1901(明治34)年
5月20日
「 痛むにもあらず痛まぬにもあらず。雨しとしとと降りて枕頭(ちんとう)に客なし。古き雑誌を出して星野博士の「守護地頭(じとう)考」を読む。十年の疑一時に解(と)くるうれしさ、冥土(めいど)への土産一つふえたり。
(五月二十日)」(子規「墨汁一滴」)
5月20日
ペテルブルク、オブホフ軍需工場ストライキ。軍隊と衝突。
5月20日
ドイツ、ドイツ語での宗教授業に反対しポーランド人学校でストライキ。
5月20日
5月20日~21日 ロンドンの漱石。
「五月二十日(月)、「夜池田卜話ス理想美人ノ description アリ両人共頗ル精シキ説明ヲナシテ兩人現在ノ妻ト此理想美人ヲ比較スルニ殆ンド比較スベカラザル程遠カレリ大笑ナリ」(「日記」)髯をひねって議論する。
五月二十一日(火)、髯の右のつけ根病む。朝、洋服屋、見本を持って来る。 Dr. Craig の許に行く。一ポンド払う。次回分の前払いを含む。」(荒正人、前掲者)
5月21日
鉱毒調査有志会、結成。神田キリスト教青年会館、三好退蔵・富田鉄之助・田口卯吉ら3名発起。「鉱毒のため死者の有無調査のため」、三宅雪嶺・陸羯南・徳富蘇峰・、秋山定輔・黒岩周六・高田早苗・島田三郎・谷干城・三浦梧楼・内村鑑三・松村介石・潮田千勢子・三輪田真佐子・矢島楫子・山脇房子・島地黙雷・田中弘之ら51名。
内村ら、10日余現地調査し、「鉱毒地巡遊記」(「万朝報」)発表。
この活動は、11月「足尾銅山鉱毒調査報告書 第一回」刊行。
5月21日
この日付の堺利彦の「日記」
「これから先、ミチの病中、二年か三年か五年か知らぬけれど、予は全くミチを養ふために働かうと思ふ、予の功名心は其の跡(ママ)で満足させればよい、予が国家社会のために働くべき事があるならば、やはり其の跡で働けばよい、病みたる女房のある間は、其の療養と看護とのために予の全力を費して少しも残念でない、功名心なんぞはどうでもよい、国家社会のためなんぞに働かなくてもよい、予は只予の情を満足させればそれでよい、人は馬鹿といふか知らぬがおれはそれでよい。」
5月21日
「 余は閻魔(えんま)の大王の構へて居る卓子(テーブル)の下に立つて
「お願ひでござりまする。
といふと閻魔は耳を擘(つんざ)くやうな声で
「何だ。
と答へた。そこで私は根岸の病人何がしであるが最早御庁(おんちょう)よりの御迎へが来るだらうと待つて居ても一向に来んのはどうしたものであらうか来るならいつ来るであらうかそれを聞きに来たのである、と訳を話して丁寧に頼んだ。すると閻魔はいやさうな顔もせず直(すぐ)に明治三十四年と五年の帖面を調べたが、そんな名は見当らぬといふ事で、閻魔先生少しやつきになつて珠数(じゅず)玉のやうな汗を流して調べた結果、その名前は既に明治三十年の五月に帳消しになつて居るといふ事が分つた。それからその時の迎へに往たのは五号の青鬼であるといふ事も書いてあるのでその青鬼を呼んで聞いて見ると、その時迎へに往たのは自分であるが根岸の道は曲りくねつて居るのでとうとう家が分らないで引つ返して来たのだ、といふ答であつた。次に再度の迎へに往たといふ十一号の赤鬼を呼び出して聞いて見ると、なるほどその時往たことは往たが鶯(うぐいす)横町といふ立札の処まで来ると町幅が狭くて火の車が通らぬから引つ返した、といふ答である。これを聞いた閻魔様は甚だ当惑顔に見えたので、傍から地蔵様が
「それでは事のついでにもう十年ばかり寿命を延べてやりなさい、この地蔵の顔に免じて。
などとしやべり出された。余はあわてて
「滅相(めっそう)なこと仰(おっ)しやりますな。病気なしの十年延命なら誰しもいやはございません、この頃のやうに痛み通されては一日も早くお迎への来るのを待つて居るばかりでございます。この上十年も苦しめられてはやるせがございません。
閻王(えんおう)は直に余に同情をよせたらしく
「それならば今夜すぐ迎へをやろ。
