後、イラクでもまた同じ手法が使われる
軍事クーデター、経済改革、暴力的弾圧という三つのショックがチリに襲いかかってからちょうど三〇年後、ふたたび同じ手法が、より大規模な暴力を伴ってイラクの地に登場してくる。
まず初めに戦争がしかけられた。
『衝撃と恐怖』に書かれた軍事戦略によれば、それは「敵の意志、認識、理解力をコントロールし、その軍事行動あるいは反撃を封じるため」だという。
それに引き続き、アメリカによって送り込まれたポール・プレマー連合国暫定当局(CPA)代表によって、まだ戦火のやまぬうちから徹底的な経済的ショック療法が導入された。
それが大規模な民営化、完全な自由貿易、一五%の一律課税、政府の大幅縮小、といった政策だった。
当時、イラクで暫定通産大臣の役にあったアリ・アブドウル=アミール・アラウィは、「われわれイラク人は実験台にされるのにいいかげんウンザリしている。これほどの衝撃が全土を襲ったうえに、今さら経済ショック療法など必要ないではないか」と苦言を呈した。
これに抵抗したイラク人はたちまち検挙されて収容所へと送り込まれ、さらなるショック療法を与えられた。
もはや比喩どころの話ではない、本物の「ショック療法」が心身に施されたのである。
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