1901(明治34)年
5月
田中正造官吏侮辱事件、前橋地裁、無罪。控訴。
5月
京都・大阪の各銀行で取付け。
5月1日
尾崎秀実、東京に誕生。
5月1日
「 病牀で絵の写生の稽古(けいこ)するには、モデルにする者はそこらにある小い器か、さうでなければいけ花か盆栽の花か位で外に仕方がない。その範囲内で花や草を画いて喜んで居ると、ある時不折(ふせつ)の話に、一つの草や二つ三つの花などを画いて絵にするには実物より大きい位に画かなくては引き立たぬ、といふ事を聞いて嬉しくてたまらなかつた。俳句を作る者は殊に味ふべき教である。
(五月一日)」(子規「墨汁一滴」)
5月1日
5月1日~5月2日 ロンドンの漱石
「五月一日(水)、 Tooting Bec Common (トゥーティシグ・ペック共有地)から、西南の Streatham Common (ストレータム共有地)に行く。M May Day (メーデー)に赴く。
五月二日(木)、 Tooting Bec Common (トゥーティング・ペック共有地)に行く。鏡と中根の母カツからの手紙など届く。筆の写真も封入されている。領事館の諸井六郎に手紙を出す。 Hill & Hoggan (Glasrow University)から手形を送って来る。」(荒正人、前掲書)
5月2日
伊藤博文首相、閣内不統一のため辞表提出。渡辺国武蔵相を除く各大臣も辞表提出。天皇は、枢密院議長西園寺公望を首相臨時代理に命じ、3日、西園寺に渡辺国武蔵相の辞表提出説得を命じる。
5月2日
「(前略)
附けていふ、碧梧桐(へきごとう)近時召波(しょうは)の句を読んで三歎す。余もいまだ十分の研究を得ざれども召波の句の趣向と言葉と共にはたらき居る事太祇(たいぎ)蕪村(ぶそん)几董(きとう)にも勝るかと思ふ。太祇蕪村一派の諸家その造詣(ぞうけい)の深さ測るべからざる者あり。暁台(きょうたい)闌更(らんこう)白雄(しらお)らの句遂(つい)に児戯(じぎ)のみ。
(五月二日)」(子規「墨汁一滴」)
5月3日
「 ある人いふ勲位(くんい)官名の肩書をふりまはして何々養生法などいふ杜撰(ずさん)の説をなし世人を毒するは医界の罪人といはざるべからず、世には山師(やまし)流の医者も多けれどただ金まうけのためとばかりにてその方法の無効無害なるはなほ恕(じょす)べし、日本人は牛肉を食ふに及ばずなど言ふ牽強附会(けんきょうふかい)の説をつくりちよつと旧弊家丁髷(ちょんまげ)連を籠絡(ろうらく)し、蜜柑(みかん)は袋共に食へとか、芋の養分は中よりも外皮に多しとか、途方(とほう)もなき養生法をとなへて人の腸胃を害すること驚き入つたる次第なり、故幽谷(ゆうこく)翁なども一時この説に惑ひて死期を早められたりと聞けり、とにかく勲位官名あるために惑はさるる人も多きにやあらん。世人は薬剤官を医者の如く思ふ人あれど薬剤官は医者に非ず、かつその薬剤官の名さへ十分の資格もなくて恩恵的にもらひたるもありといへばあてにはならぬ事なり云々。
先頃手紙してこの養生法を余に勧めたる人あり。その時引札やうのものをも共に贈られたり。養生法の引札すら既に変てこなるに、その上に引札の末半分は三十一文字に並べられたる養生法の訓示を以て埋められたるを見ていよいよ山師流のやり方なる事を看破(かんぱ)せり。世の中に道徳の歌、教育の歌、あるいはこの養生法の歌の如き者多くあれどかかる歌など作る者に真の道徳家、真の教育家、真の医師ありし例なき事なり。今ある人の説を聞いて余の推測の違はざるを知れり。
(五月三日)」(子規「墨汁一滴」)
5月3日
5月3日~5月4日 ロンドンの漱石
「五月三日(金)、 Streatham Common (ストレータム共有地)まで行く。 Hill & Hoggan に受取を出す。諸井六郎から返事来る。神田乃武のロンドン滞在を知る。下宿の主人(Mr. Brett)に手形交換を頼む。池田菊苗を迎える部屋の準備できる。
五月四日(土)、池田菊苗を待ったが、来ない。 Balham (バラム)に赴き、薔薇二輪(六ペンス)・百合三輪(九ペンス)買う。帰りに、鉄道馬車に乗ろうとしたら、乗務員に降りる人を待てと肩を抑えられる。公徳心あると感心する。」(荒正人、前掲書)
5月4日
「 しひて筆を取りて
佐保神(さほがみ)の別れかなしも来ん春にふたゝび逢はんわれならなくに
