嘉応2(1170)年
7月3日
・殿下乗合(でんがののりあい)事件。
法勝寺(ほっしょうじ)に向かう途中の摂政藤原基房(27)が重盛の次男資盛(13)の乗る女房車に出逢い、礼を失した資盛の乗車が破壊され、「こと恥辱に及ぶ」事件が起こる(『玉葉』)。基房はすぐさま乱暴を働いた舎人(とねり、牛車の牛飼)・居飼(いがい、厩舎で牛馬を世話する役)らの身柄を引き渡し、法に照らして事を処理するよう願った。重盛がこれを受け付けなかったので、摂政は重ねて随身(ずいじん、摂関家などに出向し、従者化した近衛府の下級官人)や前駆(せんく、騎馬で先導する者)7人を自主的に処分し、舎人・居飼を検非違使に引き渡し遺憾の意を表した。それでも重盛は満足しない。
7月15日には法成寺(ほうじょうじ)におもむく途上の基房に恥辱を与える計画を立て、基房が外出をやめて難を避ける。
その後は何事も起こらず、重盛も報復は諦めたのかと思われていた10月21日、天皇の元服定(さだめ)を大内で行うことになって、摂政が参内する途中を武士に襲わせ、辱めを加えた(参内の途中の基房の牛車を、武者200以上が襲い、基房の家来を袋叩き、全員の髪の髻を切り捨てる)。
直後の24日、重盛が参内した時に武者が極めて多かったとあり、重盛が今度は報復を恐れていたと思われる。
「嘉応二年七月十六日 ある人日く、昨日摂政、法成寺に参らんと欲さる。而るに二条京極辺に武士群集し、殿下の御出を伺うと云々。これ前駆等を搦むべきの支度と云々。・・・これ則ち乗逢の意趣と云々。末代の濫吹、言語及ばず。悲しき哉。十月二十一日。ある人云く、摂政参り給うの間、途中において事あり、帰り給い了ぬと云々。・・・摂政参り給うの間、大炊御門堀河辺に武勇の者数多出来し、前駆等悉く馬より引き了ぬと云々。ただ恨む、五濁の世に生まるるを。悲しき哉、悲しき哉。十月二十二日。昨日のこと巷説種々なり。但し前駆五人の中四人においては本鳥を切られ了ぬ。猶、武勇の家、他に異なる歟。夢の如し 」(「玉葉」)。
「玉葉」7月3日の条では、基房の従者が資盛主従に暴行を加えたのは事実だが、直後、基房は資盛の父の重盛に謝罪の使者を送り、当事者の随身・前駆7名を勘当するなど誠意をこめて謝罪したと記す。10月21日報復騒動後、24日に参内した重盛は多くの武士を伴っていたとあり、俗には清盛命令によるとされるこの事件が、重盛が主体であったこと「玉葉」では仄めかす。「愚管抄」では重盛の起こした事件と明記。
『平家物語』では清盛のしわざとし、「これこそ平家の悪行のはじめなれ」と断ずるが(巻一「殿下乗合」)、事実は重盛がやらせたことである。重盛は『平家物語』では文武に優れ、運命を覚る「賢人」として描かれ、『愚管抄』でも「イミジク心ウルハシクテ」と評価されている(巻五)。「武勇時輩に軼(すぐ)ると雖も、心操(性格)甚だ穏やかなり」と形容する歴史書もある(『百練抄(ひゃくれんしょう)』)。「穏やか」は静かで落ち着いている様子に加え、やり方が道理にかなったさまをいう。
鎌倉中期成立の説話集『十訓抄』には、重盛が賀茂祭を見物しようと、一条大路のあらかじめ都合の良いところに、空の牛車五両を並べて場所取りをさせておく話がある。作者は彼の威勢をもってすれば、どんな車もこれと争うなど考えられないけれど、車の立て場所の件で光源氏の愛人六条御息所(みやすんどころ)が正妻の葵上に辱められて生霊となった『源氏物語』の話もあり、人に迷惑をかけることがあってほならないと考えたからだと述べ、「さやうの心ばせ(心の持ち方)、情け(人情味)ふかし」と結んでいる(一ノ二十七)
