2024年12月9日月曜日

大杉栄とその時代年表(339) 1901(明治34)年5月25日~31日 「余は漱石と二人田圃を散歩して早稲田から関口の方へ往たが大方六月頃の事であつたらう、そこらの水田に植ゑられたばかりの苗がそよいで居るのは誠に善い心持であつた。この時余が驚いた事は、漱石は、我々が平生喰ふ所の米はこの苗の実である事を知らなかつたといふ事である。都人士の菽麦を弁ぜざる事は往々この類である。もし都の人が一匹の人間にならうといふのはどうしても一度は鄙住居をせねばならぬ。」(子規「墨汁一滴」)

 

 Lambeth Cemetery (ランべス墓地)

大杉栄とその時代年表(338) 1901(明治34)年5月20日~24日 「病みたる女房のある間は、其の療養と看護とのために予の全力を費して少しも残念でない、功名心なんぞはどうでもよい、国家社会のためなんぞに働かなくてもよい、予は只予の情を満足させればそれでよい、人は馬鹿といふか知らぬがおれはそれでよい。」(堺利彦の日記) より続く

1901(明治34)年

5月25日

女性民権運動家中島俊子(37)、没。

5月25日

「明星」12号、1ヶ月遅れで発行。高村光太郎が寄稿し、新しく玉野花子・林のぶ子・増田雅子が登場。

5月25日

子規編、碧梧桐・虚子共編『春夏秋冬』春之部をほととぎす発行所より刊行。漱石の俳句16句を収録。

5月25日

ノルウェー、女性にも地方選挙の選挙権が制限付与。

5月25日

5月25日~26日 ロンドンの漱石


「五月二十五日(土)、 Lambeth Cemetery (ランべス墓地)に行く。広い墓地で辺鄙な場所である。

五月二十六日(日)、 Whitsunday (Whit Sunday 聖霊降臨祭 Pentecost ペンテコスト) Lambeth Cemetery (ランベス墓地)に行く。」(荒正人、前掲書)


5月26日

天皇、桂太郎に対して組閣命令。桂は伊藤と熟議したいと答え退出。夕方、桂・西園寺は大磯に伊藤を訪問し伊藤に再任を勧める。伊藤は応じず(桂の底意を見抜く)。

27日、伊東は桂に対し、今首相を引受ければ、後日必ず伊藤から報復を受け、世代交代に悪影響を来たすと忠告。

28日、桂は伊東に強要され、伊藤に首相復任を求める書簡。伊藤は桂に首相就任を受けるよう返書。

29日、伊藤は帰京して桂と会談。

30日、伊藤・桂、参内。伊藤は復任意志はないと言明。                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                           

5月26日

中江兆民、その後ノドの腫物が大きくなり呼吸が苦しく安眠できなくなったので、堀内医師や従弟の医師浅川範彦の意見で、気管切開をすることになった。手術はのどに穴を開け、カニュール(挿入管)を外から挿入して気管と通じさせるもので、この日、堀内医院で実施した。これによって呼吸は容易となり、食事もやわらかいものは支障なく飲みこむことができるようになった。しかし音声を発することは困難で、筆談で意思を伝えることになった。手術後、6月18日まで堀内医院前の浅尾氏の一室を借りて療養。


5月26日

「『近古名流手蹟(しゅせき)』を見ると昔の人は皆むつかしい手紙を書いたもので今の人には甚だ読みにくいが、これは時代の変遷で自(おのずか)らかうなつたのであらう。今の人の手紙でも二、三百年後に『近古名流手蹟』となつて出た時にはその時の人はむつかしがつて得読まぬかも知れぬ。それからもう一時代後の事を想像して明治百年頃の名家の手紙が『近古名流手蹟』となつて出たらどんな者であらうか。その手紙といふ者は恐らくは片仮名平仮名羅馬(ローマ)字などのごたごたと混雑した者でとても今日の我々には読めぬやうな書きやうであらうと思はれる。

(五月二十六日)」(子規「墨汁一滴」)

5月27日

山陽線の神戸~馬関(下関)間が全線開通。これにより、神戸~馬関間の山陽鉄道が全通となり、馬関-門司間渡船により、山陽・九州両鉄道が連絡。

5月27日

米最高裁判所、プエルトリコ人は事実上、米市民ではないと判決

5月27日

5月27日~28日 ロンドンの漱石


「五月二十七日(月)、 Whitmonday (Whit Monday 聖霊降臨祭翌月曜日)。 Bank Holiday (一般公休日)。「頗ル賑カナリ吾住む處ハ Epsom 街道ニテ茲ニ男女馬車ヲ駆り喇叭ヲ吹テ通ルヿ夥シ、近所ノ貧民共文往来ニ充満ス」(「日記」)

五月二十八日(火)、 Whittuesday (Whit Tuesday 聖霊降臨祭翌翌火曜日)。下宿の主人(Mr. Brett)と共に Battersea (バタシー)の  Home for Lost Dogs and Cats (「迷い犬猫収容所」)に行く。行方不明になっていた Mr. Jack (ジャック)を訪ね、焼いた犬の骨二片貰う。帰りに、 Battersea Park (バタシー公園 Thames River 南岸)に行く。鈴木禎次(推定)宛に、絵葉書を出す」(荒正人、前掲書)

5月28日 漱石、下宿のブレット氏とバタシーの迷い犬猫収容所へ行く。引っ越して間もなく犬のミスター・ジャックが行方不明になっていたが、ミスター・ジャックはすでに処分されていた。ブレット氏は犬の骨2片を渡された。