といはれたのでちよつと驚いた。
「今夜は余り早うございますな。
「それでは明日の晩か。
「そんな意地のわるい事をいはずに、いつとなく突然来てもらひたいものですな。
閻王はせせら笑ひして
「よろしい、それでは突然とやるよ。しかし突然といふ中には今夜も含まれて居るといふ事は承知して居てもらひたい。
「閻魔(えんま)様。そんなにおどかしちやあ困りますよ。(この一句菊五(きくご)調)
閻王からから笑ふて
「こいつなかなか我儘(わがまま)ツ子ぢやわい。(この一句左団(さだん)調)
拍子木(ひょうしぎ) 幕
(五月二十一日)」(子規「墨汁一滴」)
5月21日
ニュージーランドの英国人ウィリアム・K・ダーシー(アングロ・ペルシアン石油会社の創設者)、南部イランで60年間の石油採掘権取得。条件は、現金2万ポンド、額面2万ポンド払込済株券、年間利益16%の提供。しかし、1908年マスジッド・スレイマン油田が発見されるまで石油は発見されず。
5月22日
伊藤博文、伊東巳代治を訪問、第5次伊藤内閣組織の意欲を示し、伊東に調整依頼。
23日、伊東が桂を訪問。伊藤組閣に賛成の感触を得る。
25日、桂から伊東に連絡。山県・井上は伊藤の復帰に反対とのこと。
5月22日
「 遠洋へ乗り出して鯨(くじら)の群を追ひ廻すのは壮快に感ぜられるが佃島(つくだじま)で白魚舟(しらうおぶね)が篝(かがり)焚(た)いて居る景色などは甚だ美しく感ぜられる。太公望(たいこうぼう)然として百本杭に鯉(こい)を釣つて居るのも面白いが小い子が破れた笊(ざる)を持つて蜆(しじみ)を掘つて居るのも面白い。しかし竹の先に輪をつけて臭い泥溝をつついてアカイコ(東京でボーフラ)を取つては金魚の餌(えさ)に売るといふ商売に至つては実に一点の風流気もない。それでも分類するとこれもやはり漁業といふ部に属するのださうな。
(五月二十二日)」(子規「墨汁一滴」)
5月22日
5月22日、23日 ロンドンの漱石
「五月二十二日(水)、夜、池田菊田と Tooting Bec Common (トゥーティング・ペック共有地)に赴き、男女がベンチに腰かけたり、草原に坐したり、抱き合って接吻している光景を見る。
五月二十三日(木)、 Tooting Bec Common (トゥーティング・ペック共有地)に行く。鏡から手紙二通、文部省からも来る。『太陽』二部届く。第五高等学校の桜井房記から外人教師を招く件で手紙来る。」(荒正人、前掲書)
5月23日
井上馨、組閣辞退。山県有朋・井上馨らは、元老会議で桂太郎を首相に推薦。
5月23日
「 漱石が倫敦(ロンドン)の場末の下宿屋にくすぶつて居ると、下宿屋の上(かみ)さんが、お前トンネルといふ字を知つてるかだの、ストロー(藁)(わら)といふ字の意味を知つてるか、などと問はれるのでさすがの文学士も返答に困るさうだ。この頃伯林(ベルリン)の灌仏会(かんぶつえ)に滔々(とうとう)として独逸(ドイツ)語で演説した文学士なんかにくらべると倫敦の日本人はよほど不景気と見える。
(五月二十三日)」(子規「墨汁一滴」)
5月24日
幸徳秋水「社会党鎮圧策」(「万朝報」)。
5月24日
「 病床に寐て一人聞いて居ると、垣の外でよその細君の立話がおもしろい。
あなたネ提灯(ちょうちん)を借りたら新しい蝋燭(ろうそく)をつけて返すのがあたりまへですネそれをあなた前の蝋燭も取つてしまふ人がありますヨ同じ事ですけれどもネさういつたやうな事がネ……
などとどつかの悪口をいつて居る。今の政治家実業家などは皆提灯を借りて蝋燭を分捕(ぶんどり)する方の側だ。尤(もっと)もづうづうしいやつは提灯ぐるみに取つてしまつて平気で居るやつもある。
提灯を返せ/\と時鳥(ほととぎす)
(五月二十四日)」(子規「墨汁一滴」)
つづく
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