重盛には殿下乗合事件のように、我が子に加えられた恥辱を「フカクネタ(妬)ク思」 い(『愚管抄』巻五)、3カ月もたち相手が忘れたころ報復を加えるなど、執念深い一面もあった。彼の母は、摂関家大殿の忠実が右近将監高階基章(たかしなのもとあきら)の妻という身分低き人妻に生ませた不倫の子である可能性が高く、それが真実なら基房と重盛は忠実の孫同士にあたる。清盛自身が白河法皇の落胤であるから、院政期の人間関係はまことに淫靡であるが、重盛の行動は、母の出生の秘密から摂関家にこだわりをもっていて、チャンスとばかりに派手なうさ晴らしを行なった、とも解釈できる。ちなみに、忠実も相当に「執(執着)フカキ人」だから(『愚管抄』巻四)、これは祖父からのあまりありがたくない遺伝であろうか。(高橋正昌『平家の群像』)
重盛による報復実行日が、天皇の元服という重要儀式の当日だったことで重盛に禍根を残すことになる。元服定は延引されている。天皇の乳父であり、重盛の乳父らしからぬ行為に重盛の権威は失墜したであろう。10月30日には法皇の命を受けた藤原光能が福原の清盛を訪れている。12月に摂政が太政大臣を兼ねたのは、摂政を慰撫するためのものとも見られる。清盛は重盛の行動を苦々しく思っていたのではないか。
12月22日、天皇の元服のための冠の頭形が取られたが、その場に重盛・宗盛が参入したことに、兼実は二人もいる必要はないと批判している。12月30日、重盛は大納言を辞し、宗盛が中納言に任じられている。重盛は天皇の元服儀式に出席できなくなった。
平氏一門の専横と反平氏感情
平氏一門の栄達にともなって、その専横な行動が目に余るようになって、貴族社会の中での反平氏感情が、再び表面化しはじめてきた。平氏一門はその権勢を誇り、一方では院近臣や斜陽化しはじめた摂関家を中心とする勢力の間に、平氏の専横を阻止せんとする空気が広がりはじめた。「殿下乗合」事件は、当時のこうした貴族社会の空気を示す好例である。
7月26日
・藤原俊成、皇后宮大夫を兼ねる。
9月20日
・平清盛、後白河法皇を福原の別荘に招き、宋人との面会を実現させる。九条兼実は「我が朝、延喜以来未曾有の事なり。天魔の所為か」(「玉葉」)と書く。
10月9日
・「住吉社歌合」。判者藤原俊成。
10月19日
・「建春門院北面歌合」。判者藤原俊成。
10月21日
・高倉天皇元服儀式の会議に参内途中の松殿基房(摂政藤原基房)、大炊御門堀河辺で多数の武士に襲われる。殿下乗合事件の報復。参内中止し、朝議延期となる。24日、松殿基房、参内。平重盛は仕返しを警戒して多数の武士従え参内。
10月25日
・後白河法皇の御所で高倉天皇元服儀式の会議。
10月27日
・藤原清輔、九条兼実(22)邸を訪問(「玉葉」)。清輔は2年前に「和歌初学抄」を著し摂関基房に献じる。兼実はこれを兄基房より聞き、清輔に師事することになる。兼実は清輔を「和歌の道において上古に恥ぢざる人なり」と高く評価。
12月8日
・時忠・信範の官位を元に復する。
12月14日
・摂政松殿基房、太政大臣に任命。
12月30日
・平重盛、権大納言を二度目の辞任。
平維盛(13)、右近衛権少将に任命(父重盛の二度目の権大納言辞任と引き換えの人事)。平宗盛(24)、権中納言・右衛門督に任命。
平経盛(47)、従三位に叙任(非参議)。
維盛が、資盛を官位で抜き返す。殿下乗合事件の発端になった資盛の非礼が影響したのかも知れない。
つづく
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