5月28日

朝鮮、李在守の乱。済州城内の呼応により城門開き民軍入城。


5月28日

「 今は東京の小学校で子供を教へて居る人の話に、東京の子供は田舎の子供に比べると見聞の広い事は非常な者であるが何事をさせても田舎の子よりは鈍で不器用である、たとへば半紙で帳面を綴(と)ぢさせて見るに高等科の生徒でありながら殆ど満足に綴ぢ得る者はない。これには種々な原因もあらうが総ての事が発達して居る東京の事であるから百事それぞれの機関が備つて居て、田舎のやうに一人で何も彼もやるといふやうな仕組でないのもその一原因であらう、これは子供の事ではないが余は東京に来て東京の女が魚の料理を為し得ざるを見て驚いた、けれども東京では魚屋が魚の料理をする事になつて居るからそれで済んで行く、済んで行くから料理法は知らぬのである、云々との話であつた。道理のある話でよほど面白い。自分も田舎に住んだ年よりは東京に住んだ年の方が多くなつたので大分東京じみて来て田舎の事を忘れたが、なるほど考へて見ると田舎には何でも一家の内でやるから雅趣のあることが多い。洗濯は勿論、著物(きもの)も縫ふ、機(はた)も織る、糸も引く、明日は氏神(うじがみ)のお祭ぢやといふので女が出刃庖刀を荒砥(あらと)にかけて聊(いささ)か買ふてある鯛(たい)の鱗(うろこ)を引いたり腹綿(はらわた)をつかみ出したりする様は思ひ出して見るほど面白い。しかし田舎も段々東京化するから仕方がない。

(五月二十八日)」(子規「墨汁一滴」)

5月28日

キューバの憲法制定議会、プラット修正条項を採択。

5月29日

清国、列強の、義和団事件の賠償金4億5,000万両要求を受諾。

5月29日

警視庁がペスト予防のため、車夫・馬丁のはだしを厳禁。


5月29日

「 その先生のまたいふには、田舎の子供は男女に限らず唱歌とか体操とかいふ課をいやがるくせがあるに東京の子供は唱歌体操などを好む傾きがある、といふ事であつた。これらも実に善く都鄙(とひ)の特色をあらはして居る。東京の子は活溌でおてんばで陽気な事を好み田舎の子は陰気でおとなしくてはでな事をはづかしがるといふ反対の性質が既に萌芽(ほうが)を発して居る。かういふ風であるから大人に成つて後東京の者は愛嬌(あいきょう)があつてつき合ひやすくて何事にもさかしく気がきいて居るのに反して田舎の者は甚だどんくさいけれどしかし国家の大事とか一世の大事業といふ事になるとかへつて田舎の者に先鞭(せんべん)をつけられ東京ツ子はむなしくその後塵(こうじん)を望む事が多い。一得一失。

(五月二十九日)」(子規「墨汁一滴」)

5月29日

英の孤立政策を擁護するソールズベリー首相の覚書により、1898年以来の英独同盟に関する論議に終止符。

5月29日

5月29~30日 ロンドンの漱石


「五月二十九日(水)、 Dr. Craig の許に行く。鏡と遠山参良から手紙来る。夜、鏡に返事出す。 London University (ロンドン大学)の Prof. Hales (ヘールズ教授)に第五高等学校から教師招聘の依頼について手紙出す。下書を間違えて送る。

五月三十日(木)、 Prof Hales (ヘールズ教授)から手紙を返送してくる。二通認め、清書を送り直す。」(荒正人、前掲書)


5月30日

朝鮮、李在守の乱。民軍、大静邑へ引揚げ。


5月30日

「 東京に生れた女で四十にも成つて浅草の観音様を知らんといふのがある。嵐雪(らんせつ)の句に

五十にて四谷を見たり花の春

といふのがあるから嵐雪も五十で初めて四谷を見たのかも知れない。これも四十位になる東京の女に余が筍(たけのこ)の話をしたらその女は驚いて、筍が竹になるのですかと不思議さうにいふて居た。この女は筍も竹も知つて居たのだけれど二つの者が同じものであるといふ事を知らなかつたのである。しかしこの女らは無智文盲だから特にかうであると思ふ人も多いであらうが決してさういふわけではない。余が漱石(そうせき)と共に高等中学に居た頃漱石の内をおとづれた。漱石の内は牛込(うしごめ)の喜久井町(きくいちょう)で田圃たんぼからは一丁か二丁しかへだたつてゐない処である。漱石は子供の時からそこに成長したのだ。余は漱石と二人田圃を散歩して早稲田(わせだ)から関口の方へ往たが大方六月頃の事であつたらう、そこらの水田に植ゑられたばかりの苗がそよいで居るのは誠に善い心持であつた。この時余が驚いた事は、漱石は、我々が平生(へいぜい)喰ふ所の米はこの苗の実である事を知らなかつたといふ事である。都人士(とじんし)の菽麦(しゅくばく)を弁ぜざる事は往々この類である。もし都(みやこ)の人が一匹の人間にならうといふのはどうしても一度は鄙住居(ひなずまい)をせねばならぬ。

(五月三十日)」(子規「墨汁一滴」)

5月31日

朝鮮、李在守の乱。仏軍艦5隻・水兵270、入港。李在守ら民軍指導者3人逮捕。ソウルへ護送。絞首刑2人。


5月31日

「 僅(わず)かにでた南京豆(なんきんまめ)の芽が豆をかぶつたままで鉢の中に五つばかり並んで居る。渾沌(こんとん)。

(五月三十一日)」(子規「墨汁一滴」)


つづく

0 件のコメント: