東京 江戸城(皇居)東御苑 2012-06-14
*天慶4年(941)
天慶の乱の歴史的位置(2)
将門/純友の乱の相違点
相違点
①将門の乱の前提には長期にわたる一族内闘争があったが、純友の乱は純友がいきなり備前の反受領闘争に介入することによって始まった。
②将門の場合、坂東諸国を制圧した段階で、域内に藤原秀郷・平貞盛ら有力な敵対勢力がいたが、純友の場合、制圧地域内に有力な敵対勢力はいなかった。
③将門の場合、反乱を決意した政治目的が曖昧である。坂東諸国占領の目的は「暫(しばら)く気色(けしき)を聞く」ためであった。それに対して純友の場合、政治目的は非常に明確である。純友は五位叙爵とかつての盟友たちへの任官を要求し実現した。
④将門の場合、新皇(しんのう)に即位して坂東諸国受領を任命するなど、自らの支配機構を築こうとしたが、純友の場合、そのような形跡はない。
⑤将門の乱の鎮圧主体は現地の反将門勢力であったが、純友の乱の鎮圧主体は中央から派遣された鎮圧軍であった。
⑥将門の乱は坂東制圧後2ヶ月で鎮圧されたが、純友の乱は完全鎮圧まで2年近くを要した。
相違点の根本には、坂東と瀬戸内地域との王朝国家体制への転換の仕方の違い、反乱状況の違いがある。
坂東の場合、寛平・延喜の国制改革への暴力的抵抗が、改革と並行して起こった。
その鎮圧過程で武士が登場した。
将門は、東国の乱で活躍した「武士第一号」平高望から第三世代目である。
将門の叔父・従兄弟ら平氏だけでも、坂東諸国に広く播裾し、これら第二・第三世代の坂東武士は、国衙に対して負名という立場では共通利害に立っていたが、競合する面のほうが強かった。
そのため、将門の乱では一族内闘争が先行し、将門が敵対勢力を一掃できず、反乱目的が不明確にならざるをえなかった。
そのことは、政府が追討官符によって反将門勢力や傍観勢力を結集することを容易にした。
従って、将門は坂東占領を継続するために独自の権力形成が必要であったし、政府との本格的な和平交渉を始める前に、地域内敵対勢力によって鎮圧された。
瀬戸内諸国では、国制改革は寛平・延喜年間には大きな暴力的抵抗を受けることなく受容され、承平年間まで持ち越された衛府舎人問題が承平南海賊として爆発した。
純友・文元・三辰らは、この承平南海賊平定の勲功体験を共にする土着武士第一世代であり、政府の勲功黙殺に共通の不満を抱いていた。国衙に対する負名としての立場も共通であり、地域内に敵対勢力が存在せず、受領と反乱勢力との対立は直接的であった。
そのため、国司襲撃から出発し、恩賞要求という明確な政治目的を掲げることができた。
純友の乱が長期化したのは、地域内に対抗勢力が形成されていなかったからであり、中央から投入した政府軍によって鎮圧せざるをえなかった。
将門の乱と純友の乱を総称して、「承平・天慶の乱」と呼ばれてきた。
しかし承平年間の坂東での合戦は、将門と叔父たちとの私闘であり、政府・国衙は将門の平和維持活動に期待してさえいた。
将門が国家に敵対することになったのは、常陸国衙を占領した天慶2年(939)11月であった。
純友は、承平南海賊では平定側の立役者であり、彼が反逆するのは、天慶2年12月、備前介子高を摂津国須岐駅に襲撃したときであった。
「承平・天慶の乱」の呼称は、承平年間の状況と天慶2年以降の反乱との性格の違いを見えにくくし、承平年間から一貫して将門・純友が反逆者であったかのような印象を与えてしまう。
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