大杉栄とその時代年表(58) 1891(明治24)年11月 瀬戸内寂聴さんの『炎凍る 樋口一葉の恋』の中の「日記の謎」について(なぜ、一葉は明治24年11月24日の日記を途中で処分したのか?) より続く
1891(明治24)年
12月
栃木県知事、示談契約案を沿岸各町村に示す(古川市兵衛に対し24~26年の3年間の被害に対して幾らかの金額を懇請、この3年間に被害が増加しても苦情を申し立てない)。同月、足利・梁田両郡9ヶ町村長、示談受入れ上申。
12月
漱石、J.M.ディクソン教授に頼まれて『方丈記』の英訳と解説を脱稿。
「それにディクソンは ""excellent performance"" といふ賛辞を呈したのみならず、是を基礎として ""Chomei and Wordsworth. A Literary Parallel"" といふ題で、明治二十五年(一八九二)二月十日の『日本亜細亜協会』の例会で講演を試み、この訳文にいくらか手を入れたものを朗読し、後この訳文は ""A Description of My Hut"" と改題されて、ディクソンの名前で、明治二十六年(一八九三)の『日本亜細亜協会会報』に、講演とともに掲載されたが、その初めにディクソンは、この翻訳の原稿・解説並に翻訳の細部の説明に関しては、文科大学英文科学生夏目金之助君の、価値ある助力に俟つところ甚大であったと書いてゐる。」(小宮豊隆『夏目漱石』)
12月
森鴎外「早稲田文学の没理想」(『しがらみ草子』)。逍遥・鴎外の没理想論争、始まる。
「鴎外は同誌明治二十四年十二月号に「早稲田文学の没理想」という一文を発表し、「没理想」の「没」を「無」と、そして「理想」を「イデエ」ととらえ、ドイツ仕込みの該博な新知識によって逍遥を駁した。
半年以上にわたるこの論争は、普通、森鴎外の勝利ととらえられている。実感をもとにして語る逍遥は、誰がこう言っている、誰の説ではこうなっているとアチラの新知識を振りまわして(今でもこういう批評家や学者は数多い)、文学に「美学」というイデオロギーを当てはめ論じる鴎外の前で、お馬鹿さんのように見える。・・・・・。
没理想論争に関して紹介しておきたいのは、折口信夫の見解だ。折口は「逍遥から見た鴎外」という一文で、こう語っている。
逍遥が「理想」と言つたのは、今で言へば、いでおろぎいの事で、「理想」と言ふのは、語の良すぎた訳だ。それにしても、明治二十年代に、逍遥が既に、いでおろぎいのない文学を唱導し、いでおろぎいの文学が、文学の純粋の道でないと言ふ事を考へてゐたのは、鴎外の立論の確さに対しても、立派な価値を持つて、立ち向つてゐると言へる。
ここで折口が言う「今」というのは昭和二十三年のことであるが、私も折口とまったく同意見だ。」(坪内祐三『慶応三年生まれ七人の旋毛曲り』(新潮文庫))
12月初旬
子規、(寄宿舎追放事件後)、駒込追分町の借家(奥井家)へ転居。
小説「月の都」の執筆に着手。
「二十四年の暮の冬期休暇になつて、子規は常盤会を去つて、駒込の某地に間借りをした。寄宿舎のやうなガヤガヤする処では、所期の大事業を果すことは出来なかつたからだ。子規の大決心の内容を知つてゐる者は、行く先をを危みながらも、其の心理に同情せねばならなかった。子規はいつもの試験勉強とは別な、前途に光明を望んだ胸一杯な緊張味を持つて、大事業の前に跪坐(きざ)した。
(*その「大事業」とは、)小説「月の都」に筆を染めることであった。「月の都」は子規が世の中の舞台へ乗り出さうとする処女作であった。やがて大学を退学する前提の自己処理の積極的述作であった。
この猛精進を風のたよりに聞いたゞけでも、私達は胸を躍らせたものだつた。子規の出現によつて、文壇に如何やうな渦を捲き起すであらうがをさへ予見して痛快がるのだった。」(河東碧梧桐『子規の回想』)
「正岡はもはや常盤会寄宿舎の集団生活に耐えなかった。肺患と神経症がともに昂進していたからである。すでに同年四月二十八日付の大原への手紙で、彼は「色々と考へ見る処、私の病体を維持せんとするには、つまり家を持ちて養生に注意するにしかずと存じ」といっている。「例の著述」とあるのは、当時彼が執筆中だった小説『月の都』である。正岡はそれを早く「多少の金」にかえようとして焦っていた。彼を非難する松山の叔父たちに対する面目のためにも、小説を金にかえることは必要であった。
しかし、「来客謝絶の上ニテ」小説を書いていたはずの正岡は、かならずしもあらゆる客を絶っていたわけでけなかった。彼にはやはり自作を読み、激励してくれる相手が必要だったからである。金之助が正岡の下宿している本郷追分の奥井という邸をたずねると、彼は邸内に別棟を一軒借りていて 大得意で書きかけの『月の都』を見せた。便所に立つとき、正岡は金之助の前に出してあった火鉢をひょいと取りあげて、持ってはいった。金之助が、
「雪隠に火鉢を持って行ったって当ることができないじゃないか」
というと、正岡は、
「いや、当り前にするときん隠しが邪魔になっていかんから、後ろ向きになって前に火鉢を置いて当るんじゃ」
といった。その火鉢で、正岡はへきえきしている金之助におかまいなしに、牛肉をじゃあじゃあと煮てすすめた。」(江藤淳『漱石とその時代1』)
冬
子規、「俳句分類丙号」に着手。
