鎌倉 長谷寺 2012-06-20
*天慶5年(942)
この年
・駿河国では、掾橘近保が官物を奪ったために政府から逮捕命令がでている。
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3月
・この月、朱雀天皇は詔をくだし公卿大夫と京官(けいかん)・外国(げこく、畿外の七道諸国)の五位以上の長官、儒士らに時政の得失を論じた封事(意見書)を提出させる。
また、その後2~年にわたりその提出を促す。
内乱に触発され、封事を地方長官に求めた。
どれほどの封事が提出されたか、延喜の三善清行や少しあとの菅原文時(ふみとき)の封事と並ぶだけのものがあったかどうかは不詳。
政府がしきりに封事の提出を地方長官に督促しているところをみると、受領たちはそれにあまり強い関心を示さなかったようである。
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3月19日
・朝廷、「追捕東西凶賊使」らの軍功を議定(『本朝世紀』)
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3月22日
・藤原実頼、参内し「東西軍功」を議定(『本朝世紀』)
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閏3月1日
・「問東国密告使」の源俊(「右衛門権佐」)・高階良臣(「左衛門少尉」)・阿蘇広遠(「勘解由主典」)ら、「恩赦」により赦免(『本朝世紀』)。
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・同日、小野好古(「参議従四位下」)、左中弁に就任(『公卿補任』)
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・同日、源信明(「若狭守」)、大宰府へ赴任。但し内裏「触穢」により中重にて奏上し禄は賜らず(『西宮記』)。
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閏3月1日
・犬の死「穢」及び死童の投入で「穢」に触れた源嘉生(「前出羽介」)の藤原実頼訪問により「穢」が公家にまで影響。
内裏が触穢の疑いが発生。原因究明のため源嘉生(「前出羽介」)を召問し、「触穢」嫌疑の立札を諸陣に掲示(『本朝世紀』)
9日、源嘉生(「前出羽介」)の召問(『本朝世紀』)
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閏3月25日
・内裏の触穢により「建礼門」前において「大祓」が実施される(『本朝世紀』)
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4月14日
・東西賊徒平定の報賽のため「伊勢大神宮」及び諸社へ奉幣(『日本紀略』『本朝世紀』)。
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4月27日
・「宇佐八幡宮」・「香椎廟」・「石清水」八幡宮へ東西賊徒平定の御報賽のための奉幣使が発遣される。
また、この日に石清水八幡宮で臨時祭が執行される(『日本紀略』『扶桑略記』)。
「宇佐使」は小野道風(「右衛門佐」)、「石清水使」は源允明(「播磨守」)と決定。
「賀茂臨時祭」は天慶2年より毎年実施することを祈申す(『西宮記』前田家本、『西宮記』)
石清水臨時祭:
石清水八幡宮に派遣する勅使に神宝を持たせ、併せて舞人・歌人などを同行させた。
目的は、将門の乱および純友の乱の平定に感謝して、祭礼を行うため。
以後、この祭祀は、石清水臨時祭と呼ばれ、天禄2年(971)から恒例になり、3月の午(うま)の日に行われるようになった。
戦乱により、一時中止されたこともあったが、復興されて現在も行われている。
石清水八幡宮は、平安京鎮護を目的として、貞観元(859)年、宇佐八幡から勧請された山城国の南に鎮座した。歴代の天皇の尊崇を集めていたが、天慶の乱の際には、とくに朱雀天皇がその討減をたびたび祈願していた。
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4月29日
・朱雀天皇、賀茂社へ行幸。神宝・幣帛・走馬を奉加し、祢宜等の加階を行う。
「賊乱」平定の御報賽のため。
行幸に際し「左右検非違使」に銭30貫文を給与。
朱雀天皇による「賀茂上下社」行幸は神社行幸の最初であるという。
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4月30日
・「群盗」入京、京中騒擾す(『日本紀略』)
この月、群盗が京極の人宅に押し入り財物を奪い去った。
被害が大きく、朝廷で問題になり、夜間は諸衛府の舎人らが街巷を巡邏して警戒にあたることになった。
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5月1日
・諸衛、夜行して群盗に備う(『本朝世紀』)
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