2012年6月17日日曜日

天慶4年(941)6月20日 伊予国で藤原純友・重太丸父子が伊予警固使橘遠保によって討ち取られる

東京 江戸城(皇居)東御苑 2012-06-14
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天慶4年(941)
1月21日
・正月までに、政府軍は寝返った反乱軍幹部藤原恒利(つねとし)を先導に、讃岐勢を駆逐して伊予に進撃。
この日(21日)、讃岐反乱軍の張本藤原三辰の首が京の西獄門に曝される。
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2月9日
・讃岐国から伊予の反乱軍を撃破したとの国解が届いた。
伊予国は政府軍に制圧された。
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5月中旬
・藤原純友、大宰府・観世音寺を焼き大宰府を占領。
しかし、博多の津では、追捕凶賊使小野好古が純友軍を撃破し、その後、純友軍は次第に劣勢となる。
(経緯)
純友勢は、ひそかに豊後水道を渡り、佐伯是基(さえきのこれもと)・桑原生行(くわばらのなりゆき)ら豊後・日向の反大宰府勢力を糾合し、5月中旬、関門海峡を突破して大宰府を急襲して、政庁を焼き払った。
大宰府占領という軍事的勝利の事実を突きつけ、政府から妥協を引き出そうとする最後の攻勢であったが、政府に純友と和平交渉をする意思はなかった。

19日、飛駅、朝廷へ藤原純友による大宰府虜掠を報告(『日本紀略』他)

19日、藤原忠文(参議)、征西大将軍に任命される(『日本紀略』他)

20日、大宰府を占拠した純友勢に対し、政府軍は海陸から襲いかかった。
陸路からは追捕使長官小野好古率いる政府軍が迫り、海上からは追捕使主典大蔵春実(さかんおおくらのはるざね)、原田氏ら大宰府武士の祖)らの軍勢が博多に上陸する。
迎え撃つ反乱軍との間で死闘が繰り広げられ、春実が髪を振り乱して反乱軍の陣に突入し、藤原恒利らがそれに続き、反乱軍が乗り込もうとする船を焼き払い、撃滅した。
決戦に敗れ去った純友らは、散り散りに敗走し、それぞれの根拠地に逃げ帰っていった。
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6月11日
・備前国から「純友が船を捨て上陸した。入京するつもりらしい」との報告が届く。純友は忠平に弁明したかったのかもしれない。しかし入京が困難と知ってか、純友は息子の重太丸(しげたまる)を伴って伊予に落ちのびる。
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6月20日
・伊予国で純友・重太丸(じゆうたまる)父子が伊予警固使橘遠保によって討ち取られる(『師守記』、『本朝世紀』ほか)。
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6月29日
・この日、伊予国解によって藤原純友射殺の報告に接す(『師守記』)。
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7月6日
・この日、遠保によって進上された純友の首は、9日、東西の市で衆目の前にさらされた(『師守記』)。
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