東京 江戸城(皇居)東御苑 2012-06-14
*天慶4年(941)
天慶の乱の歴史的位置(3)
天慶勲功者子孫と武士
天慶の乱平定後、鎮圧側の人々に武士になった者とならなかった者がいた。
上野国押領使藤原惟条(ふじわらのこれなが)や山陽・南海道追捕使長官小野好古らの子孫は武士になっていない。
京に逃げ帰り将門謀反を密告したとき「いまだ兵道(つわものみち)に練(ね)れず」と評された源経基(みなもとのつねもと)は、純友の乱では追捕使次官として活動し、武士になった。
『三代実録』などの正史にある薨卒伝(こうそつでん、五位以上の官人の経歴と評伝)のうち、紀(き)・伴(とも)・坂上(さかのうえ)・小野(おの)・文室(ぶんや)など諸氏の卒伝には、「家業武芸」「武芸絶倫」などと記載されている。
彼らは「武芸」を「家業」とする「武芸之士」だった。
彼らが武士の源流とする見解もあるが、彼らの武芸は衛府(えふ)で継承されてきた律令的武芸であり、騎射(うまゆみ)・競馬(くらべうま)など宮延儀礼における「見せ物」的武芸であり、実戦経験によって鍛え抜かれた武芸ではなかった。
したがって9世紀に「家業武芸」「武芸絶倫」といわれた武芸官人の家系が、10世紀には武士に転身したとはいえない。
天慶の乱に参加した人々でも、実戦で勲功をあげることができなかった人々は、武士にはなれなかった。
9世紀末~10世紀前半の転換期の反乱鎮圧過程で戦術革命の洗礼を受け、新戦術を我がものにして勲功をあげた者だけが、新たに武士としての社会的認知を獲得した。
源経基を始祖とする清和源氏、
平高望を始祖と仰ぐ桓武平氏、
藤原秀郷を始祖とする秀郷流藤原氏、
を代表として、中世武士の多くは、その系譜のなかで天慶の乱で勲功をあげた英雄たちを祖と仰いでいる。
『平家物語』の合戦場面では、武士たちは始祖以来の手柄を並べ立てて名乗り合ってから(「氏文(うじぶみ)読み」)一駒打ちに入る。
そこでは
「遠くは音にも聞き、近くは目にも見給え。昔朝敵将門を滅ぼし、勧賞をこうむった俵藤太秀郷に十代、足利太郎俊綱が子、又太郎思綱、生年十七歳‥…・我と思わん人々は寄りあえや、見参せん」
というように、経基・貞盛・秀郷ら天慶勲功者の子孫であることに特別な重みがかけられている。
また『今昔物語集』が秀郷・貞盛・経基の子孫たちのエピソードを語るとき、必ず「田原藤太秀郷の孫」「貞盛の孫」「家を継ぎたる兵」「兵の家」などの常套句を付けている。
彼ら天慶勲功者こそが、中世的「武芸」を「家業」とする武士の創始者といえる。
武芸を家業とする武士の道を選んだ秀郷・貞盛・経基らは、実戦経験によって鍛え上げられた武芸を子孫に伝授することに意を注ぎ、子孫たちは英雄的始祖の名に恥じない武士となることを目指して、日夜錬磨に励んだ。
藤原秀郷 下野掾 従四位下下野・武蔵守 日本紀略 小山・足利氏ら始祖
平 貞盛 常陸掾 従五位下右馬助 同上 伊勢平氏始祖
源 経基 武蔵介 大宰少弐 扶桑略記 清和源氏始祖
平 公雅 上総掾 安房守 浅草寺縁起 尾張長田氏ら始阻
平 清幹 上野介 因幡守 類聚符宣抄 安房安西氏始祖
橘 遠保 遠江掾 美濃介 日本紀略 駿遠橘氏始祖
藤原貞包 筑前権掾 本朝世紀
巨勢広利 左衛門少志 同上
大神高実 左兵衛少志 同上 豊後緒方氏始祖?
藤原為恵 兵庫権少允 同上 駿遠工藤氏ら始祖
藤原遠方 左兵衛権少尉 同上
藤原成康 右馬権少允 同上
大蔵春実 右衛門志 従五位下対馬守 大蔵系図 大宰府大蔵氏始祖
藤原倫実 左馬允 楽音寺縁起 安芸沼田氏始祖
越智用忠 従五位下 貞信公記 伊予河野民ら始祖
いかに武芸に優れていようと、勲功者子孫でなければなかなか武士とは認知されなかった。
長元元年(1028)、蔵人の藤原範基(のりもと)は、何者かに「範基は郎等を殺害した」という張り紙を張られ、殿上人や蔵人の間で話題になった。
蔵人頭から話を聞いた右大臣藤原実資(さねすけ)は「もってのほかのことだ。範基が武芸を好むことは万人が許さないことである。彼は内外ともに(父方も母方も)武者種胤(むしやしゆいん、子孫)ではない」と語った(『小右記(しようゆうき)」)。
また藤原道長や実資の家人で大和守などを務めた藤原保昌(やすまさ)は、源平の武士たちと並んで摂関期に勇名を馳せた武士であるが、『今昔物語集』では「兵(つわもの)の家でもないのに武芸で身を立てたから子孫がないのだ」と評されている。
実資がいう「武者種胤」、『今昔物語集』のいう「兵の家」とは、天慶勲功者子孫という意味であり、宮廷貴族の間では、父系・母系で天慶勲功者に連なっていない者がみだりに武芸を好むことは許されないことと認識されていた。
天慶勲功者子孫だけが正真正銘の武士たるの資格と栄誉を享受することができた。
また、武士身分は政府・宮廷貴族そして地方国衙が、天慶勲功者を武士と認知することによって成立したといえる。
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