「芭蕉いらいの膨大な俳句を独力で分類し記録するという大仕事に着手したことは、感歎などというなまやさしいことばでは言いつくせまい。かんがえただけでも目のくらむような、ほとんど絶望的な勇気を必要とするほどのものとして、むしろあきれかえるよりはかないようなものである」(久保田正文『正岡子規・その文学』)
12月
ランボーの韻文詩、ロドルフ・ダルザン序文で「追悼詩集(Reliquaire(聖遺物箱))」として出版。ランボー家との論争の始まり。
12月2日
淘綾郡有志者399名総代簑島清吉、石阪昌孝・山田泰造両代議士の紹介で地租軽減請願書を衆議院に提出。
12月5日
広津和郎、誕生。
12月7日
朝鮮駐在公使梶山鼎介、咸鏡道防穀令施行('89年)の損害として14万7,168円を朝鮮政府に要求(朝鮮側は要求を過大とし交渉難航)。
12月12日
海関税法案の提出に伴い、衆議院に特別委員会が設置され、9名の特別委員が選出される。石阪昌孝、委員となる。
12月13日
神奈川県、石阪昌孝・瀬戸岡為一郎などの衆議院議員・県会議員など自由党・改進党系合わせて30名ほどが出席し、議会解散の場合は民党側の代議士再選を図ることを相談。
12月17日
石阪昌孝、私設鉄道買収法案審査特別委員となる。
12月18日
第2議会。予算案(予算委員会で削減された)、本会議に付される。
この日、田中正造、「足尾銅山鉱毒の儀につき質問」、22~23日迄に神戸造船所・北海道幌内郡春別鉄道及び炭鉱・陸中釜石鉱山・阿仁及び院内鉱山・小阪銀山払下げに関する質問状、を提出。25日閉会となり、正造の質問書への答弁なし。
「「去ル明治廿一年ヨリ現今ニ旦リ、毒気ハ愈々其度ヲ加へ、田畑ハ勿論堤防竹樹ニ至ルマデ其害ヲ被リ、将来如何ナル惨状ヲ呈スルニ至ルヤモ測リ知ル可ラス」と被害の拡大と深刻化を予測すると同時に、被害に目をつぶり鉱毒の流出するにまかせている政府にたいして、「政府之ヲ緩慢ニ付シ去ル理由如何、既往ノ損害ニ対スル救治ノ方法如何、将来ノ損害ニ於ケル防遏ノ手順如何」と問題解決をせまる。
12月18日
甲府にて弘光治太郎・小松益猪、政敵に刺殺される
12月22日
海軍省所管予算審議。蛮勇演説。樺山海相、予算委員会で衆議院の査定案が海軍省の経常・臨時両部門(特に後者で2艘の製艦費と製鋼所設立費を全面削減)に不当な削減を加えたとし反駁。藩閥政府を自己評価。
杉田定一提案の陸海軍制改革上奏案は兵学を知らぬ者の勝手な「想像鋭」「虚妄」と決めつける。上奏案が海軍省は維新以降1億1千万円余の国費を費しその成果は甚だ不十分としている点を、事実に相違するとして反撃。海相演説は予算案と関係のない事に説きおよんでいるとの非難で議場は騒然となるが、議長の整理で樺山は演説を続行。「夫で明治七年は何の役であった、明治九年は・・・明治十六年はどう云ふ役であった。此の如きこの事件に於て(議場騒然、演説中断)、国体に対してどれ程・・・国権を汚したことがあるか」、しかるに予算委員は事実に反する理由を以て「今日海軍大臣が不信用だと言っては、斯くては却て事の事実を損ひ、事の即ち虚妄の事を連ねて海軍大臣が不信用であると云ふのは自ら不借用を招くの所以ではないか。分つた話であるじゃろう。そこでさ今日此新事業の新事業二件を削除せられたと云ふ如きは此の如き事件より起れり。此の如き事由に依って削除すると云ふことになれば、本大臣に於て遺憾千万である。此何回の役を経過して来た海軍であって、今迄此国権を汚し海軍の名誉を損した事があるのか。却て国権を拡張し海軍の名誉を施したことは幾度あるだろう。・・・此の如く今日海軍のみならず即ち現政府である」と述べる。
「現政府は、此の如く内外国家の艱難を切抜けて今日まで来た政府である。薩長政府とか、何政府とか云つても、今日国の此安寧を保ち、四千万の生霊に関係せず安全を保ったと云ふことは誰の功カである(笑声大に起る)、甚だ御笑に成る様の事ではござりますまい」と、藩閥首脳の心情を極めて自然に吐露。
12月25日
松方内閣、第2議会解散(最初の解散)。田中正造の質問状黙殺。軍艦建造費や製鋼所設立費など890万円余の予算削減案を可決(予算総額の約1割)。この日、政府は議会解散を奏請、天皇は即日勅命によって衆議院を解散。政局は大波乱。
12月25日
この日付の一葉(19)日記の断片。
「今日は半井うし約束の金持参し給ふべき約なれば、其事となく心づかひす」とある。桃水に借金をしているが、その経過などについては、日記には残されていない。
12月26日
自由党事務所で代議士総会開催。板垣総理、辞任を表明、大井憲太郎・星亨・石阪昌孝ら、慰留の発言。
12月27日
政府系新聞「国会」、「政府は積極的進歩の方針」(鉄道を中心とする公共投資を積極的に行う政治路線)をとると表明。民党の「政費節減・民力休養」に対抗。松方デフレを抜け出し米価は回復し、農村地主(有権者)が地租軽減に関心を持たなくなる日が近づく。
12月27日
自由倶楽部、自由党に復帰。
12月31日
二葉亭四迷(27)、4歳年少の友人杉野鋒太郎と最初の妻になるつね(18)の実家・神田東紺屋町の桶屋福井粂吉方に転がり込む。つねは娼婦、のち離婚。
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