いちはつの花咲きいでゝ我目には今年ばかりの春行かんとす
病む我をなぐさめがほに開きたる牡丹の花を見れば悲しも
世の中は常なきものと我愛(め)づる山吹の花散りにけるかも
別れ行く春のかたみと藤波の花の長ふさ絵にかけるかも
夕顔の棚つくらんと思へども秋待ちがてぬ我いのちかも
くれなゐの薔薇ふゝみぬ我病いやまさるべき時のしるしに
薩摩下駄(さつまげた)足にとりはき杖つきて萩の芽摘みし昔おもほゆ
若松の芽だちの緑長き日を夕かたまけて熱いでにけり
いたつきの癒ゆる日知らにさ庭べに秋草花の種を蒔(ま)かしむ
心弱くとこそ人の見るらめ。
(五月四日)」(子規「墨汁一滴」)
5月5日
「 岩手の孝子(こうし)何がし母を車に載せ自ら引きて二百里の道を東京まで上り東京見物を母にさせけるとなん。事新聞に出でて今の美談となす。
たらちねの母の車をとりひかひ千里も行かん岩手の子あはれ
草枕(くさまくら)旅行くきはみさへの神のいそひ守らさん孝子の車
みちのくの岩手の孝子名もなけど名のある人に豈(あに)劣らめや
下り行く末の世にしてみちのくに孝の子ありと聞けばともしも
世の中のきたなき道はみちのくの岩手の関を越えずありきや
春雨はいたくなふりそみちのくの孝子の車引きがてぬかも
みちのくの岩手の孝子文(ふみ)に書き歌にもよみてよろづ代(よ)までに
世の中は悔いてかへらずたらちねのいのちの内に花も見るべく
うちひさす都(みやこ)の花をたらちねと二人し見ればたぬしきろかも
われひとり見てもたぬしき都べの桜の花を親と二人見つ
(五月五日)」(子規「墨汁一滴」)
5月5日
5月5日~6日 ロンドンの漱石。
「五月五日(日)、朝、ベルリンから池田菊苗が来る。(六月二十六日(水)まで、五十二日間同宿する)午後、池田菊苗と共に、散歩に出る。二人で、世界観・禅・教育・中国文学・理想美人について意見を交換したり、雑談をしたりする。神田乃武・諸井六郎(推定)・菊池某訪ねて来る。
五月六日(月)、 Royal Institution of Great Britain (「イギリス王立研究所」科学普及をもやっていた)に赴く。夜十二時過ぎまで池田菊苗と話す。」(荒正人、前掲書)
5月5日 漱石の下宿に池田菊苗が来て2ヵ月間同宿する(5月5日~6月26日)。池田の影響を受けて「文学論」の著述を計画する。
「池田は翌五月五日の日曜日に到着し、二人は午後早速散歩に出た。金之助はこの日在英中の男爵神田乃武、領事館員の諸井某らの訪問をも受けた。金之助が急速に池田に惹かれて行ったことは、六日の『日記』に「池田菊苗氏ト Royal Institute ニ至ル。夜十二時過迄池田氏ト話ス」とあるところからもうかがわれる。池田も金之助に好意を感じたらしく、七日には「池田氏写真ヲ恵マル」という記事がある。」
「『日記』には随所に金之助と池田の交友が深まって行くしるしがあらわれている。五月九日には「夜池田氏卜英文学ノ話ヲナス。同氏ハ頗ル多読ノ人ナリ」とあり、十五日には「池田氏と世界観ノ話、禅学ノ話抔ス。氏ヨリ哲学上ノ話ヲ聞ク」とある。さらに十六日には「夜池田氏ト教育上ノ談話ヲナス。又支那文学ニ就テ話ス」と記されている。「Streatham ニ神田先任ヲ訪フ。先生結婚上ノ議論ヲ述ブ。 love or duty. 畠ニテ cows, pigs, fowls ヲ見ル。頗ル愉快ナル家ナリ。昼飯ノ饗応アリ」(五月十二日)というように、めずらしく金之助が他家を訪問したりしているのも、池田という友人を得て例になく心が開かれたためと思われる。鏡子にあてた手紙では「新服を作る余裕がない」といっているが、金之助はついに洋服を新調する決心さえしている。五月十七日の『日記』に、「晩洋服屋来ル。見本を置て帰る」とあるのがそれである。」(江藤淳『漱石とその時代2』)
「池田君は理学者だけれども話して見ると倖い哲学者であつたには驚ろいた。大分議論をやつて大分やられた事も今に記憶してゐる。倫敦で池田君に逢ったのは自分には大変な利益であった。御蔭で幽霊の様な文学をやめて、もつと組織だつたどつしりした研究をやらうと思ひ始めた。それから其方針で少しやつて、全部の計画は日本でやり上げる積で西洋から帰って来ると、・・・・・」(「時機が来てゐたんだ - 処女作追懐談」(『文章世界』3巻12号、1908年9月))
つづく
0 件のコメント:
コメントを投稿