仁安3(1168)年
この年
・後白河(42)が師と仰ぎ深く敬愛した傀儡子(くぐつ)乙前(84)、没。翌年6月17日、後白河は剃髪する。
「乙前八十四と云ひし春、病をしてありしかど、未だ強々しかりしに併せて、別の事も無かりしかば、さりともと思ひし程に、程無く大事になりにたる由告げたりしに、近く家を造りて置きたりしかば、近々に忍びて行きてみれば、女(むすめ)にかき起こされて対(むか)ひて居たり。弱げに見えしかば、結縁(けちえん)のために法花経一巻誦みて聞かせて後、「歌や聞かむと思ふ」と言ひしかば、喜びて急ぎ頷く。
像法転(じ)ては、薬師の誓ひぞ頼もしき、一度御名(みな)を聞く人は、万の病無しとぞいふ、二三反ばかり謡ひて聞かせしを、経よりも賞(め)で入りて、「これを承り候て、命も生き候ひぬらん」と、手を擦りて泣く泣く喜びし有様、あはれに覚えて帰りにき……。」
・若狭名田荘の成立。
この年、京都に住む左衛門尉盛信、私領(名田郷)を高倉院に仕える伊予内侍の所領摂津野間荘(伊丹市)と交換。伊予内侍は、間もなく立券の手続きを遂げ、後白河院発願により建立された京都蓮華王院(三十三間堂)を本家と仰ぐ荘園として成立。
名田荘は広大な山と川とをその本体として出発、開発済みの田地はごく一部。領主は田地としての開発・用益を目的とせず、「山野」そのものとしての利用に価値を見出し、山そのものが豊かな財産である。
1月6日
・平重衡、正五位下に叙任。
・新田義重、従五位下に叙任。
・久我通親、従四位下に、同月11日、加賀介となる。
1月11日
・高野山僧徒と末寺根来寺の僧徒、争う。200余坊が破壊。
・源師光、右京権大夫を辞退し河内権守となる(「兵範記」、「山槐記」(除目部類))。
1月19日
・後白河上皇(42)、熊野参詣へ出発。
2月11日
・平清盛(51)、病により出家、妻時子(43)も出家。
上皇は熊野詣の留守中。9日、清盛の病気の悪化を聞いた信範は急ぎ六波羅に向かう。
「六波羅亭に向かひ宰相中将に謁す。今朝より大事に御坐すと云々。白河殿密々渡御すと云々。春宮大夫以下君達しかしながら集会す。親疎の人々群々」と、次々に六波羅には見舞いの客が集まっており、白河殿盛子(もりこ)や東宮大夫重盛以下の平家の君達もすべて集まっていた。『玉葉』によれば、清盛は数日前から「寸白(すびやく)」(寄生虫の病)に悩まされており、一昨日にはよくなったが、昨日からまた悪くなったといい、これは「天下の大事」であると記している。
10日、清盛はいったんは病も快方に向かったが、夕方になってまた不快となり、様々な祈祷が繰り返された末、翌日(2月11日)の夜、ついに遁世することになった。出家は、阿闍梨良弘(りようこう)が髪剃役、天台座主明雲が授戒役で行われ、法名は当初は清蓮と付けられたが、後に静海と改名されたという。妻の二位時子も同じく出家した。
蔵人頭平信範は、日記に「除病延寿菩提」は疑いなしと記し、右大臣の九条兼実は『玉葉』に「前大相国所労、天下大事只此の事に在る也。この人の夭亡の後、弥(いよいよ)よ以て衰弊か」と記す。兼実は忠通の子で摂政基房の弟、東宮傅(ふ)であっただけに、清盛の存在についての当時の政界の認識をよく物語っている。
清盛の出家後も、薬師経の読経や五大尊・泥塔(でいとう)の供養が連日にわたって行われたが、小康状態は続いた。後白河上皇は熊野から帰路に向かっていたのを一日早め、15日に京に戻ると、浄衣のまま六波羅に駆けつけている。信範が平時忠から呼び出され、御幸に同道して六波羅に赴くと、そこで大赦を行うように命じられた。摂関以外の臣下の病や出家によって大赦を行う例はなかったが、「朝の重臣」で特例とされたという。
そのまま信範は摂政のもとに行き、さらに検非違使の別当藤原隆季に告げると、別当は囚人の名簿を院に持参した。赦の詔は、清盛が「朝の静謐」のために勲功をなし、「国の安平」のために秘策を練ったと、称えている。翌日に信範が参院すると、上皇はすでに六波羅に御幸しており、慌てて駆けつけたところ、譲位の議定が行われており、19日に摂政の閑院邸で東宮への譲位の行われることが院宣で伝えられた。
22日に信範が六波羅邸を訪れた時には、清盛はまだ不快の日々が続いていたが、24日にやや良好になっている。その後、奇跡的に回復した清盛は、次の年の春まで出家姿で政界を牛耳り、その後摂津福原(現兵庫県神戸市兵庫区平野)に引き籠もる。以来11年間福原に常住し、よほどでなければ上洛せず、そこからの遠隔操作で政局を左右し続けた。
2月13日
・京都大火。千手堂、悲田院、京極寺、人家3千余が焼ける(『百練抄』)。
2月19日
・六条天皇(5)譲位、憲仁親王(8)受禅。3月20日、第80代高倉天皇、即位。後白河上皇の発議(六条天皇親政派牽制、清盛存命中に上皇の皇子を即位させる)。高倉の母後白河上皇の女御平滋子(27、清盛の妻時子の妹)が皇太后となり(3月20日)、平氏は天皇の外戚として全盛を迎える。源(久我)通親、高倉天皇皇太子時代からの近臣以外に新たに昇殿を許された8人の中に加えられ、高倉天皇側近として朝政の中枢に入ってゆく。九条兼実(20)は皇太子傅を停止。
平教盛(清盛弟)、蔵人頭に就任。平氏一門から初めて蔵人頭に任じられた。
六条天皇退位について、兼実は、上皇が清盛と同じく出家の意思のあったことや、清盛がもし亡くなった時には世の乱れる恐れがあったことの二つを理由にあげている。
清盛が早く出家してしまったので、自分が出家するためには安定した政治体制を整える必要があり、そこで寵愛する滋子所生の皇子を即位させたと見られる。
これまで後白河が自身の意思で政治のあり方を決めたことはほとんどない。帝位は近衛の死によって転がり込み、譲位は美福門院と信西の協議によってなされた。始まった院政も平治の乱と二条天皇によって停止され、その復活も二条天皇と藤原基実の死によってもたらされた。しかしここにおいて、後白河は高倉を天皇に据え、自らの力において院政を行うことを決断した。
2歳で即位し、5歳で退位した六条天皇は、新院と称されるが、まだ元服していないで太上天皇となったのは、史上初めてのこと。祖父である後白河上皇の意のままに退位した六条上皇は、これより8年後の安元2年(1178)7月、病を得て13歳の生涯を終える。
3月
・この頃、藤原定家の姉、健御前、後白河院皇后平滋子に初出仕
3月14日
・皇太后宮呈子(38)に九条院の院号宣下。
3月20日
・女御滋子(高倉天皇の母)、皇太后となる。
宮司の皇太后権大夫(ごんのだいぶ)には猶子の宗盛が任じられている。
3月26日
・源(久我)通親、従四位上となる。8月4日、更に正四位下に昇進。
3月26日
・平宗盛(22)、正三位に叙任。
つづく
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